2016年9月2日金曜日

【増補改定版】 大正12年(1923)9月4日(その1) 京成線・荒川鉄橋上での虐殺 「おん身らは誰を殺したと思ふ」(折口信夫が見た日本人の別の貌) 亀戸事件(亀戸警察署で、川合義虎・平沢計七ら10人の労働運動家、自警団4人、朝鮮人が殺害される)

大正12年(1923)
9月4日

・9月4日 火曜日 午前2時 京成線・荒川鉄橋上
体に残った無数の傷
一緒にいた私達20人位のうち自警団の来る方向に一番近かったのが林善一という荒川の堤防工事で働いていた人でした。日本語は殆んど聞き取ることができません。自警団が彼の側まで来て何か云うと、彼は私の名を大声で呼び『何か言っているが、さっぱり分からんから通訳してくれ』と、声を張りあげました。その言葉が終わるやいなや自警団の手から、日本刀が振り降ろされ彼は虐殺されました。次に坐っていた男も殺されました。この儘坐っていれば、私も殺されることは間違いありません。私は横にいる弟勲範と義兄(姉の夫)に合図し、鉄橋から無我夢中の思いでとびおりました。
慎昌範「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」

慎昌範は、8月20日、親戚など15人の仲間と共に日本に旅行に来て、関西を回り、30日に東京に着いた。

9月1日午前11時58分、上野の旅館で昼食中に地震に遭遇。
「生まれて初めての経験なので、階段から転げ落ちるやら、わなわなぶるえている者やら、様々でした。私は二階から外へ飛び降りました」
その後、燃えさかる街を逃げまどい、朝鮮人の知人を頼りながら転々と避難。東京で暮らす同胞も合流していた。

荒川の堤防にたどり着いたのは3日の夜。堤防の上は歩くのも困難なほど避難民であふれ、押し寄せる人波のために、気がつくと京成線鉄橋の半ばまで押し出されていった。
深夜2時頃、うとうとしていると、「朝鮮人をつまみ出せ」「剛鮮人を殺せ」という声が聞こえてくる。気がつくと、武装した一団が群がる避難民を一人一人起こしては朝鮮人かどうかを確かめているようだった。そして、鉄橋に上がってきた彼らが、この惨劇を引き起こした。

林善一が日本刀で一刀の下に切り捨てられ、横にいた男も殺害されるのを目の当たりにした慎は、弟や義兄とともに鉄橋の上から荒川に飛び込んだ。
だが彼は、小船で迫ってきた自警団につかまり、岸に引き上げられ、日本刀で切りつけられる。そして、その際、よけようとして小指を切断される。
彼は抵抗するが、日本人たちに襲いかかられて失神した。その後の記憶はないが、気がつくと、全身に傷を負って寺島警察署の死体置き場に転がされていた。同じく寺島署に収容されていた弟が、死体のなかに埋もれている彼を見つけて介抱してくれたことで、奇跡的に一命を取りとめた。

10月末、重傷者が寺島警察署から日赤病院に移される際、彼は朝鮮総督府の役人に「この度の事は、天災と思ってあきらめるように」と念を押された。重傷者のなかで唯一、日本語が理解できた彼は、その言葉を翻訳して仲間たちに伝えなくてはならなかった。日赤病院でもまともま治療は受けられず、同じ病室の16人中、生き残ったのは9人だけだった。
彼の体には、終生、無数の傷跡が残った。小指、頭に4ヵ所、右ほほ、左肩、右脇。両足首の内側にある傷は、死んだと思われた彼を運ぶ際、鳶口をそこに刺して引きずったためだ。

世田ケ谷警察署
4日に至りて鮮人、三軒茶屋に放火せりとの報告に接し、ただちに之を調査すれど、犯人は鮮人にあらずして家僕(使用人)が主家の物置に放火せるなり。

おん身らは誰を殺したと思ふ 折口信夫が見た日本人の別の貌

国びとの
心(うら)さぶる世に値(あ)ひしより、
顔よき子らも、
頼まずなりぬ

大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここ(増上寺山門)を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかを生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(あ)つて以来といふものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくまつてしまつた。

9月1日、折口は二度目の沖縄旅行を終えて帰る途中の門司港にいた。
その後、3日夜に横浜に上陸、4日正午から夜まで歩き続けて、ようやく谷中清水町(今の池之端)の自宅に戻った。

