2018年11月9日金曜日

若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(7) 1924年(大正13年)初夏、佐伯祐三(26歳)、里見勝蔵と共にオーヴェール=シュル=オワーズにヴラマンクを訪問、持参の裸婦を描いた作品を「アカデミック!」と批判される。   

佐伯祐三《モランの寺》1928昭和3年 東京国立近代美術館蔵
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若き画家たちの群像、編年体ノート(利行、靉光、峻介を中心に)(6)「利行が狂ったように絵を描きはじめたのは、大正十二年九月一日の大震災のあとであった。震災の日からなん日も、利行は火のなかを歩きまわり、吉原の池で数百の遊女の焼死体をみた。また人からたのまれて車を挽き、焼跡を片づけていた。」
から続く

1924年(大正13年)
詩人花岡謙二が立教の学生下宿としてアパート「培風寮」を建築
(宇佐美承『池袋モンパルナス』)
「百坪の敷地は檜の生垣でかこまれていて、門柱には、これも檜の一枚板がかかっており、「培風寮」と書かれてあった。その門から敷き石を踏んで十数歩も歩けば玄関で、正面にまるい乳白色の電灯がついていた。木造二階建で、松材の鎧ばりの外壁とトタンの寄陳屋根は茶褐色に塗られていた。玄関の格子のガラス戸は、ガタビシ音をたてながら左右にあいた。階下には、食堂と台所のほかに七室あり、ほとんどが四畳半の間であった。玄関から、きしむ階段をのぼると十一室あり、ここもほとんど四畳半であった。四畳半といっても半畳は押入れで、畳は四枚しか敷かれてなかった。
部屋によっては雨戸もなく、ガラス戸のすき間から風が吹きこんでいた。天井では、たえずネズミの走る音がしていた。もちろん水道など、あるはずはなかった。間代は三円だったり五円だったりしたが、それを律義におさめる住人は少なかった。貸アトリエの家賃が払えなくなった者など、世のあぶれ者が吹きよせられるようにしてあっまっていた。」

「花岡謙二は明治二十年、東京にうまれた。父は保険の外交を、かなり手びろくしていた。謙二は二人兄弟の次男で、少年のころから胸を患っていた。親はこの子を薬剤師にでもと願って東京薬学校にいれたが、しょっちゅう血を吐いて中退した。入退院をくりかえしながら父の仕事を手つだわされていたが、その間に前田夕暮れの「詩歌」に投稿して認められ、ほどなく夕暮門下四天王のひとりといわれるようになった。
二十歳代のなかば、福島県平にいたころ山村暮鳥を知った。暮鳥は流浪の末にクリスチャンになった詩人。伝道しつつ、虐げられた人びとへの愛情をこめた詩を多作していた。花岡は暮鳥を師としたが詩歌で食えるはずはなく、さりとて保険勧誘の仕事にほどだい不向きであった。では教職にでもと、小学校で教えはじめたが、それもうまくいかなかった。

教壇に立ちて算術問題が解けずわれはかなしき無免状教師
校長とことを争ひ二ケ月もたたでやめたり教師といふものを

暮鳥が辿った道をなぞらうべく大正七年、築地にあった聖三一神学校に入学したが、そこでも血をはいて翌年退学した。

ゆられつつ黒き肩車の幌のうちこのうつしみの悲しさを耐ふ

小康をえて大正九年、池袋西口の豊島師範まえに、ごくちいさな本屋「みどり屋」をもった。趣味にあった文学書をならべたが、資金がたりなくで書架はうまらず、前田寛治など池袋の若い絵かきの個展をひらいた。前田はまだフランスへわたるまえで、もちろん無名であった。そんな花岡のところへも、無名のころの西条八十が、よく電車賃を借りにきた。劇作家田中澄江はまだ豊島師範付属小学校の児童で、毎日のようにあらわれ、本を読んでは夜おそくまで遊んでいった。
大正十二年、ちかくにプロレタリア歌人の渡辺順三と井上康文が印刷屋をひらいた。花岡は、この唯物論者たちとも親友になり、渡辺らが編集していた雑誌に詩歌を寄せ、その歌会にも出席した。「みどり屋」には自然、池袋の左翼、もしくは人道主義の文人かあつまるようになった。秋田雨雀、野口雨情、尾崎喜八、大藤治郎、中西悟堂、堀江かど江、勝承夫らで、その後に培風寮主人になってからも、これらの人たちはよく訪ねてきたから、花岡は、しばしば刑事の訪問をうけた。

