2024年11月30日土曜日

最年少代議士・大空幸星(26)に訊いた安倍昭恵夫人との関係と1.6億補助金(週刊文春); 選挙では安倍昭恵が涙ぐみながらの応援演説 「21年10月に厚労省から公募申請型『新型コロナウイルス感染症セーフティネット強化交付金』として、約1億6600万円の補助金を受け取っている(後に一部返還)。当時『あなたのいばしょ』は法人化から1年も経っておらず、事業費もわずか21万円程度。にもかかわらず、多額の補助金が支給されたことに疑問の声が上がっているのです」

万博前売り1年、目標の53% 販売737万枚、企業購入が9割超(朝日);〈関係者によると、737万枚のうち約680万枚は企業によるまとめ買いという。経済界は目標にした700万枚に近づけたが、同じく700万枚を目標とする一般販売は60万枚ほどとみられ、1割にも届いていない〉

閣僚ら高額飲食100件超 23年に計1900万円(共同);「第2次石破内閣の石破茂首相と政務三役計11人が代表を務める政治団体が、2023年に飲食などの名目で1回に10万円以上を計上した事例が101件に上ることが30日、分かった。総額は計約1925万円。支出先には料亭や高級フランス料理店が並び、同じ日付で複数の店に計100万円以上を支払ったケースもあった。」

大杉栄とその時代年表(330) 1901(明治34)年4月7日~10日 「日本の紳士が徳育、体育、美背の点に於て非常に欠乏して居るといふ事が気にかゝる。其紳士が如何に平気な顔をして得意であるか彼等が如何に浮華であるか彼等が如何に空虚であるか彼等が如何に現在の日本に満足して己等が一般の国民を堕落の淵に誘ひつゝあるかを知らざる程近視眼であるか抔といふ様な色々な不平が持ち上つてくる。」(夏目漱石「倫敦消息」(一))

 

Clapham Common

大杉栄とその時代年表(329) 1901(明治34)年4月3日~6日 「春雨の朝からシヨボシヨボと降る日は誠に静かで小淋(こさび)しいやうで閑談に適して居るから、かういふ日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たといふ遠来の友があると嬉しからうがさういふ事は今まであつた事がない。」(子規「墨汁一滴」)  より続く

1901(明治34)年

4月7日

「 この頃は左の肺の内でブツ/\/\/\といふ音が絶えず聞える。これは「怫(ぶつ)々々々」と不平を鳴らして居るのであらうか。あるいは「仏々々々」と念仏を唱へて居るのであらうか。あるいは「物々々々」と唯物説(ゆいぶつせつ)でも主張して居るのであらうか。

(四月七日)」(子規「墨汁一滴」)


4月8日

「 僕は子供の時から弱味噌(よわみそ)の泣味噌(なきみそ)と呼ばれて小学校に往ても度々泣かされて居た。たとへば僕が壁にもたれて居ると右の方に並んで居た友だちがからかひ半分に僕を押して来る、左へよけようとすると左からも他の友が押して来る、僕はもうたまらなくなる、そこでそのさい足の指を踏まれるとか横腹をやや強く突かれるとかいふ機会を得て直(ただち)に泣き出すのである。そんな機会はなくても二、三度押されたらもう泣き出す。それを面白さに時々僕をいぢめる奴があつた。しかし灸を据ゑる時は僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕をいぢめるやうな強い奴には灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりするのが多かつた。これはどつちがえらいのであらう。

(四月八日)」(子規「墨汁一滴」)

4月8日

4月8日~9日 ロンドンの漱石


「四月八日(月)、 Easter Monday (イースター・マンデー)、 Bank Holiday (一般公休日)。 Kennington から Clapham Common (クラッパム共有地)に行く。 Mrs. Edghill から、十七日(水)のお茶に招待するとの手紙届く。田中孝太郎は夜遅く、旅行から帰る。

四月九日(火)以前(一ゕ月以内と想像される)、正岡子規から、病気がよくないという葉書届く。

四月九日(火)、午前七時二十分前に目覚める。朝食の時、田中孝太郎から Shakespeare の胸像と Stratford-on-Avon (ストラットフォード・オン・エーヴォン)のアルバムを貰う。旅行談を聞く。 ""The Standard"" 紙を読む。 Dr. Craig の許に行く。帰宅して聖公会の牧師 Rev. P. Nott (Mrs. Nott の夫)、突然来訪する。 Walker (ウォーカー)宅(St. James Place)に茶の招待を受ける。午後九時頃 Mrs. Edghill に十七日(水)の招待に対する、承諾の手紙を出す。夜、正岡子規・高浜虚子宛連名の長い手紙書く。(「倫敦消息」其一(『ホトトギス』第四巻第八号 五月三十一日刊)として発表される。但し、最初と最後は省略される。)」(荒正人、前掲書)


4月9日、漱石、「子規の病を慰める為め、当地彼地の模様をかいて遥々と二三回長い消息」を送る。この日(9日)、20日、26日付。ロンドン生活のエピソードを諧謔を交えて綴ったこの手紙は病床の子規を大変に喜ばせ、子規はこの手紙を「倫敦消息」と題して『ホトトギス』(第4巻8号及び第4巻第9号)に掲載。 

