2015年2月9日月曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(118) 「第18章 吹き飛んだ楽観論-焦土作戦への変貌-」(その2) : 「(バグダッド陥落の4ヶ月後の2003年8月)、キューバのグアンタナモ収容所所長ジェフリー・ミラー少将がイラクに到着する。彼の任務はアブグレイブ刑務所を「グアンタナモ化」することだった。」

マンサク 2015-02-06 北の丸公園
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身体ショック療法
エスカレートするショック療法:突然の拘束と拷問
 抵抗運動が拡大するにつれ、占領軍のショック戦術もエスカレートしていった。
 深夜または早朝、米軍兵士はいきなり民家に押し入り、懐中電灯で暗い部屋の奥を照らして英語でわめきちらした(・・・)。・・・。男たちは頭部に袋をかぶせられて軍用トラックに乗せられ、刑務所や収容所へ連行された。
占領開始から三年半の間に米軍は推定で六万一五〇〇人のイラク人を逮捕・拘束したが、その大部分に「逮捕時の衝撃を最大限にする」手法が用いられたのだ。
 二〇〇七年春の時点でも約一万九〇〇〇人が依然として拘束されており、刑務所内ではさらなるショック療法が与えられた。バケツの冷水を浴びせたり、牙をむいてうなるジャーマンシェパード犬をけしかけたり、殴る蹴るの暴行を加えたり、さらには針金を使って電気ショックを甘えることもあった。

 三〇年前、新自由主義推進運動が始まったときに用いられたのも、これとよく似た戦略だった。当時、破壊分子あるいはテロリスト容疑者とみなされた者は自宅から連行され、目隠しをされたり袋をかぶせられたりして暗い独房へと送り込まれ、殴る蹴るの暴行、あるいはもっとひどい拷問を与えられた。
そして今、イラクに自由市場経済モデルを実現するという願望をかなえるため、プロジェクトは原点に立ち戻った。

拷問戦術強化が不可避となった理由
 こうした拷問戦術の強化が不可避となった理由のひとつは、アウトソーシング化を進める今日の企業に倣って軍を運営するというラムズフェルドの確固たる考えにある。・・・司令官たちが当初要求した五〇万という戦闘員の数を二〇万以下にまで減らしてもまだ満足しなかった彼は、企業CEOよろしく、最後段階でさらに数万人を削った。

 ぎりぎりまで兵力を削った軍隊でもフセインを打倒することはできたが、プレマーの命令が引き起こした事態 - イラク市民の公然たる反逆と、イラク軍と警察の崩壊によって生じた人きな空白 - には対処できなかった。

 治安を維持するだけの兵力を持たない占領軍は次善策を採用する。それが、イラク人を手当たり次第に捕まえて刑務所へぶち込むという手法だった。
こうして拘束された数万人のイラク市民が、抵抗運動に関する情報ならどんなことでも収集しようというCIA捜査官や米軍兵士、そして民間契約者(専門的訓練を受けていない者も少なくなかった)によって過酷な尋問を受けることになった。

国外から「専門家」を導入
 占領初期にはポーランドやロシアから経済的ショック療法の専門家を招き入れたグリーンゾーンだったが、今やここは異なるタイプのショック療法専門家 - 抵抗運動弾圧の残忍な手口を熟知したスペシャリストたち ー が集まる磁場と化していた。
民間セキュリティー会社では、コロンビア、南アフリカ、ネパールで「汚い戦争」を経験した元軍人をごっそり雇い入れた。ジャーナリストのジェレミー・スケイヒルの報告によれば、ブラックウォーターをはじめとする民間セキュリティー会社は、イラクに配備する要員としてチリから七〇〇人以上の軍人を雇い入れていたという。特殊工作部隊の隊員も相当数含まれ、なかにはピノチェト政権下で訓練を受けた軍人もいた。

「エルサルバドル・オプション」の導入
 ショック療法専門家のトップの一人は米軍司令官ジェームズ・スティール・・・。二〇〇三年五月にイラク入りしたスティールは、かつて中米の右派勢力支援活動において主要な役割を担い、「暗殺部隊」の悪名を持ついくつかのエルサルバドル陸軍大隊のアメリカ人首席顧問を務めたこともある。近年はエンロン社副社長の座にも就き、当初はエネルギー問題コンサルタントとしてイラク入りした。だがイラク人による抵抗運動が激化すると、かつての役どころに戻ってプレマーの安全保障担当首席顧問となる。やがてスティールは、ペンタゴンの匿名情報筋が恐ろしげに「エルサルバドル・オプション」と呼ぶ手法をイラクに導入するよう指示を受けた。

2003年8月(バグダッド陥落の4ヶ月後)には、虐待・拷問が表面化する
 人権監視団体ヒューマンライツ・ウォッチの主任研究員ジョン・シフトンによれば、イラクでの捕虜虐待行為は通常のパターンには当てはまらないという。・・・

