2018年3月29日木曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート10 (明治30年ー2終)

鎌倉 妙本寺 2018-03-29
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明治30年-2
漱石の小天訪問
漱石は、熊本県玉名郡小天(おあま)村湯之浦(現玉名市天水町小天)にある、前田卓の父案山子の別邸に、熊本第五高等学校英語教師の同僚、山川信次郎に誘われて初めて訪れ、その年末から正月3、4日頃まで滞在した。
小天は、熊本市から二つの峠を越えた北西約14km(熊本市中心からは約20km強)に位置し、その峠から有明海になだれこむ、丘陵から海辺の平地にいたる村で、古くから蜜柑の産地として知られていた。

漱石らが小天を去る際の揉め事
夏目鏡子、松岡譲筆録『漱石の思い出』に次のような記述がある。
「その帰る時のこと、二人(漱石・山川)の茶代が五円、女中の気付が一円、姉さん(卓のこと。鏡子夫人は当時、卓をこう呼んでいた)には袖口代にとあって三円包んであったそうですが、姉さんはまだそんなものを客からもらったことがないので、顔を赤らめてかえしますと、せっかくやったものをかえすものもないだろうという剣幕だったということです」。
二人は、特に卓に世話になったことを思い、感謝として「袖口代」という名目でチップをはずんだが、当然卓は受け取れないと言い、癇癪持ちの漱石がすごい剣幕で押しつけた。
卓は旅館業という意識は持ってなかった。峠の茶屋のおばあさんも、「村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」と言っている。
前田案山子は隠居してこの別邸に住んでおり、離婚して実家にもどってきた卓もまた、本邸ではなくこの家に暮らしていた。

漱石が旅行した理由
お正月だというのに漱石が前年6月(明治29年6月9日)に結婚したばかりの妻を熊本に残して小天に出かけたのにはわけがあった。結婚して2人が初めて迎えた前年のお正月、まだ20歳の鏡子夫人が料理を整えたが、手慣れないこともあり、客に出す料理が足りなくなってしまった。同居していた長谷川が「交際家」で、教え子らの来客が多かったせいである。お正月とあって仕出し屋も休み。漱石は体裁が悪いと怒りだしたことがあった。
これに懲りて、「正月には家にいないに限るとあって、次の年から正月へかけて、たいてい大晦日あたりに旅行に出ることになりました」(『漱石の思い出』)という。

前田卓と那美
この時期、卓としては、植田耕太郎と永塩亥太郎との二度の離婚によって、少女時代からの夢が無惨に破れ、「婦人の地位人生の味気なき」思いを深くかみしめた時期である。長男だけが全財産を受け継ぐという家制度への反撥から、長男下学と財産分与問題で争ってもいた。

さらにもう一つ、父案山子の妾の問題があった。
卓が小天に戻った時、別邸には、卓とさほど年齢の違わない父親の愛人(林はな)が同居していた。「父上妾を置きなさるるなどの事」に言及している滔天の手紙が明治26年なので、同居はその頃からで、政治活動から身を引いた案山子は、はなを小天に連れ帰っていた。
2人の間には、明治28年に利子(翌年死去)、30年に寛之助、31年1月22日に利鎌が生まれる(漱石らが年末年始に訪れた直後のこと)。
卓たちの母親は存命中で、彼女は本邸にいたが、同じ村の中であり、妻妾同居同然の振る舞いである。
永塩の女性問題に失望して戻ってきた実家でもまた、同じこと起こっていた。尊敬していた父、民権家の指導者であった父親の、その姿を見る無念。それは時として、気が狂うほどのことであったにちがいない。滔天の手紙にあるように、感情的な卓が奇矯な振る舞いをすることもあったかもしれない。

けれども卓は、「お卓おばさんが来ると、部屋の中がパッと明るくなった」(下学の孫、前田伸子)というように、生来の溌剌とした精神を抑えられない人でもある。従って、辛い思いは胸にひめて、前田家長女として家事を取り仕切っていた。新しく生まれた異母弟たちの面倒をみて、荒尾の滔天の家で妹槌らを助けた。

漱石と出会った当時の卓(29歳)はこのような状況にあった。生来の強さと、養われてきた女権意識と、それらを押しつぶす男たちや世間との葛藤の最中にあった。「心に統一がない」(『草枕』三)姿である。

漱石が描く那美も、孤独や虚無を抱えつつ、しおれるのでも悟りきるのでもなく、強い反撥心を持つ女だ。この「不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔」をもつ那美の光と影は、卓の光と影に重なる。

「ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」と那美は言う
「ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」(四)という那美のセリフは、はすっぱだけの物言いではなく、痛切な反語だった。男たちが平気で妾を持ち、それを当たり前のことにするなら、女も同じことをして何が悪いという、苦い思いの裏返しだ。
このセリフの後、画工と那美はこう続ける。
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」(四)

この「当り前ですわ」の皮肉な響きに、冷え冷えとした思いを抱えながら、強がって生きる卓が見える。
また、鏡が池に近々身を投げるかもしれないというくだり。
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが・・・」
「行って御覧なさい」
「画にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだ中々扱げない積りです」
「私は近々投げるかも知れません」

「男妾」のくだりでは、「淵川へ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」といっていた那美が、ぽつりとそういう。
そしてこう続く。
「私が身を投げて浮いている所を - 苦しんで浮いてる所じゃないんです - やすやすと往生して浮いている所を - 綺麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」(九)
こう笑って立ち去る那美の姿もまた、漱石と出会った頃の卓が見える。

このような会話が実際にあったということではなく、当時の卓の姿の内実を、漱石が敏感に受け止め見抜いたことが、小説に反映していると思われる。漱石の想像力を刺激するような、黒々とした影に縁取られた強い光が、その頃の卓にはあった。

(つづく)

ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうか・・・・・」の『ささだ男』『ささべ男』の意味については、

ブログ「万葉集遊楽」の「万葉集その二十四(漱石の草枕)」

に詳しい説明がある。

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