2014年3月12日水曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(3) 「「吉野の桜」で想像される具体的な中身に、ソメイヨシノはうまくはまった。」

外濠の桜(飯田橋駅前辺り) 2012-04-09
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2 想像の桜/現実のサクラ
花と名
ソメイヨシノがそれほど革新的で、桜の歴史をかえるはどのものであったなら、なぜソメイヨシノは「桜」とよばれたのだろうか?
「・・・この(*ソメイヨシノ)革命はたんに桜の歴史をぬりかえたたけではない。むしろ、どのようにぬりかえたのか、そのぬりかえ方のほうがはるかに興味ぶかい。桜とは何か、もう少していねいにいうと、桜と私たち人間とが取り結んでいる関係が、そこから見えてくるからだ。
・・・ソメイヨシノがそれほど革新的で、桜の歴史をかえるはどのものであったなら、なぜソメイヨシノは「桜」とよばれたのだろうか? ・・・」

ハクサイのケース:
ハクサイはアプラナ科の植物で、桜が属するバラ科と同じく、自家不和合性がある。
「・・・板倉聖宣『白菜のなぞ』によると、明治八年(一八七五)に政府の勧業寮農務課の調査団が中国から持ちこんだ。その後、日清戦争で出征した兵士のなかでも評判になり、本格的な栽培がはじまる。ソメイヨシノと同じくらい新顔なのだ。
なぜハクサイが日本に渡って来れなかったのか。板倉は面白い推理を展開している。渡って来なかったのではなく、来たが長続きしなかったのではないか、というのである。
ハクサイの種をふつうの畑にまいて、育ったものから種をとる。その種を育てると、今度はハクサイとはちがう代物ができてしまう。勧業寮が輸入したハクサイの種も、二代目になるとほっくり丸まらないはかりか、緑がかった緑葉になってしまった。
原因は種のでき方にある。ハクサイはアプラナ科の植物で、桜が属するバラ科と同じく、自家不和合性がある。「S遺伝子」とよばれる遺伝子が同じ場合、花粉とめしべの間で種子ができないのだ(ハクサイと桜では「S遺伝子」のしくみがちがうが)。そのため、雑種ができやすい。
日本列島にはもともとアプラナやカブ、コマツナなど、ハクサイに近い植物が多い。その花粉がハクサイのめしべにつくと、できた種子はハクサイとは別のものになる。正体はハクサイカブ(笑)だったりするわけだ。それでも葉がハクサイで根がカブならいいが、日向康吉『菜の花からのたより』によれは、ハクサイとカブの雑種は葉がカブで根がハクサイになってしまう。これでは使えない……。」

「桜」とよばれた理由
ハクサイもカブもコマツナも、黄色いきれいなアブラナの花をつけるが、ハクサイとかカブとかコマツナとかよばれつづけた
「ハクサイもカブもコマツナも、花だけみるとほとんど区別できない。黄色いきれいなアブラナの花をつける。もし人間がその花に関心をむけていたら、「キバナ」とかなんとか雅(みやび)な名前をつけていたのではないか。学名はすべて Brassica rapa だから、分類学上はそうなっても全くおかしくない。
もちろん、現実にはそうならず、ハクサイとかカブとかコマツナとかよばれつづけた。それは人間の関心がもっぱら食べる箇所の形状にむけられていたからである(ハナナというのもあるが)。」

桜は、花が命
「桜の場合はどうだろうか。桜は観賞用だけでなく、堅い材質を活かして、彫刻や工芸品にもなる。実も食べられる。サクランボウである。今でも欧米では桜は果樹と見なされているくらいだが、日本語圏においては、人々の関心は圧倒的にその花に集中してきた。桜とは何よりもその花を見るものであり、花の色や形、咲く時期などが昔から注目されてきた。
例えば、古典文学に出ている桜が今のどの種類にあたるのか、議論されることもある。この種の名前当てゲームは楽しいが、あやういものになりやすい。・・・昔の人の「見た目」と植物学の分類基準は必ずしも一致しない。それでもついやってしまうのは、花を手がかりに、その桜が何者であるか、知りたい気持ちが私たちの側にあるからだ。そのくらい桜は、花が命、である。」

ソメイヨシノが桜の風景を変えたとしても、それは従来の桜のイメージを根底的に覆すものではなかった
「・・・なぜソメイヨシノは「桜」とよばれたのか? 極端な話、もしソメイヨシノの花が従来の桜のイメージを本当に吹き飛ばすようなものであれは、それは「桜」とはよばれなかったはずである。ところが実際には、ソメイヨシノは「桜」とよばれた。桜の一つでありつづけた。つまり、ソメイヨシノが桜の風景を変えたとしても、それは従来の桜のイメージを根底的に覆すものではなかったのである。
ソメイヨシノはたしかに従来にない新しい花だった。衝撃的な花だといっていい。だが、その新しさがどう受け取られたか、いいかえればどう衝撃的だったかについては、あらためて考えてみる必要がありそうだ。」

ヨシノの由来
「染井村」と「吉野山」
「「ソメイヨシノ(染井吉野)」という名は、二つの地名からできている。「染井」は今の東京都豊島区駒込。ここはかつて染井村とよはれ、江戸後期から明治半はごろまでは園芸業の一大拠点であった。「吉野」はあの吉野、桜の名所として名高い吉野山の「よしの」からきている。」

明治23年藤野寄命が「ソメイヨシノ」と命名(染井で生まれた「吉野桜」)
「ソメイヨシノが学術的に同定されたのは明治二三年(一八九〇)、藤野寄命(きめい)による。この年、「ソメイヨシノ」と命名した彼の報告書が回覧された。学術雑誌に掲載されるのはそのさらに十年後、翌年に松村任三が正式に新種として記載する。
藤野は明治一八年から上野公園の桜を調査していた。精養軒の前通りで分類学上知られていない樹をみつけ、園丁係りに尋ねた。すると、多くは染井あたりより来る、という返車だったので、真の吉野桜と区別して、仮にソメイヨシノと名づけたと、後で事情を書き残している。
「真の吉野桜と区別して」というのは、当時この桜が「吉野」「吉野桜」とよばれていたからである。先にのべたように吉野の桜はヤマザクラで、ソメイヨシノではないが、吉野桜という名はすでに広く浸透していた。それで「ヨシノ」を残したのだろう。吉野の「ヨシノ」ではなく、「染井のヨシノ」だと伝える意図があったのかもしれない。」

江戸時代の「吉野桜」(ソメイヨシノではない)
「江戸時代で最も旧い園芸書とされる『花壇綱目』には「よし野 中輸八重一重」とある。元禄八年(一六九五)に染井の園芸業者三代目伊藤伊兵衛が編んだ『歌壇地錦抄』では、「吉野 中輪ひとえ山桜共いふ、吉野より出るたねは花多く咲て見事」とある。一七世紀終わり頃の染井周辺では、一重のヤマザクラを「吉野」とよんでいたらしい。岐阜県関市の大野神社にはヤマザクラ系の「吉野桜」が今もあり、元禄年間に植えたものと伝えられている(石垣和義『岐阜県の桜』)。
大田南畝の「花見の日記」にも「吉野桜」がでてくるが、これはあの「白桜」。幕末近く、弘化四年(一八四七)の坂本浩雪『十二ヶ月桜花図』でも、「吉野」桜は花と葉ともに大きな姿で画かれている。これもソメイヨシノとは考えにくい。」

江戸時代の「山桜」(ヤマザクラではない)
「「山桜」「吉野」両方でてくると、つい「山桜」がヤマザクラで「吉野」がソメイヨシノだと考えたくなるが、名称だけでは判断できない。「山桜」にしても、正徳二年(一七一二)に出版された『和漢三才図会』では「山桜 即チ彼岸桜之種類而花実共ニ小シ山中多有」とあり、これはエドヒガンにあたる。『櫻品』でも、山に多い、早めに咲く一重の桜をまとめて「山桜」とよぶ、とある。「山桜」にはもともと「山で咲く(ような)桜」という意味があり、ヤマザクラやヤマザクラ群だともかざらない。」

