2017年9月6日水曜日

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その4) 江東区/永代橋・越中島付近/大島の証言 「〔2日、永代橋で〕橋を渡り切った橋ギワに朝鮮人の殺された死体があった。橋詰めの交番は無茶苦茶にこわされていて、6、7名の朝鮮人の死体が転がされていた。首と胴が離れていた。日本刀で切られたものなのだろう。」

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その3) 葛飾区、北区の証言 「2日「戒厳令」がしかれると馬に乗った兵隊を先頭に水元の方から、手をしばられた多くの朝鮮人が〔中川〕土手を通って浦安の方へ連れて行かれる光景もありました。」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;江東区/永代橋・越中島付近〉

K・S〔当時国鉄職員〕
〔2日、永代橋で〕橋を渡り切った橋ギワに朝鮮人の殺された死体があった。橋詰めの交番は無茶苦茶にこわされていて、6、7名の朝鮮人の死体が転がされていた。首と胴が離れていた。日本刀で切られたものなのだろう。着ているものは普通の洋服であったが、顔で解った。今は朝鮮人も日本人も変らなくなったが、当時は着ているもの、歩き方とか顔立ちで、日本人と朝鮮人の違いはすぐ解った。死体が大きくふくれて、顔も大きくふくれていた。普通の死、罹災死ではないと思えた。
(三原令『聞き番き』→在日韓人歴史資料館所蔵)

黒木伝松〔歌人〕
〔2日、永代橋を渡った深川で〕「○○だな」と思った。両手を針金で後にくくりあげられたまま仰向けに、或は横に、うつぶしに倒れて死んでいる。着物は彼等の労働服だ。顔はめちゃめちゃである。頭、肩にはいずれも大きな穴があいており、血がひからびてくっついている。そこにはまた首のない死体がある。首が肩の際から立派に切り取られている。
(「震災見聞記」『創作』創作社、1923年10月→琴秉洞『朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2』緑蔭書房、1996年)

後藤甚太郎〔永代橋近くの深川入舟町で被災〕
2日の午後になって、朝鮮人のなかで放火したり、井戸に毒薬を投げ込むなどの悪事を働く者がいるので注意するようにという話が、まことしやかに広まり、そのため自警団を組織するから入るようにという話が持ち込まれたが、伯父は出て行かなかった。その後の話に、埋立地に避難していた朝鮮人を警官が前後を護衛して「いずこ」かへ連れ去った
震災当時、東京で見る朝鮮人のほとんどは土方仕事で、住居は河の土手などに建てられたバラック住まいが多く、一般市民との交際はほとんどなかった。朝鮮人だって、日本人と同じように食べ物を捜しに街へ出てくる。そこで食べ物の奪い合いになれば、朝鮮人は怖いという先入観念から、そのようなデマが大きく飛んだのだと思う。そのためたくさんの朝鮮人が自警団の日本人に殺害されたという話も聞いた。この時には市民も戦々恐々としている時である。なかには護身用と称して日本刀を持ち歩く人もあった。
〔略〕あの時代の朝鮮人労働者は、食うために日本へ出稼ぎにきていた者が多く、火をつけたり、日本人を襲うというような暴動を起したとは、とても思えない。また警官は保護のため朝鮮人を連行したとわれわれは見ていた。だから、その後、大勢の朝鮮人が虐殺されたという話を聞いたり、いろいろ書かれたものを見ても、初めは信じられなかった。
(後藤甚太郎『わが星霜』私家版、1983年)

堀内栄作〔八丁堀で被災、商船大学に寄り、水産試験場へ避難〕
「朝鮮人や社会主義者が暴動を起しているから気をつけろ」という流言が、どこからともなくささやかれたのは翌日〔2日〕の夕方ごろだった。
「さあ、きたぞーつ」と誰かがどなると、女子供は恐怖に泣き出し、ある者は、わらわらと海に飛び込んで逃げた。私も3回ぐらい、海に飛び込んだ。当時、荒川放水路の工事にきていた朝鮮労務者が、浦安から行徳のあたりへ食物をあさりにいったところからデマが流れたものか・・・。〔略〕
航空研究所の広場では、中国の人たちには助け合って、焼けこげたカン詰めなどわけてやっていたが、朝鮮人がまざれこんでくると徹底的に追い立て、針金でしばってなぶり殺しにしたと聞く。
9月3日になると、憲兵がやってきて「こっちに引き渡せ」といって連れて行ったので、朝鮮人の姿はすっかり見えなくなった。
隅田川、永代橋のあたりは、焼死者の死体でうずまっていた。その深川よりのあたりに朝鮮人の惨殺死体が、17、8積み上げてあるのを目撃した。
(「永代橋に積まれた惨殺死体」『潮』1971年6月号、潮出版社)