夏目漱石『倫敦消息』(青空文庫)

4月9日付け漱石から子規への手紙


「其後は頓と御無沙汰をして済まん。君は病人だから固より長い手紙をよこす訳はなし。虚子君も編緝(へんしゆう)多忙で『ほとゝぎす』丈を送ってくれる位が精々だらうとは出立前から予想して居つたのだから、手紙のこないのは左迄驚かないが、此方は倫敦といふ世界の勧工場の様な馬市の様な処へ来たのだから、時々は見た事聞た事を君等に報道する義務がある。是は単に君の病気を慰める許りでなく虚子君に何でもよいからかいて送って呉れろと二三度頼れた時にへいへいよろしう御座いますと大揚に受合つたのだから手紙をかくのは僕の義務さ。・・・・・それだから今日即ち四月九日の晩をまる潰しにして御両君に御詫旁(かたがた)何か御報知を仕様と思う。報知したいと思う事は沢山あるよ。こちらへ来てからどういうものかいやに人間が真面目になってね。色々な事を見たり聞たりするにつけて日本の将来という問題がしきりに頭の中に起る。・・・・・」

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「「倫敦消息(一)」には次のようなことが書かれている。

漱石はロンドンに来てから、どういうものか「いやに人間が真面目」になって、「日本の将来と云ふ問題がしきりに頭の中に」起きること、英国紳士は「如何なる意味を持つて」いるのか、一般の人がいかに「鷹揚で勤勉であるか」ということ、時にはロンドンがいやになって早く日本へ帰りたくなるが、「日本社会の有様」が目に浮かんで、「たのもしくない情けない心持」になること。例えば、

日本の紳士が徳育、体育、美背の点に於て非常に欠乏して居るといふ事が気にかゝる。其紳士が如何に平気な顔をして得意であるか彼等が如何に浮華であるか彼等が如何に空虚であるか彼等が如何に現在の日本に満足して己等が一般の国民を堕落の淵に誘ひつゝあるかを知らざる程近視眼であるか抔といふ様な色々な不平が持ち上つてくる。                                          (『漱石全集』一二巻)

と、日本の紳士にたいする、漱石の持論ともいうべき不満足感を披瀝している。イギリス紳士との比較であろうが、日本紳士への厳しい批判である。以下、「今日起きてから今手紙を書いて居る迄の出来事を、いま『ホトゝギス』で募集している日記体で書いて御目にかけ様」というもので、漱石の四月九日の起床後の行動が逐一冗舌に報告されている。新聞では「支那事件」(義和団の乱)、「トルストイ」のことなどを読んだこと。日本ではまだ見ることの出来ないロンドンの「地下鉄」や「昇降機」のこと、車内の風景などが写生的に描かれている。」(中村文雄『漱石と子規、漱石と修 - 大逆事件をめぐって -』(和泉書院))

"

「ステッキでも振り回してその辺を散歩する・・・。向へ出てみると逢う奴も逢う奴も皆んな嫌に背が高い。おまけに愛嬌のない顔ばかりだ。こんな国ではちっと人間の背いに税をかけたら少しは倹約した小さな動物が出来るだろうなどと考えるが、それはいわゆる負惜しみの減らず口と云う奴で、公平な処が向うの方がどうしても立派だ。何となく自分が肩身の狭い心持がする。向うから人間並外れた低い奴が来た。占(しめ)たと思ってすれ違ってみると自分より二寸ばかり高い。こんどは向うから妙な黄色をした一寸法師が来たなと思うと、これ。すなわち乃公(だいこう。尊大に、じぶんをさしていう語。我が輩)自身の姿が姿見に写ったのである。やむをえず苦笑いをすると向うでも苦笑いをする。」(『倫敦消息(一)』) 


朝食の献立について

「例の如く『オートミール』を第一に食ふ。これは蘇格土蘭人(スコットランド)の常食だ。もっともあっちでは塩を入れて食ふ 我々は砂糖を入れて食ふ。麦の御粥(おかゆ)みたようなもので我輩は大好だ。「ジョンソン」の字引には『オートミール』・・・蘇国にては人が食い英国にては馬が食うものなりとある。しかし今の英国人としては朝食にこれを用いるのが別段例外でもないようだ。英人が馬に近くなったんだろう。それから『ベーコン』が一片に玉子一つまたはベーコン二片と相場がきまっている。そのほか焼パン二片茶一杯、それで御仕舞だ。」(『倫敦消息(一)』) 


4月9日

幸徳秋水(31)「われは社会主義者なり」(「万朝報」)。

4月10日

小村寿太郎駐清公使、日本の義和団賠償金4,607万円(4月末まで)を財源調査委員会に通知。

4月10日

外務省(外相加藤高明)に林董駐英公使より電報。駐英ドイツ代理公使エッカルトシュタインが「日英独3国同盟」提案。

12日、再度電報。ドイツ代理公使は、清国の領土保全・門戸解放のため、欧州における「独墺伊3国同盟」なみの同盟を日英独間で締結したいとの提案。加藤外相は意志表示しない旨を訓令。前首相山県は、日露間の戦争回避の為、日英独3国同盟構想を支持する意向表明。伊藤はこれを無視。

