2022年5月23日月曜日

〈藤原定家の時代003〉応保2(1162)年 平清盛(45)従二位・検非違使別当 後白河院(35)第7皇子憲仁(のちの高倉天皇、母は平滋子(建春門院))生まれる 長寛元(1163)年 北条義時生まれる  平重盛(26,清盛嫡子)従三位       

 


〈藤原定家の時代002〉応保2(1162)年 二条天皇の里内裏完成 清盛の二条天皇奉仕 二条天皇呪詛事件 後白河院近臣の解官・配流 上皇と天皇との対立が表面化 より続く

応保2(1162)年

7月17日

・平教盛(清盛の異母弟)が能登守

8月20日

・平清盛(45)、従二位叙任。1160年の正三位につづき異例の昇進。

9月3日

・後白河院(35)の第7皇子憲仁(のりひと、のちの高倉天皇、母は平滋子(建春門院)、安徳天皇・後鳥羽天皇らの父)誕生

9月15日

・平頼盛・時忠等、憲仁を皇太子とする事を謀るにより解官。

 28日、上皇の近臣藤原信隆・成親等を解官

9月23日

・清盛(45)、検非違使別当を辞任。

9月28日

・平重盛(清盛嫡男、26)、右兵衛督となる。翌年正月5日に従三位に叙せられる。

12月

・平重衡、従五位下となる。

以後の官歴は尾張守・左馬頭、ついで左馬頭兼任のまま中宮亮・東宮亮を歴任、左馬頭を去って左近衛権中将に就任、治承4年蔵人頭。治承5年5月、従三位、いったん辞していた左近衛権中将に返り咲く。三位中将が2人同時にある時は、先任の者を本三位中将、新参の者を新三位中将と区別して呼ぶ。寿永2年7月、甥の資盛が従三位右近衛権中将となると、重衡は本三位中将と呼ばれる。


長寛元(1163)年

この年

北条義時、時政の次男として誕生

義時が誕生した当時の北条氏については、不明な点が多い。父の時政についても、大きく二つの考えが交錯する。その一つが、伊豆国の在庁宮人であったとするものであり、もう一つが対照的に、無位無冠の小規模な武士(団)のひとりであったとする指摘である。

病死したことを伝える『吾妻鏡』元仁元年(1224)6月13日条に、「御年六十二」とあることからの逆算である。ちなみに、伊豆国に配流された源頼朝は、義時より十七歳年長であるから、当時の社会的通念からいえば、親子ほどの年齢差ともいえる。

義時の父は北条時政であるが、その母についてはわからず、わずかに前田家本「平氏系図」に「母伊東入道の女」とあるにすぎない。伊東入道とは、延慶本『平家物語』にある「伊豆国住人、伊東入道祐親法師」のこと。

時政には少なくとも三人の妻が確認される。義時の母「伊東入道の女」が最初の妻と思われ、兄宗時や政子の母でもあった。次の妻は弟時房の母で、武蔵国の大族、足立還元の娘である(略)。そして、三人目の妻が、いわゆる牧方である。

1月5日

・平重盛(26,清盛嫡子)、従三位に叙任。

この時期の清盛の権力をよく物語るのは嫡子重盛の官位上昇。前年の応保2年(1162)10月28日に右兵衛督に任じられたばかり。清盛が公卿になったのは2年半前のことなので、この時期の平家勢力の伸長は目を見張るものがある。

また、この年、重盛の第四子の清経、誕生。清経は『平家物語』でも中院(なかのいん)本という語り本系テキストに、寿永2年秋、九州の海で入水した時が21歳とあり、この年の生まれと推測される。

清経は、重盛と成親の妹経子の間に生まれた長子で、同腹の弟に有盛(ありもり)・師盛(もろもり)・忠房がいる。

経子は左大臣経宗の猶子で高倉天皇の乳母でもある。承安元年には「大納言三位」と呼ばれており(『兵範記』12月26日条)、少なくとも従三位までは昇った有力な女性た。当時は母の門地がその子の嫡・庶を決定するので、清経は「当腹」、嫡妻の子と呼ばれている(『山槐記』治承3年6月4日条)。

1月24日

・平重衡が尾張守に、保盛が越前守に任じられる。


つづく


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