〈1100の証言;江東区/大島〉
小林勝子
朝鮮の人たちは、ほんとうに見ていて気の毒になるようなひどい生活をしていました。食べ物は、床に落ちてはき集めたお米や、魚のアラばかり。朝なんか朝鮮部落を通りかかると、3畳ぐらいの部屋に十何人がスシづめになって立ったまま寝てるみたいな感じなんです。「朝鮮人って、きっと横になって寝ることを知らないんだな」って思っていました。

震災のときですか? ええ、ひどかったです、この辺は。(当時、城東区大島4丁目)町内の人たちは、みんな竹ヤリで武装して、20~30人ずつ道路の角に立って尋問しました。「山」といえば「川」、「花」といえば「月」っていうように警察のお達しがあって、ことばに少しでもにごりがあれば、「出たぞーっ」ってどなる、すると巡査がすぐ連れて行って、夜になるとまとめて、この先の田んぼのあたりで銃殺したんです。
真っ暗ヤミのなか、しょっちゅうグラグラって余震がきましたから、夜がくるともうこわくてこわくて、私も自警団について歩きました。朝鮮人が出ると、女子供は逃げちゃいましたが、じっと息を殺してかくれてると「ギャー」っていうようなすごい悲鳴が起こって、「もう済んだな」っていうんで出てみると、からだじゅう刺されて、殺されてるんです。そういう毎日が2日から10日間ぐらいはつづきましたねえ
近所に幅6尺ぐらいのドブ川があったんですけど、そこに死体が4列にも5列にもなっていっぱい捨てられていました。なかには身寄りを案じて地方から上京してきて、暗号を知らないために殺された日本人の死体も、ずいぶんまじっていたようでした
いちばんおそろしかったのは、妊娠した女の人の死体です。針金でゆわかれて、ひきさかれたお腹に石がいっぱい詰めこまれて、ドブ川に捨ててあるんです。
ほんとうに気違いじみていましたねえ。朝鮮人をかくまうでしょ、それがわかると、かくまった人がやられちゃったんですよ。私の家でも、ふだん仲よくしてた、とてもいい方がいたもんですから、押入れに入れてかくまってたんです。近所の人がきたりして「××さんの姿が見えないけど、どこへ行ったんだろう」なんていうと、もうドキドキしちやって・・・その後2ヵ月ぐらいは、危なくて外に出せない状態でした。(談)
(「押入れにかくまう」『潮』1971年6月号、潮出版社)

二橋茂一〔当時15歳〕
〔1日〕父の友人である大島8丁目の野原さん宅へ行ったのです。野原さん一家は私の無事を喜んでくれ、夜は裏の畑に畳を敷き、蚊帳を吊って寝ることにしました。私は大変に疲れていたので早目にやすみましたが、夜半に遠くから聞こえるときの声で目を醒ましました。おばさんは、朝鮮人が井戸に毒を入れるので、男たちは警戒に出たと言い、ときどき聞こえるかん声は、朝鮮人を追う声だと申しました。
翌日〔2日〕朝、近所の人が走って行くので、なにごとかと見ますと、警官が一人の男を連行していくのを一団の群衆が、朝鮮人、朝鮮人と罵りながらとり巻いています。そのうち群衆は警官を突きとばして男を奪い、近くの池に投げ込み、3人が太い丸太棒を持ってきて、生きた人間を餅をつくようにポッタ、ポッタと打ち叩きました。彼は悲鳴をあげ、池の水を飲み、苦しまぎれに顔をあげるところをまた叩かれ、ついに殺されてしまいました。
一団の人びとはかん声をあげて引き上げました。すると、また別の一団がきて、死んでいる彼を池から引きずり出し、かわるがわるまた、丸太棒で打ち叩きました。肉は破れ、血は飛び散り、人間の形のなくなるほどに打ち、叩きまた大声をあげて引きあげました。死人を鞭打つという言葉の通りで、そのときの惨状が今も私のまぶたに残っています。
(「朝鮮人の虐殺を目撃」関東大震災を記録する会編『手記・関東大震災』新評論、1975年)"