4月10日

川上音二郎(37)一行、再渡航。神戸発。

4月10日

「 余の郷里にては時候が暖かになると「おなぐさみ」といふ事をする。これは郊外に出て遊ぶ事で一家一族近所合壁(かっぺき)などの心安き者が互にさそひ合せて少きは三、四人多きは二、三十人もつれ立ちて行くのである。それには先づ各自各家に弁当かまたはその他の食物を用意し、午刻(ごこく)頃より定めの場所に行きて陣取る。その場所は多く川辺の芝生にする。川が近くなければ水を得る事が出来ぬからである。また川辺には適当な空地があるからでもある。そこに毛氈(もうせん)や毛布を敷いて坐り場所とする、敷物が足らぬ時には重箱などを包んである風呂敷をひろげてその上に坐る。石ころの上に坐つて尻が痛かつたり、足の甲を茅針(つばな)につつかれたりするのも興がある。ここを本陣として置いて食時(しょくじ)ならば皆ここに集まつて食ふ、それには皆弁当を開いてどれでも食ふので固(もと)より彼我(ひが)の別はない。茶は川水を汲くんで来て石の竈(かまど)に薬鑵(やかん)掛けて沸かすので、食ひ尽した重箱などはやはりその川水できれいに洗ふてしまふ。大きな砂川で水が清くて浅くて岸が低いと来て居るから重宝で清潔でそれで危険がない。実にうまく出来て居る。食事がすめばサア鬼ごとといふので子供などは頬(ほお)ぺたの飯粒も取りあへず一度に立つて行く。女子供は普通に鬼事(おにごと)か摘草(つみくさ)かをやる。それで夕刻まで遊んで帰るのである。余の親類がこぞつて行く時はいつでも三十人以上で、子供がその半(なかば)を占めて居るからにぎやかな事は非常だ。一度先生につれられて詩会をかういふ芝生で開いた事もあつた。誠に閑静でよかつた。しかし男ばかりの詩会などは特別であつて、普通には女子供の遊びときまつて居る。半日運動して、しかも清らかな空気を吸ふのであるから、年中家に籠(こも)つて居る女にはどれだけ愉快であるか分らぬ。固よりその場所は町の外で、大方半里ばかりの距離の処で、そこら往来の人などには見えぬ処である。歌舞伎座などへ往て悪い空気を吸ふて喜んで居る都の人は夢にも知らぬ事であらう。

(四月十日)」(子規「墨汁一滴」)


4月10日

ロンドンの漱石


「四月十日(水)、午後三時から Mrs. Walker 宅のお茶の集りに行く。 Rev. P. Nott と Mrs. Nott 来る。イギリスとイギリス人について、 Rev. P. Nott と語る。帰宅すると、正金銀行から電信為替を送って来ている。 ""Century Ed. of H. of England"" (Cassel ed.)のページを切る。」(荒正人、前掲書)


つづく

国民民主党・玉木代表が石破総理に原発新増設など提言(TBS) / 国民民主・玉木代表「手取り増」よりも素早い「原発推進」要望に渦巻く不信感! 選挙中は“あえて言わない”作戦(FLASH) / 玉木雄一郎氏「原発新増設を衆議院選挙で言ったのは国民民主だけ、自民党も言ってない」SNS「国民民主党って自民党よりヤバいよ」「まさか自民党の方がマシと言う日が来るとは思わなかった」「憲法改悪の次は原発新増設か。本当にタチの悪い政党だ」    

 

2024年11月29日金曜日

鎌倉紅葉散歩 ようやく見ごろになりました 円覚寺~浄智寺 2024-11-29 (追加)2024-12-11の円覚寺総門まえ

 12月11日の円覚寺総門まえ

11月29日(金)はれ

ようやく本格的に鎌倉の紅葉が始まった。

今日は10日ぶりに円覚寺~浄智寺へ。

行きの横須賀線、11両連結ということもあるけれど、東戸塚駅の時点で空席座席なしの状況だった。ウィークデイでこんな状況なので、明日からの土日曜日はどうなるやら?

▼円覚寺

総門まえ。もっと紅くなると思うが、その頃になると反面、落葉もあり、たっぷっりした紅葉を楽しむのは今かも。




▼山門うら


▼方丈うらの妙香池

▼居士林まえ

▼総門まえ。実は、遠くに横須賀線が、、、(判別し難い)


▼浄智寺

本堂(曇華堂)まえのイチョウが見頃



▼実は、お寺の柵外からが一番よく撮れる



小池百合子東京都知事、「政治資金パーティーは『勉強会』と言うんですね!」 ⇒ 小池百合子知事、政治資金パーティーで1731万円の収入 昨春開催(朝日); 小池百合子東京都知事の資金管理団体「百成会」の2023年の収入総額は3697万円で、前年より442万円減った。同年4月に開催した政治資金パーティー「小池百合子と『東京・多摩の魅力発信と持続可能な成長を進める』勉強会」の収入は1731万円 / 

大杉栄とその時代年表(329) 1901(明治34)年4月3日~6日 「春雨の朝からシヨボシヨボと降る日は誠に静かで小淋(こさび)しいやうで閑談に適して居るから、かういふ日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たといふ遠来の友があると嬉しからうがさういふ事は今まであつた事がない。」(子規「墨汁一滴」)

 

Denmark Hill から Peckham Green を経て

大杉栄とその時代年表(328) 1901(明治34)年4月1日~2日 「一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』) より続く

1901(明治34)年

4月3日

清国の南京に日本領事館分館開庁。

4月3日

二六新報社、片山潜らの指導、東京向島の白髭神社前、第1回日本労働者大懇親会開催。神武天皇祭(祝日)、3万余人参加。工場法・普通選挙の要求を決議。

5月5日に函館、5月11日足利、5月末福島、6月9日桐生で開催。

秋山定輔秘書小野瀬不二夫(かつて片山潜と普選運動に関わる)の提案。会費10銭にみやげものと弁当。芝居、落語などアトラクション。みつ豆・甘酒は食い放題。小野瀬は動員を片山に依頼。片山は東京・横浜・横須賀・大宮などから予約6千を確保。3月17日社告を出すと3万枚の切符が売れる。警視総監安楽兼道は5千人の集会しか認めず。懇親の式を先着5千で15分で終らせ、後は自由入場とする。結果、2万人が会場に。入れない1万人は払い戻しのうえ、みやげ物を貰い帰る。

片山潜:

安政6年12月、岡山県久米郡羽出木村の庄屋の次男として誕生。明治7年美作地方農民一揆(逮捕400余、処刑15)で長兄(戸主)が処刑。明治12年郡長安達清風が開く熟に入る。岡山師範学校(1年中退)、明治14年上京、銀座の活版所績文社の工員。明治17年春渡米。サンフランシスコで皿洗い・コック・農業労働の後、オークランドのホプキンス・アカデミー、テネシー州メリービル大学、グリンネル大学、エール大学神学部を卒業。明治29年帰国。東京専門学校教師。アメリカ時代にラサールの伝記を読み社会主義に目覚める。明治30年キングスレー館設立。高野房太郎らと労働運動開始。

4月4日

珍田捨己駐ロシア公使、日本の日露漁業条約案をロシアに提出。しかしロシアは応じず中止。


4月4日

「 春雨の朝からシヨボシヨボと降る日は誠に静かで小淋(こさび)しいやうで閑談に適して居るから、かういふ日に傘さして袖濡らしてわざわざ話しに来たといふ遠来の友があると嬉しからうがさういふ事は今まであつた事がない。今日も雨が降るので人は来ず仰向(あおむけ)になつてぼんやりと天井を見てゐると、張子(はりこ)の亀もぶら下つてゐる、芒(すすき)の穂の木兎(みみずく)もぶら下つてゐる、駝鳥(だちょう)の卵の黒いのもぶら下つてゐる、ぐるりの鴨居(かもい)には菅笠(すげがさ)が掛つてゐる、蓑(みの)が掛つてゐる、瓢(ひさご)の花いけが掛つてゐる。枕元を見ると箱の上に一寸ばかりの人形が沢山並んでゐる、その中にはお多福(たふく)も大黒(だいこく)も恵比寿(えびす)も福助(ふくすけ)も裸子(はだかご)も招き猫もあつて皆笑顔をつくつてゐる。こんなつまらぬ時にかういふオモチヤにも古笠などにも皆足が生えて病牀のぐるりを歩行(ある)き出したら面白いであらう。

(四月四日)」(子規「墨汁一滴」)

4月5日

3月20日の加藤高明外相の勧告を受け、露、政府官報で対清交渉打ち切り声明。8日 露公使が日本政府に通牒。

4月5日

鉄幹妻瀧野、家を出る。4月末、鉄幹は中渋谷272番地に転居(渋谷停車場から、田畑を辿って道玄坂の近く、憲兵分隊に接する)。

林瀧野は鉄幹と別れた後、上京、樋口一葉の住んだ「水上の上」に間借りをし、そこで正富汪洋(おうよう)と知り合い結婚。


4月5日

「 恕堂(じょどう)が或日大きな風呂敷包を持て来て余に、音楽を聴くか、といふから、余は、どんな楽器を持て来たのだらうと危みながら、聴く、と答へた。それから瞳を凝(こら)して恕堂のする事を見てゐると、恕堂は風呂敷を解いて蓄音器を取り出した。この器械は余は始て見たので、一尺ほどのラツパが突然と余の方を向いて口を開いたやうにしてゐたのもをかしかつた。それからまた箱の中から竹の筒を六、七寸に切つたやうなものを取り出した。これが蝋(ろう)なので、この蝋の表面に極めて微細な線がついてをるのは、これが声の痕(あと)であるさうな。これを器械にかけてねぢをかけると、ひとりでにブル/\/\/\といひ出す。この竹の筒のやうなものが都合(つごう)十八あつたのを取り更(か)へ取り更へてかけて見たが、過半は西洋の歌であるので我々にはよくわからぬ。しかし日本の唱歌などに比べると調子に変化があつて面白く感じる。日本のは三つほどの内に越後獅子(えちごじし)の布を晒(さら)す所ぢやといふのが一つあつた。それは甚だ面白かつた。西洋の歌の中にラフイング、ソング(笑歌)と題するのがあつて何の事だかわからぬが、調子は非常な急な調子で、ところどころに笑ひ声が這入(はい)つてゐる歌であつた。これは笑ひ声に巧みなといふ評判の西洋音楽師が吹き込むだんださうで今試みにこの歌を想像して見ると、