彼はその道々で、「酸鼻な、残虐な色々の姿」を見た。
サディスティックな自警団の振る舞いに「人間の凄まじさあさましさを痛感した。此気持ちは3ヵ月や半年、元通りにならなかった」。
この夕方、彼は増上寺門前で自警団に取り囲まれた。彼は、これまで見ることのなかった、この国の人々の別の顔を見たように感じた。

このショックは従来の「滑らかを拍子」の短歌では表現できないと痛感した折口(釈超空)は、新しい形式として4行からなる四句詩型をつくり出し、10数連の作品「砂けぶり」を創作する。

夜になった-。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらま町を 金棒ひいて
夜警に出るとしよう

かはゆい子どもが-
大道で、ぴちやぴちやしばいて居た。
あの音-。
不逞帰順民の死骸の-。

おん身らは 誰をころしたと思ふ。
陛下のみ名にかいて-。
おそろしい呪文だ。
陛下萬歳 ばあんぎあい

あなた方は、誰を殺したと思うのか。天皇の名の下で、という。
「誰」とは不思議な問いである。

赤坂青山警察署
同4日午後11時30分、青山南町5丁目裏通方面に方り、数ヶ所より、警笛の起ると共に、銃声がしきりに聞こゆるに至りて鮮人の襲来と誤認し、一時騒擾を生じたりしが、その真相を究むれば、附近邸内なる(附近の屋敷の中の)、月下の樹影を鮮人と誤解して警戒者の空砲を放てるものなりき。

亀戸事件
南葛労働会の川合義虎(1902~23)・平沢計七(1889~1923)ら10人の労働運動家、亀戸警察署で軍隊(習志野騎兵第13連隊員)に虐殺。ほかに自警団4人と多くの朝鮮人が殺害される。
9月末、布施辰治・春日庄次郎(出版産業従業員組合)ら10数人と荒川放水路土手を掘返して死体を捜す。
10月10日新聞発表。

3日夜、南葛労働会本部となっている川合義虎の家から、川合と居合わせた労働者山岸実司・鈴木直一・近藤広造・加藤高寿・北島吉蔵が検束され、同会の吉村光治・佐藤欣治、純労働者組合平沢計七が亀戸署に引き立てられる。

夜~翌日、亀戸署では多数の朝鮮人が殺害されるが、彼等も、拘留されている自警団員らと共に斬殺。亀戸署は家族に対し、釈放したと欺き事件を隠し続ける。

(見出し)「東京亀戸署が×余名を×殺した事実遂に暴露して発表さる」
「大震災の起った際、東京亀戸署に多数労働者殺戮の惨事が強行されたが、絶対に秘密を守ると同時に、警視庁は内務省警保局と打ち合はせ、一切掲載の禁止を命じて許さなかったところ、証拠として消すべからざる事実に対し、秘密は到底保たれ得ペくもあらず、遂に十日警視庁はその事実を発表せざるを得ざるに至った」(「大阪毎日新聞」10月11日)

南葛労働組合の属する総同盟と自由法曹団弁護士たちが事件を究明。
検束された夜の亀戸署は静かで暴動の起る気配もなかったこと、平沢らは連行され、裸体にされ激しい暴行の上、刺され首まで斬られる。

警察署の中で
朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。
朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見ては居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降り続きましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。
全虎巌(「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態」)

亀戸署は管内に工場が密集し、労働運動が盛んで、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署。当時の署長古森繁高も、もとは警視庁特高課労働係長。
また震災直後、亀戸署管内は混乱が激しかった。
警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは朝鮮人保護のためではなく、「不遅鮮人」検束への積極性の結果である。

亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。
自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかったとして逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続けたという彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させた。そこから、活動家や朝鮮人の虐殺が始まる。

全虎巌は、共産主義者の川合義虎などが指導する南葛労働組合メンバー。
学校に通うため2年前に来日した全は、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。
2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にして、全は身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かった。道すがら、竹ヤりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。
亀戸署に収容されていた朝鮮人には、自警団の襲撃を逃げのびて自らやって来た人も多かったと、全は証言している。だが、亀戸署内は外よりも危険な場所であった。

全は7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の旧捕虜収容所に送られた。
4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の収容所などに保護収容するとの命令を出した。
収容は10月未まで続いた。
解放後、全はいったんは帰国を考えるが、やはり亀戸に戻ることにする。組合の仲間たちの安否を確からたかったのだ。
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