2022年5月27日金曜日

〈藤原定家の時代007〉長寛3/永萬元(1165)年 平重盛参議 六条天皇(2)即位 二条天皇(23)没 額打論 清水寺炎上 平清盛権大納言 憲仁(5、のちの高倉天皇、生母平滋子)親王     

 


長寛3(1165)年

5月

・この月の摂関家の政所下文では別当に美作守平宗盛と尾張守平重衡の2人の平氏一門が名が見える(『平安遺文」)。

5月9日

・平重盛(清盛の嫡子、28)、(二条天皇)参議に列する。

(清盛の嫡子)重盛:

久安6(1150)年31歳で六位蔵人、翌年従五位下に叙せられる。中務少輔(なかつかさのしょう)・左衛門佐(さえもんのすけ)、遠江守と歴任し、平治元(1159)年平治の乱で軍功をあげ、伊予守に遷任。『愚管抄』は、「重盛は敵に馬を射られたが、臆せず堀河の材木の上に弓を杖にして立ち、替わりの馬に乗っていたのも立派に見えた」とその勇姿を伝えている(巻五)。

応保(おうほう)3(1163)年正月従三位、長寛(ちょうかん)3(1165)年5月参議に列する。

仁安2(1167)年2月、父清盛が太政大臣に任じられると同時に、権大納言に昇る。同年5月10日、東海・東山・山陽・南海道の海賊追討使に補任されている。これは清盛の太政大臣辞任1週間前のことであり、国家軍制の統括責任者としての地位を、後継者重盛にとどこおりなく引き渡すためにとられた措置であろうか、といわれている。太政大臣辞任にともなって平家一門の公的代表、つまり氏長者も重盛に継承された。

仁安3年、清盛が出家入道し、さらにその翌年春、摂津福原に退いた。重盛は同年正月正二位に叙せられている。清盛に続いて憲仁の東宮大夫を務めたことへの賞としてで、先任者3人を飛び越えての昇進である。ところが、この時重盛も病によっていったん権大納言を辞任していた。彼は病がちだった。はっきりわかっている病名は脚気である。

清盛の福原への退去にともなって、六披羅の泉殿も重盛が引き継いだ。

重盛は、嘉応2(1170)年権大納言に返り咲き、すぐ二度目の辞任をし、さらにもう一度権大納言に復帰している。そして正大納言を経て、右近衛大将左近衛大将を歴任。安元3(1177)年には内大臣兼左大将となる。この間越前・丹後の知行国主だった。

6月4日

・地震あり。

6月5日

・「永萬」に改元。

6月13日

・広隆寺講堂を供養する。

6月17日

・二条天皇第2皇子順仁親王(2)を皇太子とする。

6月24日

・平季盛、丹後国国司に任じられる。

6月25日

・二条天皇(23)、病気のため譲位。皇太子順仁親王(2)、受禅。

7月7日

順仁親王、即位(第79代天皇、六条天皇)。

7月28日

・二条上皇(23)、没(誕生:康治2(1143)/06/17)。78代天皇。 

よき人は時世にもおはせ給はで、久しくもおはしまさざりける」(『今鏡』)

8月

・この月~翌年春迄に法橋顕昭「今撰和歌集」が成立。

8月7日

・二条天皇の葬儀で、延暦寺・興福寺僧徒間で額打論。9日、延暦寺僧徒、興福寺への報復の為、末寺の清水寺を焼払う。

二条の遺骸は香隆寺(こうりゆうじ)の東北の地の蓮台野(れんだいの)に葬られた。『顕広王記』は、その葬儀に出席したのは公卿9人と殿上人少々であると記し、『平家物語』の「額打論(がくうちろん)」「清水寺炎上」の章はこの葬儀の時に起きた事件に取材して、当時の政治と社会の動きを語っている。

葬送に際して墓所まで供をした南北二京の念仏の僧たちは、それぞれの寺の額を打つのを例としていたが、その際、東大寺・興福寺・延暦寺・三井寺の順に打つべきところを、興福寺の前に延暦寺が打ってしまった。これに怒った興福寺の西金堂衆の観音房・勢至(せいし)房という二人の「きこえたる大悪僧」が腹巻に長刀・大太刀の武装姿でもって躍り出るや、延暦寺の額を切って落とした。

この時には延暦寺の僧は興福寺の僧の行為を見すごしたが、8月9日、その恥辱をすすがんと京に下って、興福寺の末寺の清水寺を焼き払った。この延暦寺の大衆(だいしゆ)の行動が、「上皇が山門の大衆に命じて平家を追討させるものだ」と誤って伝えられたことから、軍兵が内裏を警護し、平氏の一類も大波羅に集まる事態になった。そのため噂を打ち消すために後白河が六波羅に駆けつける場面があったことを『平家物語』はくわしく記している。

御所に戻った後白河は「不思議なことだ、そんなことはつゆも考えたことはないのに」と近臣にもらしたところ、近くにいた西光法師が「天に口なし。人をもつていはせよ」という俚諺(りげん)を引いて、平家がもってのほかに過分なので、天のお計らいでしょう、と答えたと『平家物語』は記す。

『顕広王記』は、清水寺炎上の事件を記した後、山門の大衆が祇園社を守るために終夜に「呼喚」して、「天下滅亡のごとし」であったと記し、摂政の基実(もとざね)の御所の北の小屋が放火によって焼かれたことなども記している。世情の不安は著しくなり、8月12日には興福寺前別当の恵信が寺に軍兵を入れたことで、僧正と法務の任が解かれ、それにくみしたとして源義基らが流罪に処せられている。