鴉(からす)が五、六羽飛んで来て、権兵衛の頭に糞かけた。アツハハ、ハツハ、アツハハハ

神鳴り四、五匹ゴロ/\/\、雲の上からスツテンコロ/\、物ほし台にひかかつた。太鼓が破れて滅茶々々だ。アツハハ、ハツハ、アツハハハ

猫屋の婆さん四十島田、猫の子十匹産み居つた。白猫黒猫三毛猫山猫招き猫。アツハハ、ハツハ、アツハハハ

といふやうにも聞えた。しかし原作がこんなに俗であるかどうかそれは知らぬ。

(四月五日)」(子規「墨汁一滴」)


4月5日

マケドニア最高委員会(マケドニアのオスマン帝国支配からの解放と独立を求める革命的グループ)の主要メンバー、逮捕。

4月5日

4月5日~7日 ロンドンの漱石


「四月五日(金)、満月。 Good Friday (聖金曜日)。市内は休業する。終日、 Robert Louis Stevenson (スティヴンスン 1850-1894)の ""Kidnapped"" 1886 を読む。夕方、 Brixton (ブリクストン)に出掛ける。往来の人々外出着で得々としている。服装・背丈・容貌に劣等感を抱く。宿へ帰って一人で食事する。

四月六日(土)、祭日で家の者がいないので、午前九時半頃、ゴング鳴り朝食を知らせる。田中孝太郎、二日ほど Stratford-on-Avon (ストラットフォード・オン・エーヴォン)に旅行するとのことである。昼食は、 Miss Sparrow (スパロー嬢)と二人である。 Elephant & Castle (エレファント・エンド・カスル)で古本屋をひやかすが、金がなく買えぬ。 Camberwell (キャンパーウェル)を歩いている時、二人の女から、 least poor Chinese 

(中国人にしては哀れっぽい感じの殆どない男)と云われる。午後四時のお茶の時、 Miss Sparrow から、日本の婚礼や葬式について聞かれたので、説明する。

四月七日(日)、 Easter (復活祭)。この日から一週間、復活祭週間。白シャツと襟を替える。 Denmark Hill から Peckham Green を経て、 South London Fine Art Gallery (南ロンドン美術館)で Ruskin や Rossetti の遺作を見る。面白く思う。」(荒正人、前掲書)


4月6日

露、列国の反対(日英共同抗議)のため対清協約草案12項を撤回。

4月6日

寺内正毅参謀次長中心の秘密会議、ロシアとの戦争準備に関する調査決定。

4月6日

滝廉太郎(21)、横浜港からケーニヒ・アルベルト号で出航、音楽研究のためドイツ留学に向かう。35年10月17日、病を得て帰国、横浜に帰着。


4月6日

「 故陸奥宗光(むつむねみつ)氏と同じ牢舎に居た人に、陸奥はどんな人か、と問ふたら、眼から鼻へ抜けるやうな男だ、といふ答であつた。今生きて居る人にも眼から鼻へ抜けるほどの利口者といはれて居るのが二、三人はある。自分も一度かういふ人に逢ふて、眼から鼻へ抜ける工合を見たいものだ。

(四月六日)」(子規「墨汁一滴」)

つづく


2024年11月28日木曜日

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 PR会社「広報全般担当」は「事実でない」 斎藤知事の代理人弁護士(朝日) → 弁護士の知識(情報)不足が露呈して、「事実でない」に対する反証もイッパイでてきた / 〈会見大荒れ〉「斎藤さんをここに呼んで!」知事に釈明を丸投げされた代理人は、改変前の“折田note”を読んでおらず…「♯がんばれ」は陣営考案と認める(集英社オンライン) / 斎藤兵庫県知事、代理人に丸投げ…代理人は困惑&返答に詰まる場面も “公選法違反疑惑”の解明に至らず(スポニチ) / 【終わらない兵庫県知事選】斎藤元彦知事&代理人弁護士「時間差会見」のあざとい狙い…二人揃ってPR会社美人社長をバッサリ切り捨て(日刊ゲンダイ)     

 



 

「NHK党は反社会的カルト集団」名誉毀損に当たらず 投稿のインターネット記者に賠償責任なし 東京地裁判決(東京) / N国党の「名誉毀損」の訴えが“棄却”… 原告が事実関係を「争わず」2回で“スピード結審” / N国市議に勝訴したライター「スラップ訴訟は民主主義をぶっ壊す」(弁護士ドットコム) / 「N国は反社会的カルト集団」の投稿、違法と認めず 東京地裁判決(朝日);「判決は、過去に立花党首が…『法律を守らない政党であるということを売りにしたい』…『アホみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう』と発言したーーことなどが真実だと指摘」 / 判決はN国党について、「違法と評価される行為を平然かつ盲目的に行う集団又は団体である」と認定しました /     