信定滝太郎
2日の午後、〇〇〇〇の〇〇〇が○○するとの噂が、市内殊に近接郡部に伝わったので、全市の恐怖は固より幼老婦女は悲鳴を挙げて惑うありさまに、各市町の青年は武装して各町を護るに至った。いうまでもなく彼等○○は、徒党を組んで一揆を起す種の統一あるものでなく、大多数は食に飢えて窃盗を働く程度ではあったが、中には武器を持つ者もあり、更に裏面には社会主義者の煽動もあったと伝えられた。
中にも東京府下大島町付近には、多数の〇〇〇と〇〇〇が入込み、空家に潜伏して、夜になると盛に掠薄や強姦を行い、〇〇〇と争闘を為したと伝えられ、亀戸では社会主義者の河合某〔川合義虎〕が他の2名の同志と共に革命歌を高唱して検束されたといい、流言は蜚語を生んで人心益々不穏となり、夜に入れば青年団や在郷軍人、消防組等が自警団を組織し、竹槍を持ち銃剣を携えて警戒し、或は〇〇〇〇〇〇を傷けたとか或は暴戻なる○○を殺したりなどしたというような、血醒い風説は所在各所に流布されたのである。たとえ家は震災と火災とを免れだとしても、郡部の住民にはただ「〇〇〇〇」の不安のみがつきまとった。家にある者も、或は再度の地震を恐れて屋外に寝る者も、枕を高くして寝ることは出来なかった。
深夜 - それはまだ東京の空には、大火の余燈が炎々と赤く染め出されていた頃 - 「誰か」という鋭い誰何の声が、至るところの暗闇や十字路で発せられた。勿論それは竹槍を持った自警団が、挙動不審の通行人を検問する声であった。人々はそれでも多少は自警団の活動によって、気を強くすることが出来たが、やがては何処で何名殺されたとか、過って避難民が刺されたという噂は人々の口から口へと伝えられて、かえって恐怖の念を強く植えつけて焼かれなかった地域の者は、震災と火災との厄を免れた後に、今度はこの流言に気を病むようになった。
(信定滝太郎『大震記』日本評論社出版部、1923年10月)

林献忠
たまたま大島の黄柱緑、黄柱生兄弟の宿舎に遊びに行って地震に遭った。その晩、警察と土方の親分が来て、明日は東京は大水が出るから千葉へ行けという。阿金、阿五は、あの人たちのいうことはおかしいよ、東京に水が出るなら千葉にも水が出るだろう、行くのはよそう、という。私も病気なので行きたくなかった。
2日の朝、食物を見つけようと2丁目のいとこの所へいくと、誰もいない。〔略。三河島へいったん戻る〕
次の日、大島の黄柱緑の宿舎へ行くと、だれもいない。地面に血痕があった。隣の人に聞くと、みな殺されたという。阿金、阿五も死んだ。
〔略〕中国人を殺したのは日本人だよ。中国人の工賃がひくくて、日本人はおまんまの食いあげになるといっていたよ
(仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年からの証言抜粋)

【増補改訂Ⅱ】大正12年(1923)9月2日(その5) 江東区/亀戸・亀戸警察署の証言 「〔習志野騎兵連隊が〕亀戸に到着したのが〔2日の〕午後の2時頃、...1名の朝鮮人が引摺り下ろされた。.....これを以って劈頭の血祭りとした連隊は、その日の夕方から夜にはいるにしたがっていよいよ素晴らしいことを行(や)り出したのである。兵隊の斬ったのは多くこの夜である。」
につづく


0 件のコメント: