2014年3月5日水曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(64) 「三十四 浅草の「一味の哀愁」」 (その4終) 「時代が急速に戦時体制へと移行するなかで、「時代遅れ」の浅草オペラに関わり、踊子たちと親しく付き合う。そこに荷風の文士としての抵抗があった。」

北の丸公園 2014-03-04
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「葛飾情話」は二幕から成る人情もの。
東京郊外、葛飾の郊外バスの運転手と女車掌が主人公。二人は愛し合っているが、女は、どうしても映画女優になりたいからと男と別れる。何年かたって、男は休茶屋の娘と結婚している。女は、映画女優になる夢を果せず、カフェーの女給となり淪落の日を送っている。何年ぶりかで町に帰ってきた女は、かつての恋人の妻が貧しい実家を抱えて金に困っているのを知ると、自分が身替りになって身体を売る。

よくある人情芝居だが、舞台が荒川放水路沿いの船堀あたりになっているのが荷風ならでは。
荷風は上演が決定したあと、稽古を見るために連日オペラ館に通った。

昭和3年4月25日
「夜十時過オペラ館に至り拙作歌劇背景圖案を小川氏に交附す」
自分で舞台の背景画の案を作り、それを演出家の小川丈夫に手渡している。熱意のほどがうかがえる。

5月11日
背景画の画家が実際に荒川放水路を見てみたいというので、荷風が自ら案内。
「余の台本は船堀邊の堤防を舞台にせしものなれど、道遠ければ圓タクにて堀切橋に至り綾瀬川の西岸を歩む」

初日の前夜(5月16日)
俳優たちに祝儀を出す。
「祝儀は一人金五圓ヅゝ七拾人総額参百五拾圓也」。
とかく吝嗇といわれる荷風だが、こういうところは気が大きい。
「旦那」の気分だったのだろう。荷風自身は無報酬だったから、この仕事は「旦那」の道楽のようなものである。

初日は5月17日。
「晴。歌劇葛飾情話初日なり。午前十一時に起き淺草に走せ赴く。菅原君楽座に立ちて指揮をなし、正午情話の幕を揚ぐ。意外の成功なり。器楽の演奏悪しからず。テノール増田は情熱を以て成功し、アルト永井は美貌と美聲とを以て成功し、ソプラノ眞弓は誠實を以て成功をなしたり。微雨屢来りて蒸暑甚し。演奏後小川丈夫と蔦屋に一酌してかへる。午前三時」
公演後の荷風の興奮が伝わってくる。
演出の小川丈夫と午前3時まで飲んでいる。
ちなみに「蔦屋」は、高見順がよく通った合羽橋の飲み屋である。

10日間の上演中、荷風は連日オペラ館に出かけている。

5月21日
「正午よりオペラ館に在り。午後観客席にて川尻清潭翁に會ふ。夜銀座の諸子来る。閉場後舞踏家高清子及び永井智子菅原君と共に森永に飲む。余大酔して新橋の旧事を語る」
酒席でも乱れることのなかった荷風が「大酔」するのは珍しい。

終演は5月26日。
「館主大入祝の赤飯を座員に配布す」とある。興行的に成功した。
閉場後、荷風は関係者と千束町の洋食屋で打上げを行ない、宴が終ったあとはオペラ館に戻り、三階の女優部屋で仮眠をとった。まるで演劇青年のような興奮ぶり。

翌朝
「午前四時半菅原小川の二氏と共に車にて永井智子を谷中の家に迭りて後、墓地を歩み上田柳村先生の墓を拝す」。
谷中墓地にある柳村上田敏の墓を訪れているのは、菅原明朗に語ったように上田敏がオペラを作りたいという夢を持っていたことを知っていたからだろう。
荷風は後輩として無事に浅草オペラの上演を終えたことを上田敏の墓前に報告した。

「葛飾情話」は現在いうオペラとはまったく違い、いまふうではミュージカル。それも上演時間45分の小品。
興行的な成功は、有名作家の永井荷風が浅草のレヴュー劇場に台本を書き下したということで新聞雑誌が書きたてたことによるところが大きい。

当時、早稲田大学学生だった郡司正勝は『荷風別れ』(コーベブックス、昭和51年)のなかで、オペラ館で「葛飾情話」を見た思い出を記す。
「私など見終ってがっかりした舞台であった」
「背景の書割が、まるで明治時代の油絵のように大げさで生々しかったことを覚えている」
「淪落の女となった車掌が、恋人の妻の身替となって身を売り、急場を救ってやるという陳腐なパターンも、ドサ回りの新派さながらであった」
こう厳しく書く郡司正勝も、「葛飾情話」には、荷風ならではの哀感があったことは認めている。
「ただ、バスの運転手とか、映画女優への憧れとか、千住あたりの向岸に遠く東京方面が見える放水路や、瓦斯タンクや鉄橋などのある暮れ近き春の日の舞台設定に、荷風好みの哀傷があって、ペシミスティックな気分の漂ったのが、浅草オペラの時代遅れが、一種の反時代性として秘かに快かったことを覚えている」

この「哀傷」「ペシミスティックな気分」こそが荷風が描きたかったものだろう。

「時代が急速に戦時体制へと移行するなかで、「時代遅れ」の浅草オペラに関わり、踊子たちと親しく付き合う。そこに荷風の文士としての抵抗があった。」(川本)

オペラ館は昭和19年3月31日には、建物疎開によって取り壊される。
「葛飾情話」は消えてゆく古き良き浅草に捧げられた荷風の白鳥の歌だったのかもしれない。

荷風が浅草の「哀愁」をいかに愛したかは、戦後書かれた随筆「草紅葉」(昭和21年)に詳しい。「わたくしの知ってゐた人達の中で兵火のために命を失ったものは大抵淺草の町中に住み公園の興行ものにたずさはってゐた人ばかりである」という書き出しで始まるこの随筆は、昭和20年3月10日の東京大空襲で消息を絶ったオペラ館ゆかりの人たちを思い出し、追悼した名文である。
大道具の頭、ピアノ弾き、観客からひいきの芸人に贈る薬玉や花環をつくる造花師、風呂番の老人。そうした無名の人たちが空襲で亡くなっていった。

そして荷風はとりわけ栄子という踊子のことを思い出す。
「葛飾情話」がオペラ館で上演されることになったとき、栄子もこれに出演することになった。5月17日、初日の幕が開こうとする頃、楽屋を訪ねると栄子は風呂敷に包んで持って来た強飯(コワメシ)を竹の皮のまま荷風の前にひろげて「家のおっかさんが先生に上げてくれツていひました」とすすめた。その日は三社権現の祭礼の日だったのである。

「舞台の稽古が前の夜に済んで、初日にはわたくしの来ることが前々から知れてゐたからでもあらう。母親は日頃娘がひいきになる其返禮といふ心持ばかりでなく、むかしからの習慣で、お祭の景気とその喜びとを他所から来る人にも頒ちたいと云ふやうな下町気質を見せたのであらう。日頃何につけても、時代と人情との變遷について感勤しやすいわたくしには、母親のこの厚意が何とも言へない嬉しさを覚えさせた。竹の皮を別にして包んだ蓮根の煮附と、刻み鯣(スルメ)とに、少々甘すぎるほど砂糖の入れられてゐたのも、わたくしには下町育ちの人の好む味ひのやうに思はれて、一層うれしい心持がしたのである」

この栄子は東京大空襲でどうなったか。荷風はこう書くしかない。
「わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、婆婆に居残ってゐる事を心から折ってゐる」
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