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 ある週刊誌記者から聞いたけど、東京から来た週刊誌の記者たちが、一様に言ってたのが、「兵庫県民って異様。気持ちが悪いですね」だと言う。記者たちの世界は狭く、ほとんど皆さん顔見知りらしい。 その記者いわく、「これはあくまで斎藤支持者を指していた感想」とのことだけど、先日、県内の日刊紙記者からも「取材に行っていて、怒鳴ったり暴力的な人もいて、本当に気持ちが悪かったです」と言われました。(楚人冠)

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 斎藤知事1期目の公約達成率は27.7% 出直し選、SNSで「達成率98%」の誤情報広がる(神戸新聞) / 記者会見(11/27)で、公約達成率98%はデマとバレる / 「朝日新聞が担当部署に取材したところ、実際の達成率は27.7%だった」 / 「記者 3年間の公約達成率98%は事実か  斎藤氏 公約達成着手率が98#余」 ← ハァ?  

大杉栄とその時代年表(328) 1901(明治34)年4月1日~2日 「一年半、諸君は短促なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』)

 

中江兆民

1901(明治34)年

4月

「「文壇照魔鏡」読みて 江湖の諸子に訴ふ」(新声)。鉄幹弁護

4月

同日付け『労働世界』第75号英文欄に高野房太郎が北京に滞在中との短信

4月

大阪市、日本初の市史編纂事業を開始。編纂主任は幸田成友。

4月

谷崎潤一郎(15)、府立第一中学校入学(現 日比谷高校)

4月

山県有朋、伊藤博文首相に「東洋同盟論」を送り、日英独3国同盟推進を建言。

4月

中江兆民、この月、紀州和歌の浦に数日遊んだが、ノドの狭窄がびどくなり呼吸困難を覚え、痛みも治まらなかった。兆民はガンではないかとの疑いを抱き、直ちに大阪へ帰り、耳鼻咽喉専門の堀内医師の診断を請うたところ、堀内医師は詳細に検視して、切開が必要と告げた。兆民はガンと察知し、一旦は切開手術を承諾した。しかしその報を聞いた妻弥が直ちに大阪に来て、ガン切開の危険を説き、維持策を取るよう説得し、切開手術は思い止まった。

兆民、堀内医師に死期の告知を請う。


「余一日堀内を問ひ、予め諱むこと無く明言し呉れんことを請ひ、因て是より愈々臨終に至る迄猶は幾何日月有る可きを問ふ、即ち此間に為す可き事と又楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を為さんと思へり、堀内医は極めて無害の長者なり、沈思二三分にして極めて言ひ悪くそふに曰く、一年半、善く養生すれば二年を保す可しと、余曰く余は高々五六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余の為めには寿命の豊年なりと、」


「一年半、諸君は短促(短期間)なりと曰(い)はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時(せいじ)限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや。」(中江兆民『一年有半』)


ここから、随筆集『一年有半』執筆に繋がってくる。

兆民は、執筆の楽しみを『一年有半』の中で、


「余の目下の楽(たのしみ)は、新聞を読む事と、一年有半を記する事と、喫食する事との三なり。」


と言う。

4月

荒畑寒村(13)、市立吉田小学校高等科卒業し、山下町の貿易商チャールズ・セールス商会オフィス・ボーイに就職。月給5円。夜間、横浜英語学校に通う。後、リチャード・ホーシェー経営の個人商会に移る。

4月

永井荷風(22)、 「日出国(やまと)新聞」主筆に転じた福地桜痴とともに入社、雑報記者となる。

4月

鈴木庫三(8)、田水山尋常小学校入学。成績良好。この前あたりから養家の経済状況悪化。後、更に貧しくなる。養家の農業を手伝いながら、実家から月謝・書籍代の援助を受けて、高等小学校に通う。1907年、14歳、経済状態から、幼年学校進学を諦める。この年設立された帝国模範中学会の通信会員となり勉強。

4月

米、ガソリンで走る最初の量産車、オールズモービル登場。生産量は当初週に10台強。

4月

ベルギー、普通選挙権を求めるゼネスト。

4月

エドゥアルト・トール、タイミル半島突端チェリュスキン岬に上陸。41日間調査。9月11日(露暦)ベンネト島を見つけるが、氷のために接岸できず、カチョルヌ島で2度目の越冬。

4月1日

私立女子美術学校、東京本郷に開校。女子美術大学の前身。

4月1日

京都博覧協会主催の第1回全国製作品博覧会開催(京都御苑)。

4月1日

ナイジェリア、奴隷廃止。

4月1日

フィリピン、アメリカに忠誠を誓う。

4月1日

4月1日 ロンドンの漱石


「四月一日(月)、 April Fools' Day (四月馬鹿の日 All Fools' Day 万愚節)。朝食に行くと、長尾半平(在パリ)から為替来る。八十ポンドのうち、七十ポンドをパリに送れというので正金銀行へ行き手続きする。結局十ポンド(二百シリング)借りたことになる。 Henry Fardel (ヘンリー・ファーデル)、正岡子規、直矩から手紙来る。ドイツ人の散髪屋で日本のこと話し合う。」(荒正人、前掲書)

