2015年2月5日木曜日

「「対テロ」 多様な視点示せ」 森達也 (『朝日新聞』2015-01-29) : 絆と連帯を求める集団は内部に異物を探し、外部には敵を求める。同調圧力が強くなり、忖度や自粛が前面に表れる。世界中が対テロで一体化しつつある現在だからこそ、メディアは多様な視点を提供しなければならない。たとえ売国や国賊と呼ばれても。

「対テロ」 多様な視点示せ (森達也) (『朝日新聞』2015-01-29)

 仏週刊新聞シャルリー・エブドへの襲撃事件直後、テロに抗議する大規模なデモ行進が行われたフランスに、世界40カ国以上の首脳が駆けつけた。「私はシャルリー」と書かれたプラカードを掲げながら「表現の自由を守れ」と叫ぶデモの様子は、最前列で腕を組みながら歩く各国首脳たちの映像と相まって、世界中に連帯の強さを印象づけた。

 対テロの姿勢は正しい。でもスローガンには違和感がある。表現の自由とは、これを抑圧する政治権力やシステムに対して行使すべき概念だ。その表現によって傷つく人がいるならば、無制限に行使されるべきではない。向きがまったく違う。

 さらに実のところ各国首脳たちは、デモの最前列を歩いてなどいなかった。デモ翌日の英インディペンデント紙(電子版)に、首脳たちの行進を少し上から撮った写真が掲載された。見た人は仰天したはずだ。首脳たちは通りを封鎖した一角で腕を組んでいた。後ろにいるのは市民ではなく、数十人の私服のSPや政府関係者だ。つまり首脳たちは市民デモを率いてはいない。

 ただしメディアが嘘をついたわけではない。首脳たちが市民デモの最前列で歩いたとは伝えていない。記事を読んだり映像を見たりした僕たちが、勝手にそう思い込んだだけだ。

 でも同時に思う。これはメディアが伝える「事実」の本質なのだと。

 コップは上か下から見れば円だけど、横から見れば長方形だ。どこを捉えるかがメディアの視点になる。時おり質問される。同じ事件や現象を伝えながら、朝日新聞と産経新聞はなぜこれほどに論調が違うのか。どちらが嘘をついているのかと。どちらも嘘ではない。視点が違うだけなのだ(誤報は除外する)。現実はコップの形よりはるかに複雑だ。すべての視点を伝えることは不可能だ。どれかを選択せねばならない。それがメディア各社の個性になる。

 でもこのときは世界のほとんどのメディアが、ひとつの視点しか提示しなかった。英インディペンデント紙の報道の後、ドイツの経済紙が同様の視点を伝えたが、日本では(僕の知るかぎり)いまだにひとつもない。理由は想像がつく。掲げられたテーマが「対テロ」であるからだ。

 世界ではアメリカ同時多発テロ以降、そして日本では地下鉄サリン事件以降、テロは社会に挑戦する絶対悪となった。その定義は、何らかの政治的目的を達成するために暴力による脅威で標的を恐怖に陥れること。

 つまり「テロに屈する」の正しい意味は、喚起された不安や恐怖を理由に、何らかの政治目的や宣伝を達成させてしまうことなのだ。

 ここまでを読みながら気づいた人もいるかもしれない。イスラム国による日本人人質事件だ。身代金を請求する行為は政治目的とは違う。むしろ営利目的だ。支払うことはテロに屈すると同義ではない。ただし一度支払えば反復されるリスクがある。だからこそ戦略や交渉が重要だ。遅くても今月初めの時点で身代金要求を政府は知っていたのだから、対応策はいくつかあったはずだ。しかし今、要求は政治目的にスライドした。この過程で「テロに屈するな」が交渉のブレーキになったのだとしたら、それはあまりに浅慮すぎる。

 地下鉄サリン事件以降、この国ではテロの解釈のインフレ(要するに濫用)が続いている。実のところオウムの事件はテロと断定できない。なぜなら政治目的が不明確だ。地下鉄にサリンを散布した動機や背景は明らかにされないまま、教祖の裁判は一審だけで打ち切られた。

 動機がわからないからこそ強く喚起された不安と恐怖によって、集団化が加速した。絆と連帯を求める集団は内部に異物を探し、外部には敵を求める。同調圧力が強くなり、忖度や自粛が前面に表れる。

 世界中が対テロで一体化しつつある現在だからこそ、メディアは多様な視点を提供しなければならない。たとえ売国や国賊と呼ばれても。

(もり・たつや 56年生まれ。映画監督・作家。明治大特任教授)






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