安保法制 安倍政権の「話法」から考える (『朝日新聞』2015-05-24)
安倍政権は今月、閣議決定した安全保障関連法案を「平和安全法制」と名付けた。憲法解釈を変変えて集団的自衛権の行使容認に踏み切ったことで「戦争法案」との批判も浴びるが、政権は「日本の安全と世界平和に貢献する」と説明する。長谷部恭男・早稲田大教授と、杉田敦・法政大教授の連続対談は今回、政治家の「話法」から、日本の民主主義の現在地について語り合ってもらった。
「平和安全法制」名前 アベコベ 長谷部
戦闘犠牲当然視してないか 杉田
杉田敦・法政大教授 安全保障法制の関連11法案が国会に提出されました。安倍政権は「平和安全法制」と銘打っていますが。
長谷部恭男・早稲田大教授 「戦争は平和である」
杉田 「新語法(ニュースピーク)」ですね。ジョージ・オーウェルの小説「1984」で、独裁者が国民に植え付け、復唱させたスローガンでした。
長谷部 安倍政権の語法はまさにニュースピークです。
「平和への積極的貢献」とは、地球上のどこへでも行って米軍の軍事作戦を支援すること。
それなのに、日本が米国の戦争に巻き込まれることは「絶対にありえない」。
自衛隊の活動範囲を拡大しても、隊員のリスクは高まらない。
自分への批判は「レッテル貼り」だが、自らが行う批判は「言論の自由」。
国会に法案を提出してもいないのに、米議会で「成立させる」と約束し、同時に民主主義のすばらしさを熱く語る。
どれもこれもアベコベです。
杉田 そう言えば、「無知は力である」も独裁者のスローガンの一つでした。安倍晋三首相は党首討論で、ポツダム宣言を「読んでいない」とし、先の戦争の評価についての質問に答えなかった。「戦後レジーム」からの脱却というなら、大前提の知識ですが。
長谷部 読んでもいないものから脱却しようとは、マジシャンそこのけです。そしてアペコベの集大成とも言えるのが、今回の安保法制です。そもそも憲法9条は集団的自衛権の行使を認めていません。行使容認に基づく法整備も当然認められない。法制化されれば、憲法9条は変えられたも同然です。日本を、地球上どこでも武力行使できる国に変えようというなら、正々堂々と憲法改正するのが筋です。
杉田 安倍さんは記者会見で、安保法制が成立したら自衛隊員の危険が増すのではという質問に、「発足以来、今までにも1800名の自衛隊員が殉職している」と応じました。しかし、これまで戦闘での死者はゼロです。かつて著書で軍事同盟を「血の同盟」と表現した安倍さんだけに、犠牲を当然視していないか気がかりです。
長谷部 実際に戦場から戦死者の遺体が帰ってきた時、1800プラス1になっただけだとでも言うつもりでしょうが。
杉田 踏まえておきたいのは、警察と軍隊の違いです。警察は、基本的には暴力を使うことが禁止され、例外としてこういう場合は使えるという「ポジティブリスト」に基づいて行動します。それに対して軍隊は「ネガティブリスト」に従う。基本的には暴力を使えるが、こういう場合は使ってはいけないという制約を受ける。暴力についての考え方が根本的に違います。
長谷部 その通りです。そして自衛隊は、一般的な軍隊とは違い、ポジティブリストで動いています。
杉田 つまり、自衛隊はこれまで警察に近い存在としてやってきた。ところが安保法制が整備されると、ぐっと軍隊に近づくと。
長谷部 憲法9条がある限り、ネガティブリストにはできないはずです。ただ「こういう場合は暴力を使える」の枠があまりにも広がるため、実際の運用において、ポジティブリストとして制約する意味が失われる明白な危険性がある。
憲法縛られぬ「期限付き独裁」 長谷部
疲れた国民 現状打破を支持 杉田