*(Fardel は五高の教師)


4月1日

文部省、第三高等学校の法学部・工学部を廃止。鹿児島に第七高等学校造士館を設立。

9月11日、授業開始。

4月2日

4月2日~4日 ロンドンの漱石


「四月二日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。帰途、 Charing Cross (チャリング・クロス)の古本屋で二、三冊買う。馬車の上で日本に行ったことがあるというイギリス人から話しかけられる。入浴する。鏡(推定)から小包届く。 Miss Milde, 山田某に手紙を出す。

四月三日(水)、 Glasgow University (グラスゴー大学)から examiner に任命すると公式通知来る。

四月四日(木)、 Easter Holiday のため下宿の主人夫妻は田舎の妻の実家に行く。 Miss Sparrow (スパロー嬢)一人残る。彼女は娯楽を好まず、働くことに満足しているようで、その理由を尋ねると、神を信じるからだと答える。田中孝太郎に妻からの手紙来る。田中孝太郎の旧師(横浜商業学校(推定))が留守宅に訪ねて、父親と対談中、御子息は、何年位外国にいるかと聞くので、二、三年位と答えると、旧師は、せっかく行ったのだから、五、六年は滞在していたほうがよいと云う。妻はそれを陰で聞いて、大層悲しく思ったとのこと。これを聞いて、女性の情と昔風の先生の様子は、小説のようだと思う。」(荒正人、前掲書)


つづく


ネタニヤフにICC逮捕状 世界は「西側の指導者」を拘束できるか?(クーリエ・ジャポン);「イスラエル紙「ハアレツ」は逮捕状の発行を受けて、「イスラエルにとって前例のない道徳的な汚点だ」とする社説を掲載し、ネタニヤフとガラントのほか、彼らがガザでおこなう「民族浄化」を止めようとしない国民も非難した。 「イスラエル、そしてイスラエル国民全員にとっての問題は、...ICCに指摘された、政府と軍による恐ろしい行動が問題なのだが、イスラエル国民のほとんどはそのことに無関心のままだ」 「ハマスがイスラエル人に対しておぞましい戦争犯罪を犯し、降伏も人質解放も拒んでいるからといって、イスラエル軍によるガザでの大量殺戮や破壊が正当化されるわけではない」」

2024年11月27日水曜日

大杉栄とその時代年表(327) 1901(明治34)年3月22日~31日 「おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

 

藤代禎輔

大杉栄とその時代年表(326) 1901(明治34)年3月15日~21日 「総ての楽、総ての自由は尽く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。」(子規「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

3月22日

中江兆民、商用で大阪へ赴こうとして仕度を整えた際、突然ノド部分から多量の出血があったが、しばらくして止まったので予定どおり出発。

実は、前年秋頃から兆民の健康に異変を生じていた。11月頃より声がかすれるようになったが、痛みは感じなかったので放置していた。その後左首筋に硬いしこりがあり、押えると痛みを感じるので、咽喉専門医の診察を受けたところ、喉頭カタルと診断された。この年3月の長野遊説時には首筋のしこりは大きくなり痛みも感じるようになっていた。

3月23日

「明星」第11号、1ヶ月遅れで発行。巻頭に鳳晶子の「おち椿」79首、山川登美子は「紅鶯」15首を寄せる。「明星」第12号は5月25日発行。この月、鉄幹第3詩集「鉄幹子」、翌4月、第4詩集「紫」発刊。

3月23日

フィリピン、米支配に反乱を起こしたエミリオ・アギナルド、逮捕。

4月2日、米への忠誠を誓う。

3月23日

3月23日~26日 ロンドンの漱石


「三月二十三日(土)、夜、 Metropole Theatre (メトロポール劇場)で Robert Marshall (ロバート・マーシャル)の ""The Royal Family"" (『王室家族』)を観る。翌朝のためワイシャツ・靴下を替える準備をする。

三月二十四日(日)、井原斗南を Balham (バラム)に訪ねる。不在。渡辺雷を Clapham Common (クラッパム共有地)に訪ねる。不在。田中孝太郎と同行である。

三月二十六日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。夜、井原斗南訪ねて来て、三月二十八日(木)の夕食に招待される。長尾半平(在パリ)から手紙来る。」(荒正人、前掲書)


3月24日

東京地裁・区裁の判検事ら、司法官増俸予算削減に抗議し、辞表提出。各地の地裁にも波及。

3月24日

第15議会閉会。

3月24日

英外相、林董駐英公使に英独協商は満州にも適用と回答。

3月24日

ランズダウン英外相、揚子江協定(1900.10.16)を満州に適用することを回答。

3月25日

珍田捨己駐露公使、満州に関する露清約定等について露に抗議。

3月26日


「 ある日左千夫鯉(こい)三尾を携へ来りこれを盥(たらい)に入れてわが病牀の傍(かたわら)に置く。いふ、君は病に籠(こも)りて世の春を知らず、故に今鯉を水に放ちて春水(しゅんすい)四沢に満つる様を見せしむるなりと。いと興ある言ひざまや。さらば吾も一句ものせんとて考ふれど思ふやうに成らず。とやかくと作り直し思ひ更(か)へてやうやう十句に至りぬ。さはれ数は十句にして十句にあらず、一意を十様に言ひこころみたるのみ。