岩崎文雄の江戸染井起源説
「ソメイヨシノの起源をめぐっては現在もいくつか説があるが、有力な一つに岩崎文雄の江戸染井起源説がある。岩崎は一七三〇年ごろに人工交配でこの桜が作り出されたと推測している。岩崎説はなかなか説得力があるが、残念ながら、文献の言葉からは裏づけようがない。」

17世紀以降にソメイヨシノが出現し、いつの間にか「吉野桜」と呼ばれるようになった
「結局のところ、ある程度の確からしさでいえるのは、一七世紀以降のどこかの時点でソメイヨシノが出現し、いつの間にか「吉野桜」とよばれるようになった、ということだけである。」"

「名」の力
染井の伊藤某なる老槖駝が数年の苦心をもって新品を作り出し、これを売出しに際し「吉野の桜」と称して鬻いだ
「ソメイヨシノが「吉野桜」と名づけられたのは宣伝のためだといわれてきた。さまざまな起源説も、この点ではほぼ一致する。例えは荒川堤の桜を育てた一人、船津静作はメモにこう書き残している(岩崎文雄「ソメイヨンノの起源」『採集と飼育』四八(4)号より。なお表記は適宜現代語化した、〔 〕内は引用者の注記、以下同じ)。

伝え言う所によると大島桜を母として作り出したというが、その技術賞は都下染井の戸花(ママ)伊藤某なる者で、この老槖駝(たくだ)〔=園芸業者〕が数年の苦心をもって……新品を作り出し、これを売出しに際し吉野の桜と称して鬻(ひさ)いだ〔=売った〕。
当時交通の開けざるれば吉野の花の美をのみ聞いて、未だその春を知らざる江戸の人士はこの花の妙なる色香に眩惑し、吉野の桜は此の如く美なるものかと、我も人もこの老槖駝・・・の猾手段に乗ぜらるを知らず争ってこの新品を購い、庭園に栽培すると、たまたま関東一帯の地味気候がこの品種に適したので、たちまちにして大木となり、江戸天地は光り輝やくまでに咲き匂った。爾来、偽吉野は関東の地に蔓延し、従来の山桜の如きは片隅に圧伏せられるに至った。」

吉野桜の名と明治初年に於ける宣伝が良かった
「戦前の東京市公園課長で雑誌『櫻』の編集兼発行人、井上清もソメイヨンノが普及した理由の一つに、「吉野桜の名と明治初年に於ける宣伝が良かったこと」をあげている(「染井吉野桜」『櫻』一七号)」

ソメイヨシノには「これこそ吉野の桜だ!」と思わせる何かがあった
「しかし、「騙された」「宣伝がよかった」というのは、事態の半面でしかない。売る側には売る側の企図が当然あっただろうが、買う側にはそれとは別に貰う理由がある。吉野桜の名で広まったというのは、「吉野桜」として受け入れられたということでもある。ソメイヨシノには「これこそ吉野の桜だ!」と思わせる何かがあったのだ。」

今のいわゆる吉野桜なるものが、普通の山桜よりすこぶる美しいのは一奇とすべきである(前田曙山)
「実際、前田曙山という人が『曙山園藝』(明治四四年)でこう書いている。

吉野の桜は普通の山桜にして、小金井の老樹と何ら選ぶ所がない、しかるに今のいわゆる吉野桜なるものが、普通の山桜よりすこぶる美しいのは一奇とすべきである‥…・。

曙山は明治四年生まれ、明治三十年代から大正にかけて活躍した人気作家で、園芸の研究家としても知られる。『明治園藝史』にも著作が収められている。
実はこの人も「騙された」一人である。曙山は明治三六年に『草木栽培書』という本を出しているのだが、それには「吉野桜 は大和吉野山の一日千本の桜なり、山桜を砧(たい)として接ぐ、……上野飛鳥山の公園、墨田川堤など、皆此種なり」とある。「吉野桜」が吉野のヤマザクラの一種だと信じていたのだ。『園藝の友臨時増刊 さくら』にも、「花は桜、桜は山桜、山桜は吉野」などと、調子よく書いている。」