額打論(がくうちろん、「平家物語」巻1):

7月28日夜、香隆寺北東・蓮台野の奥の船岡山に遺体を納めるが、葬送の時、延暦・興福両寺衆徒が額打論を始め乱暴をはたらく。天皇の遺体を墓に移す作法には、奈良・京都の衆徒が供をして墓の周囲に自寺の額を東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の順に掛けるのが通例。この時、延暦寺衆徒が興福寺より先に掛け、興福寺西金堂の僧観音房・勢至房が、延暦寺の額を切り落とし打ち割る。

清水寺炎上(「平家物語」巻1):

7月29日正午頃、延暦寺衆徒が山を下るとの噂あり、武士・検非違使が西坂本に向かうが、防げずに衆徒は京に乱入。後白河院が延暦寺衆徒に平家を追討させる噂あり、軍兵が内裏を警備し、平氏一族と後白河院は六波羅に集る。延暦寺衆徒は興福寺末寺の清水寺に押し寄せ、仏閣・僧坊全部を焼き払う。山門衆徒が山に戻った後、後白河院も六波羅から退去、重盛が供奉。重盛が戻り、清盛卿は、後白河院が平氏を討とうと思っているから、こういう噂も立つのだ、心を許しては行けないと述べる。重盛は、天皇に背かず人の為に情けを施せば、神仏の守りがあるはずと云い、清盛は、重盛卿はひどく大様なものだと云う。

8月17日

・平清盛(48)、権中納言から権大納言に昇る。徳大寺(藤原)実定(さねさだ)、権大納言を辞す。 清盛の後の中納言には日野資長(すけなが)が任じられる。

『愚管抄』は「永万元年八月十七日ニ清盛ハ大納言ニナリニケリ、中ノ殿ムコニテ世ヲバイカニモ行ヒテント思ヒケル」と記し、「中の殿」(基実)が大納言となった清盛の支えによって政治の主導権を握った。後白河院政の復活はまだなっていない。

摂政基実が政治を主導していたことは、翌永万2年(1166)7月に、仁和寺辺の女性が見た夢を伝え聞いた賀茂社の神官が、院御所ではなく、内裏と摂政の邸宅に来てこの夢のことを申告したことからも知られる(『百錬抄』)。夢の内容は、天下の政が不法なために、賀茂大明神が日本国を捨てて他所に移ってしまったというもの。このように内裏と摂政の邸宅にやって来て天下の政治について語ったという事実は、摂政が政治の実権を握っていたことを物語るもの。

清盛が大納言に任じられたことには多くの反発があったに違いない。武士が大納言にまで至ることはこれまでなかったことであり、広く諸大夫の身分について見ても、このように大納言にまで昇ることは鳥羽院政の時代まではなかった。

鳥羽院の寵臣の藤原顕頼(あきより)や家成も中納言までで、大納言にはならなかった。藤原信頼が信西によって阻止されたのはその前例によっている。ところが二条天皇の時代になって、顕頼の子光頼が大納言に昇進したことで前例は破られており、清盛を大納言に据えることは武士であるという一点だけが問題になろうが、清盛の場合はどうか。もはや六条の乳父ではなく、乳父であることにその根拠があるわけではなく、朝廷を武力によって支え守護する武家という存在そのものに起因すると考えられる。

徳大寺(藤原)実定;

忻子・多子の兄弟で皇太后宮大夫の藤原実定、正二位叙任を条件に権大納言を辞す。翌年1月18日姉の後白河院皇后忻子の皇后宮大夫となる(皇后忻子は後白河院の寵愛を受けている平滋子(建春門院)と競合)。建春門院没の翌年治承元年(1177)3月5日39才で大納言に還任するまで12年間散位に甘んじる(同年12月27日左大将に補任、のち内大臣を経て左大臣に至る)。後白河院の后の姉の皇太后忻子の宮大夫として、何かと建春門院側と対立し、建春門院の不興をかう。しかし、嘉応2年(1170)10月16日「建春門院北面歌合」の催しに奔走(「玉葉」)したり、承安5年(1175)1月4日高倉天皇(母建春門院平滋子)が朝覲行幸時に始めて笛を吹いたことについて、参内して賛美する歌を詠むなど、建春門院に如才なく追従。

9月14日

・流人平時忠(39、清盛の妻時子の弟)、召還。

9月28日

・南都の衆徒が清水寺焼失の件で発向するとの噂が流れて、防御のために武士が宇治の栗駒山に派遣される。

10月

・平経盛、左馬権頭を辞職。

・平教盛の知行の下で常陸の国司に通盛を任じる。平氏一門の八ヵ国知行の体制は維持されている。

10月27日

・興福寺僧徒、天台座主俊円の配流を求めて強訴。

11月4日

・後白河院、日吉社に御幸

11月13日

・後白河院、熊野に御幸

12月16日

・以仁王(後白河院皇子)、太皇太后宮御所で元服。翌年4月、以仁王を後見していた中納言藤原公光(きんみつ)が解官(げかん)され、八条院の庇護下ですごすことになる。

「一院第二の皇子以仁の王と申しは、御母加賀大納言季成(すえなり)卿の御娘也。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去じ永万元年十二月十六日、御年十五にて、忍つつ近衛河原の大宮の御所にて御元服ありけり」(『平家物語』「源氏揃え」)

12月25日

・後白河上皇第4皇子憲仁(5、のちの高倉天皇、生母平滋子)に親王宣下。法住寺御所。親王の勅別当には清盛が任じられる。

12月27日

・太皇太后多子(26)、出家、北山の麓に隠棲。


つづく




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