2022年5月22日日曜日

〈藤原定家の時代002〉応保2(1162)年 二条天皇の里内裏完成 清盛の二条天皇奉仕 二条天皇呪詛事件 後白河院近臣の解官・配流 上皇と天皇との対立が表面化



応保2(1162)年

2月5日
・中宮姝子内親王(22)に高松院の院号宣下。

2月19日
・女御藤原育子(藤原忠通養女)を中宮とする。九条兼実(14)、中宮大夫に任命。

3月7日
・二条天皇の側近で流人の藤原経宗(つねむね、44)ら召還。
10日、藤原成親(25)の解官を解く。経宗は長寛2年(1164)正月には元の権大納言に還任、閏10月23日右大臣に任命。

3月7日
・藤原顕広(のち俊成)と藤原清輔の間に「このもかも」論争。

3月13日
・「中宮育子貝合」、天皇・摂関家の主導のもと盛大に行なわれる。

3月28日
・新造里内裏が「押小路南東洞院西」に完成、この日、二条天皇はここに移る。 
清盛の二条天皇奉仕と皇居警護体制の構築
「押小路東洞院ニ皇居ツクリテオハシマシテ、清盛ガ一家ノ者サナガラソノ辺ニトノヰ所ドモツクリテ、朝夕ニ候ハセケリ。」(『愚管抄』)
押小路東洞院の内裏の上棟は応保元年11月3日、それが完成して高倉殿内裏から天皇が行幸したのはこの年3月28日。清盛はここに武士を派遣して宿直させて警護する体制を整える。ここに宿直所が設けられ警護の体制のしかれた。かつて保元の乱前に鳥羽院が源義朝らに命じて内裏を警護させた例や、白河院が源氏・平氏の武者に命じて内裏を警護させて院政を行った例がある。(武士が交替で内裏を守護する「大番役」の起源といわれる)
4月
・この月から後白河院の沙汰により日吉祭が、さらに嘉応2年(1170)には小五月会祭が行われ、競馬や流鏑馬の武芸が奉納されて、武士の武芸が披露される重要な場となる。

4月7日
・平清盛(45)、皇太后宮権大夫を兼任。
5月1日
・賀茂御祖社(下鴨神社)と東大寺の所領相論に対し宣旨下る。
「天平の勅施人、ならびに官使検注、元永の官底勘状・公卿僉議、代々の国司裁判等に任せ、旧のごとく寺領たるべきの由、去ぬる久安三年、宣旨を下され畢(おわ)んぬ」。
陣定・公卿僉議は、判決=宣旨・官宣言の基礎となり、その実質的内容を構成。

5月27日
・久我雅定(69)、没。後継は養子とした兄顕通の子の雅通(まさみち)。正二位内大臣、更に右近衛大将を兼ねる。承安5(1175)年2月27日没(58)。1男が土御門内大臣通親。

久我雅定:雅実2男。天仁元(1108)年10月、修理大夫(すりだいぶ)藤原顕季(あきすえ)の聟となり、その中院邸(なかのいんてい)を終生本居とする。顕季は白河上皇の有力近臣、孫の得子は鳥羽上皇の寵を集める。正二位右大臣。「この大臣は才おはして、公事(くじ)なども能(よ)く仕へ給ひけり」(「今鏡」)と評される。仁平4(1154)年5月辞官出家。出家後も朝廷の諮問にあずかり、久寿2(1155)年7月近衛天皇没後、院執事別当藤原公教(きんのり)と共に鳥羽上皇に召され、「王者の議定(ぎじょう)(皇嗣選定)」に加えられる。

5月30日
・藤原定家の伯父(父俊成の兄)快修、第52世天台座主就任。
6月2日
・二条天皇呪詛事件
後白河上皇の近臣源資賢(すけかた)・通家・範忠、天皇を呪詛した嫌疑により解官。
23日配流。平時忠が出雲へ、源資賢が信濃へ。
「主上ヲノロイマイラセケル」(『愚管抄』)事件。賀茂の上宮で二条の人形を描いて呪っているという噂を耳にした藤原実長が、二条に告げたことから、「カムナギ」が尋問されて、「院ノ近習者」の資賢らの行為であるとの白状が得られたことによるという(『愚管抄』)。
この事件をきっかけに、上皇と天皇との対立が表面化。それまでは妥協的態度をとっていた天皇も20歳となり、強い意志を見せはじめ、上皇の権勢欲につながる院近臣たちの積極的な攻撃をはねかえして、政治の主導権を天皇方へ奪うための努力を始めた。
時忠の配流は4年。永万元(1165)年9月に召還され、翌年3月本位に復した。二条天皇の死をきっかけに、清盛が後白河との同盟に方針を転じ、後白河院政が復活したので復権できた。

6月8日
・前関白藤原忠通(66)、法性寺にて出家。長寛2(1164)2月没。

6月18日
・藤原忠実(85)、没。保元の乱によって完全に政治生命を絶たれた忠実は、乱後京都北郊の知足院に隠栖していた。


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