(イラクでは)、「初めから専門的手法による虐待が行なわれ、事態は良くなるどころか悪化の一途をたどった」。シフトンによれば、変化が起きたのはバグダッド陥落から四ヵ月経った二〇〇三年八月下旬だった。

刑務所内での拷問が表面化したのは、もっとも議論を呼んだプレマーの経済的ショック療法が導入された直後にあたる。

各種の法律を制定し、地方選挙を中止させたプレマーの長い夏が終わったのが、二〇〇三年八月下旬だった。プレマーの一連の決定は抵抗者の数をさらに増大させ、それに呼応するように米軍兵士が民家を襲撃しては兵役年齢の男たちを一人また一人と捕らえ、反逆に関する情報を絞り出そうという動きが始まったのである。

アブグレイプ刑務所での虐待スキャンダル
 (一連の機密)資料は二〇〇三年八月一四日付Eメールで始まる。駐留米軍司令部の情報担当将校ウィリアム・ポンス大尉がイラク各地に駐留する同僚将校に送ったこのEメールには、その後有名になった一節が含まれている。

 「拘束者への尋問はもう手加減なしだ。(中略)(ある大佐が)言うように、一人残らず吐かせなければならない。兵員の損耗も増加しており、わが軍の兵士をこれ以上の攻撃から守るために情報を収集する必要がある」。尋問官が拘束者に使うことのできるテクニックはないか、ポンスがアイディア(「希望リスト」)を募ったところ、すぐさま同僚たちからさまざまな提案が寄せられた。なかには「低圧電流による感電」というものもあった。

 二週間後の八月三一日、キューバのグアンタナモ収容所所長ジェフリー・ミラー少将がイラクに到着する。彼の任務はアブグレイブ刑務所を「グアンタナモ化」することだった。

 ミラーのイラク入りから二週間経った九月一四日、駐留米軍最高司令官リカルド・サンチェス中将は、グアンタナモ収容所を手本とした一連の新たな尋問方法を許可する。それは意図的な辱めのテクニック(「プライドとエゴの剥奪)から「犬に対するアラブ人の恐怖心を利用する方法」、感覚遮断(「光のコントロール」)、感覚への過負荷(怒鳴り声を浴びせる、大音響の音楽を聴かせる)、そして「無理な姿勢」を取らせることまで多岐にわたっていた。アブグレイブ刑務所であの悪名高い写真が撮られたのは、サンチェスが許可を出してから間もない一〇月初旬のことである。

新たな作戦:CIA「クバーク・マニュアル」に基づくショック戦術の個別化
 ブッシュ・チームは「衝撃と恐怖」作戦によっても、経済的ショック療法によってもイラクをねじ伏せることができなかった。そこで次に取られたのがショック戦術の個別化、すなわちCIAの「クバーク・マニュアル」に示された決定的手法を使って心理的退行を引き起こすことだった。

バグダッド国際空港近くの秘密施設:なんの変哲もない小さな建物にある五つの部屋
 重要度が高いとみなされた拘束者の多くは、米軍特殊部隊とCIAが管理するバグダッド国際空港近くの保安区域にある秘密施設へ連れて行かれた。ここには特別の身分証明書を持つ者しか入れず、赤十字にもその存在を隠し、軍高官でさえ出入りが禁じられていたほどだった。その存在を隠蔽するために、名称も「タスクフォース20」「タスクフォース121」「タスクフォース6-26」「タスクフォース145」など、頻繁に変えられた。

 拘束者は一見なんの変哲もない小さな建物に収容された。建物の内部は完全な感覚遮断をはじめ、「クバーク・マニュアル」に書かれている状況を作り出せるようになっており、五つの部屋 - 健康診断室、居間のように見える「ソフト・ルーム」(協力的な拘束者用)、レッド・ルーム、ブルー・ルーム、そしてもっとも過酷なブラック・ルーム ー に分かれていた。ブラック・ルームは内部がすべて真っ黒に塗りつぶされた小さな独房で、四隅にはスピーカーが設置してあった。

ある軍曹の内部通報によって存在が明るみに出る
 この秘密施設の存在が公に知られたのは、ここに勤務していたある軍曹がジェフ・ペリーという仮名でヒューマンライツ・ウォッチに通告してからのことである。アブグレイブ刑務所での虐待が、おおむね専門的訓練を受けていない監視兵によるその場の思いつきによるものだったのに対し、このCIA施設では不気味なほど冷静かつ整然と事が運ばれた。

ブラック・ルームでの「手荒な方法」
 ペリーの証言によると、ブラック・ルームで「手荒な方法」を使って拘束者を尋問する際、取調官はコンピューターで「拷問メニュー」とでも言うべき一覧表をプリントアウトする。「手口はすべてそこに書いてある」とペリーはふり返る。「室温を上げる、下げるとか、ストロボライトを使うとか、音楽をかけるとか。犬を使うというのもある。(中略〉そのなかから使いたいものにチェックを入れるんです」。取調官は記入した紙を上官のところへ持って行ってサインをもらう。「サインがもらえなかったことは一度もない」とペリーは証言する。
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