太陽だけは共産だ。妻よ金の無い日は、
みんなかたまって、
日でもたべるか。

「みどり屋」をひらくころ、花岡は妻にトリ子をむかえた。花岡とは対照的に勝気な女だったが、長崎小町とよばれた美女だったから、人恋しい花岡にとって、トリ子をむかえることは至上の幸福であった。花岡はそれまでに、のちの作家吉野せいなど、なん人かの女性に想いをよせ、多くの恋歌を詠んでいた。

いくたびかさびしくなりてわが凭(よ)りしへやの柱によれる君かな

花岡はトリ子とのあいだに四人の男の子をもち、終生家族を愛した。

いたはつていたはられていつしよに生きるのだこの家ともよ
戸籍法違反科料何でもいい保彦よ俺はお前の生れた日をかうして守ったぞ

保彦は三男で、戦後にこの子を北アルプスで失ってから、謙二はぬけ殻のようになった。

大正十三年、「みどり屋」を手放し、長崎町北荒井に培風寮を建てた。父親が、下宿屋ならやっていけるだろうといって五千円を出してくれ、立教の学生相手に始めたのだった。しかし、あい変らず喀血をくりかえしていたし、トリ子は外へ働きに出ねはならなかったから、母と妹に培風寮を託し、房州保田にあった石原純、原阿佐緒の愛の巣「靉日荘」に身を寄せた。石原はアインシュタインの相対性理論の紹介者として知られた国際的物理学者であり、「アララギ」の歌人でもあった。恋多かった断髪の歌人阿佐緒とむすばれ、東北大学教授の職を投げうっての房総すまいであり、花岡は、ふたりの影響で口語短歌をつくりはじめた。
昭和五年、すずめケ丘にもどり、下宿屋培風寮を賄なしのアパートにあらためたが、そのころから、さきに書きつらねたような”あぶれ者たち”があつまり始めることになった。」

1924年(大正13年)
靉光は画友中島茂男とともに上京し、谷中の下宿に住み太平洋画会研究所に通う。
そこで井上長三郎、鶴岡政男、麻生三郎らといった個性派画学生たちと知りあい、川端画学校にもかよった
■この頃の靉光
「上京のころはもうすっかり、こうした身なりが板についていたとみえで、太平洋画会研究所で後輩にあたる麻生三郎は〈絵の実力もさることながら、その服装や態度にいたるまで、まことに典型的な絵描きらしい雰囲気が身についていて印象深かった〉と筆者に語ったことがある。
当時の太平洋画会研究所の学生たちは、長髪にツバ広のおかま帽をかぶって、着流しに絵具箱をぶらさげるといったいでたちのものが多かったが、靉光は、冬だというのに、白っぽい浴衣の着流しで長髪をバサバサにして通学していたこともあるという。額がせまいのを気にして、剃刃で剃りあげたり、頭髪を黄色に染めたり、そうかと思うとイガ栗坊主にしたり、泥鰌ヒゲやコールマンヒゲを生やしていた時代もある」(ヨシダ・ヨシエ 菊池芳一郎編『靉光』昭和40年8月所収)

「(靉光が太平洋画会研究所に入った頃は、)岡本唐貴ら、やがてプロレタリア美術に走る人たちが、ヨーロッパ近代画風を追い求めたすえにダダにいきつき「あとは自殺しかない」と思っていた、まさにその頃であった。
地方の泥臭さを身につけたままの、きのうまでの図案職人は170cmを優に越す長身で、痩せて頬がこけていた。靉光は、研究所からは近い根津宮永町から、谷中初音町、板橋大山、滝野川、神楽坂下、牛込横寺町へと、上野からそう遠くない範囲の、いずれも低地の下宿を転々としていた。
・・・・・
板橋大山の下宿は井上(長三郎)の筋むかい、新撰組近藤勇の墓のかたわらにあった。その炭屋の二階で靉光は、二、三の友ととも自炊していた。あたりはまだ畑や雑木林ばかりで、その風景をゴッホ風の筆づかいで描いていた。貧乏で、米が一粒もはいっていないポロポロの麦めしと味噌と大根の葉しか食べていなかったのに、また研究所にあらわれたときは、そのちかくのー膳めし屋の大野屋で、大盛り二銭五厘の飯、味噌汁、魚の煮つけ、馬肉などを、せいぜい十銭で食べるだけだったのに、なぜか夜な夜な滝野川、駒込、神田あたりのパーやカフェにあらわれてコーヒーや安酒を飲み、音楽に聴きいっていた。また、だれもその音を聴いたことのない舶来のギターをもっていて、それは貴重な質種(しちぐさ)であった。コーヒーなどとはおよそ縁のなあった井上はいつも、靉光のそんな奇妙な振舞いをみては笑っていた。
靉光のかよったカフェは、・・・・・お色気専門の店ではなかったし、また、女給が組合をつくって集会でぶちあげるといった”左翼の店”でもなかったが、いずれにしても、大正のふたけたのころからはびこった風俗の一端を荷なう店ではあった。
「神楽坂では「芸術倶楽部」というアパートに住んでいた。三階建で、吹きぬけの天井からうす暗い電灯がぶら下り、梁がむき出しのそのアパートは、この国初の新劇女優松井須磨子が大正八年「カルメン」に出演中に、前年十一月に急逝した劇作家島村抱月の後を追い、赤い腰ひもでくびれて死んだ小劇場「芸術倶楽部」の、のちの姿であった。貧乏絵かきや、役者や、売れもせぬ小説を書いている文士や革命家など、異様な若ものたちがうごめいていて、靉光はかれらと一緒に酒を酌みかわすこともあったが、その人たちが熱っぽくかたる革命の話には、いっさい口をはさまなかった。」(『池袋モンパルナス』)