老花戸は大胆にも吉野桜と称した
「その後で正体を知ったのだろう。『曙山園藝』では「吉野の桜」という項をわざわざもうけて、吉野の桜でないソメイヨシノの由来を詳しく載せている。
「伝え聞く所によれば、徳川氏の中世」、つまり江戸時代の中頃に、染井に腕のよい老園芸業者がいた。「この男が永年の丹精をこらして単弁桜の新種を造り出したのが、今の上野向島にある吉野桜である」。
「この桜の命名に就いて、彼はすこぶる苦心したらしい」。昨今ならは、名をあげるために、自分の名前を冠してかえって新種の名花の興趣をそいだにちがいないが、「老花戸は大胆にも吉野桜と称した。しかもその新種を自家の捻出とは言わず、吉野山より取寄せたるものだと吹聴したのである。彼の商策は見事的申した」

ソメイヨシノが吉野山由来であると「騙された」理由
「まるで見てきたような話ぶりである。曙山がどこからこの話を聞いてきたのかは、ソメイヨシノの起源ともからんで興味ぶかいが、今は「騙された」理由の方に注目したい。

当時交通機関の具備せざるおりから、歌に、詩に、はた人伝てに、吉野山の桜の美に憧憬しながら吉野山の花を見ない、名にのみ聞いて、予想のみ盛んであったから、この欠陥に乗じて、吉野桜と世を欺いて売出したのは実に策の至れるもので、大下の人気は……これに集まり、ついに染井の一花戸が造れる変種は、自然を凌駕して、吉野山の名花になり遂せた。天一坊がご落胤で押通したのである。

最後の「天一坊」というのは、ヤマザクラ好きの八代将軍徳川吉宗の隠し子=「ご落胤」だと名乗り出た人物である。吉宗は紀州藩(現在の和歌山県と三重県南部)の藩主から将軍家をついだが、その後、天一坊が現われて大騒動になった。
吉野山は紀州藩の領地の近くにある。ソメイヨシノを吉野山から来たと称したことを、天一坊が紀州藩主の血筋だと称したことにひっかけたのだ。」

想像の美・現実の美
「吉野の桜」という名だけが広く知られて、人々の想像力をかきたてた
「「吉野の桜」という名だけが広く知られて、人々の想像力をかきたてていた。だからこそ、吉野桜という商品名(ブランド)が見事にはまった、と曙山はいう。人気作家らしい発想だが、騙された当人の実感でもあろう。」

「吉野桜が普及する前に、「吉野の桜」という名が日本語の世界で普及していた。そういう名の地層、想像力の地層の上に、ソメイヨシノは根づき、広まっていったのである。・・・」

「吉野の桜」で想像される具体的な中身に、ソメイヨシノはうまくはまった
「「吉野桜」と名づければ、どんな桜でも同じように成功したわけではない。・・・「吉野の桜」で想像される具体的な中身に、ソメイヨシノはうまくはまった。その想像力の土壌に特に合った品種だったのである。」

ソメイヨシノは密集して植えると特に映える
「ソメイヨシノは密集して植えると特に映える。・・・ソメイヨシノの出現以前に、花見の主流が群生した桜を見て楽しむ形にかわりつつあった。そして、吉野山は「下千本、中千本、上千本」といわれるように、たくさんの桜が集まって咲く場所として知れわたっていた。」

その想像と現実の重層の上に、ソメイヨシノは花を咲かせた
「その想像と現実の重層の上に、ソメイヨシノは花を咲かせた。曙山はこうつづける。

しかもこの花たるや、在来流布したる山桜の比ではない、淡紅英を舒(の)べ、……、瀰望(びぼう)一抹、谷につらなり嶺にまたがり、遠山の霞と見紛うところ、妍英(けんえい)濫発天地皆紅の花と化すのである。この晴々しく潔よき花品は、さらぬだに驕奢豪懐(きょうしゃごうかい)なる江戸人士の喝采を博し、士民競うてこの吉野桜を邸宅に植えた。しかるに関東の地味は、特にこの新種に適して、成育すこぶる佳良なるため、我も我もこぞってこれを移植するに及んで、関東一円の桜はほとんどこの種ならざるはなく、もって今日に及んで益々旺盛になってきた。・・・紅霞燦然(こうかさんぜん)たる長堤十里の花がそれである。鑑賞花木の園芸的変種の成功として、吉野桜の如くなるは、前後全くない。」
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