杉田 戦後、日本という国自体も、いわばポジティブリストでやってきたと言えます。憲法という外側からの縛りだけでなく、戦前の反省という内側の縛りもあって、権力は抑制的に行使されるべきだという国民的合意があった。ところが安倍さんや橋下徹・大阪市長は、それはおかしい、ネガティブリストにするべきだという発想です。政治の手を縛るのは非民主的だ、民主主義とは、選挙で選ばれた代表による、いわば期限付きの独裁なのだ - という安倍・橋下流の政治観が、支持を広げているようです。
長谷部 戦前の大日本帝国憲法はネガティブリストでした。天皇が全権力を持っているという前提で、天皇の名のもとでは元来、政府や軍隊はやりたいことを何でもできるはずだと主張されていた。それが戦後は、全権力が国民に移ったのだから、国民に選ばれた政治家が憲法に縛られるな
んておかしいというのが「期限付き独裁」の発想でしょう。
しかし日本国憲法は多様な価値観を抱く人々が公平に、尊厳をもって扱われるべきだとの立憲主義に立脚している。そこでは、政府は憲法によって与えられた権限のみを行使できる。誰かが全権力を保持しているという発想はありません。
杉田 そのように慎重に事を進めることに多くの国民が疲れてきたのかもしれません。景気が悪い中、なんでもいいから、強いリーダーに閉塞感を打ち破ってほしいと。そういう文脈で橋下さんという政治家も登場し、「大阪都構想」をぶち上げたわけですが、肝心の改革の内容がわかりにく
かっだ。それでも、このままではじり貧だから、とにかく変えてみようという人々もいるわけです。
長谷部 ひょっとするとその先に何かいいことがあるかもしれないと。
杉田 昨今の改憲論議と構造がよく似ています。何か具体的な問題から出発して、その解決のためには憲法を変えるしがないというのではなく、改正ありきで、どこが変えやすそうかと、みんなで探している。転倒した論理になっています。
政治判断 信用できるか 杉田
戦後の権力抑制に意義 長谷部
長谷部 政治家個人への支持と、その人が掲げる個別の政策に対する賛否は本来、別ものです。しかし橋下さんのように人気のある政治家は、一緒にしようとする。「私が言ってるんだから賛成して」と。ただ、このやり方には必ず賞味期限がある。飽きられたら終わりです。安倍さんが安保法制の関連法案を一気に短時間で成立させようとしているのも、その辺を意識しているかもしれない。
杉田 安全保障に関しては、これまでは憲法が、政治家の決定に枠をはめてきました。しかし安保法制が成立すれば、集団的自衛権行使の要件に該当するのか、自衛隊を海外に出すべきかなど、非常に重大な判断を、究極的には数人の政治家がすることになる。
ここをどう考えるか。戦後の日本は、戦前の日本が安全保障についてまともな判断ができず、国内外に多大な犠牲と被害をもたらしたという苦い悔恨の上に成立しました。
長谷部 まともな判断ができないばかりか、誰が決めたのか、誰に責任があるのかすらわかりません。
杉田 安保法制の問題を突き詰めていくと、最後は、政治を信用できるかという問題に突き当たる。戦前の「無責任の体系」は、戦後日本において払拭されたのか。原発政策などを見る限り、私は懐疑的です。国の存立にかかわる重大な判断を委ねてしまえるほど、政治を信頼できるかという思いがあります。
それに対して、「できない」「危ない」と縛っているから、いつまでたっても日本の政治が成熟しないのだ、緊急性の高い問題は、民主的に選ばれた代表である政治家の決定に委ねるしかないという批判が聞こえてきます。
長谷部 立憲主義は、たとえ民主国家であっても、政治家の判断は完全には信頼できないとの前提に立ちます。戦争について言えば、いま世界のどこに信頼できる国家があるでしょうか。米国は、軍事介入した中東各国を軒並み大混乱に陥れて、それが過激派組織「イスラム国」(IS)が跋扈するきっかけもなっている。権力をポジティブリストで抑制的に運用する戦後日本のプロジェクトの意義を、改めて見直すべき時期ではないでしょうか。=敬称略
(構成・高橋純子)
0 件のコメント:
コメントを投稿