柿手春三の証言(『池袋モンパルナス』)
「ぼくは井上さんに刺戟されて、神保町の古本屋や日本橋の丸善へフランスの絵をみにいきよったんです。丸善では『カイエ・ダール』、そう、シュルレアリスムを紹介しとったアチャラの美術雑誌ですな。それがガラス戸棚のそとに出とって、若いもんの手垢がつくままになっとったんです。ある日いったら靉光が先にきとって、えっとながめよるんですよ。しばらくうしろに立っとったら見つかってしもうてね。靉光、いかにも照れくさそうにしとりました」

1924年(大正13年)
井上長三郎(17歳)、上京し、太平洋画会研究所に通い始める。

1924年(大正13年)
三科造型美術協会
「大正十三年十月、・・・・・「三科造型美術協会」をつくり、翌年五月に第一回展をひらいたが、会場にはアナーキーな、ダダイスディックな作品が目だち、官憲の弾圧もあって雲散霧消した。三科の中心的存在だった岡本唐貴は・・・・・」(『池袋モンパルナス』)

1924年(大正13年)
長谷川利行(33歳)、震災後の一時期、利行は東京を離れ京都へ戻っている。
家族と別居して京都市伏見稲荷神社前の二階建て木造アパート「稲荷倶楽部」の一室に住む。院展の画家後藤芳仙を知り交友、東山区林下町の後藤宅に頻繁に通う。
この年から翌年にかけ、一乗寺付近、銀閣寺裏、北白川などの貸家に住む。

「『稲荷倶楽部』から、利行は一乗寺辺の小さな貸間に引越した。ろくな荷物もなかった。貧しい、暗い生活であった。後藤氏の知る限りでは、妻もなく子もなく、愛人のいたらしい形跡もない。全くの孤独の生活であった」。

「利行は銀閣寺近くの白川辺に、一軒の貸家を借りた。・・・そして、奥へ通じる通路の荒壁に、小学生の描いたクレヨンのスケッチが、無数にピンで貼りつけてあった。『これは、最高のお手本です』と、利行は後藤氏に言ったという」(矢野文夫『長谷川利行』)。

1924年(大正13年)
福沢一郎、彫刻研究を目的に渡仏、木内克、森口多里らと親交する一方、エコール・ド・パリの空気に触れるなかで、次第に絵画への関心を強めていき、同年のサロン・ドートンヌに「ブルターニュ風景」が入選した。

1924年(大正13年)
1月3日、佐伯祐三(26歳)、パリ着。
3月、パリ郊外クラマールの借家に引っ越す。
初夏、里見勝蔵とオーヴェール=シュル=オワーズにヴラマンクを訪問、持参の裸婦を描いた作品を「アカデミック!」と批判される。翌日ゴッホの墓を詣で、また医師ガッシェの家でゴッホの作品を見る。
秋から冬にかけてパリ北郊の村々を写生旅行、激しい筆致の作品を描く。
12月、モンパルナス駅南のリュ・デュ・シャトーに越す。

1925年(大正14年)27歳
7月、セツルメント(隣保事業)視察のため兄の祐正が来仏。祐正には視察とともに病弱な祐三を心配した母の意向で祐三の帰国をうながす目的もあった。

つづく




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