 (後略)

(三月二十六日)」(子規「墨汁一滴」)"


3月27日

佐藤栄作、誕生。

3月27日

ロンドンの漱石


「三月二十七日(水)、 Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊している常陸丸の立花銑三郎より手紙あり、病気帰国の途中なので直ちに見舞う。容態悪い。立花銑三郎と同船の医学士望月淳一と渡辺雷を British Museum (大英博物館)と National Gallery (ナショナル・ギャラリー)に案内する。夜、渡辺雷来る。(立花銑三郎のことをさらに話したものと思われる)領事館の諸井六郎(推定)が examiner (試験委員)の件で来訪する。」(荒正人、前掲書)


3月27日 漱石、ドイツへ留学していた旧友立花銑三郎をアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に見舞う。日記には「気の毒限ナシ」とある。


「・・・・・立花銑三郎は肺を病み、帰国中の常陸丸からその旨を知らせてきた。漱石はすぐにアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に彼を見舞った。どう見ても重病で、立花はその後、香港を出てすぐに船中で死亡した。ドイツで立花と親しかった藤代素人(禎輔)の回想「夏目君の片鱗」に、立花の句として真偽不明の話が残っている。おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


「立花銑三郎は、常陸丸で Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊中に芳賀矢一に手紙を出す。そのなかに、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」という句を書き添えている。日本とロシヤの戦争が近いことを知り、ロンドンに来ている日本人の生活を皮肉ったものと思われる。(藤代禎輔(素人)「夏目君の片鱗」『漱石全集』月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)


3月28日

北海道会法公布。

3月28日

3月28日~3月31 ロンドンの漱石


「三月二十八日(木)、朝、長尾半平(在パリ)から手紙来る。入浴のため外出する。夜、長尾半平に手紙を書き、借金を申し込む。その前か後に、 Miss Robert (ロバート嬢)とピンポンをする。多忙のため井原斗商の夕食招待は断る。

三月二十九日(金)、 Glasrow University (グラスゴー大学)の examiner に任命するとの総領事館(84 Bishopsgate Street Within, E.C.)からの通知を受ける。井原斗南から、夕食に応じられなかったことは残念だと葉書来る。

三月三十日(土)、「白シャツ襟ヲ易フ、近頃ハ毎日風ナリ、」(「日記」)昼、 Hippodrome (ヒッポドローム)を見に行く。安い席なく、五シリング払う。「帰リニ bus ニ乗ツタラ『アバタ』ノアル人ガ三人乗ツテ居タ、」(「日記」)夜、 Glasgow University (グラスゴー大学)の書記官 Clapperton に examiner 承諾したと書き送り、 Addison (アディスン)に試験問題を送る。

三月三十一日(日)、田中孝太郎と Brockwell Park (ブロックウェル公園)に行く。男女二人連れの一人は、金之助たちを日本人と云い、他の一人は中国人と云う。」(荒正人、前掲書)


長尾半平: "

「慶応一年(一八六五)七月二十八日生れ。昭和十一年(一九三六)六月三十日、京城にて死去する。明治二十四年(一八九一)七月、帝国大学工科大学土木科を卒業する。明治二十年(一八八七)、帝国大学に入学してまもなく麹町教会で受洗する。明治十五年(一八八二)、新潟中学校を卒業した年に禁酒を誓い、後に禁酒運動に尽力する。明治三十三年(一九〇〇)四月、台北市区計画委員の時に、ヨーロッパに出張し、八月、臨時台湾基隆築港技師になる。台湾総督官後藤新平の命令で、金銭や時間の制限なく出張していた。初めはホテル、次に漱石と同じ下宿、続いて近くに知り合いがあったので、そこに下宿した。漱石と同じ下宿にいた期間は、一月十九日(土)以後三月二十八日(木)以前と推定する。長尾半平は、四月中に、パリからロンドンに戻ったと想像される。その時、漱石の下宿にいたとも、近くの下宿に移っていたとも二通りの想像ができる。長尾半平の「ロンドン時代の夏目さん」(『漱石全集』二十巻 月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)には、次のように述べられている。

「或る時、夏目さんが金を貸してくれといふので、いくら位だいと問ねたところ、『まア二十ポンドぽかり』といふので、その時夏目さんがいかにも呑気なので、私はぷしつけに『一體その金は返してくれるんだか、それとも君にやるんだか』と問ねたところ、夏目さんはいかにも悠長に『いやア、返すんだよ』といつて、結局その時、二十ポンド程、夏目さんに貸したやうなわけである。」長尾半平は、日本に帰ってから、この金を返して貰ったと語っている。」(荒正人、前掲書)


3月29日

羽仁五郎、誕生。

3月29日

鉄幹、晶子に手紙。「粟田のかりね しのばれ候、あひたく候、四月の末とは遠き遠き候ことに候かな」。

3月29日

クラーク・ゲーブル、誕生。

3月30日

閣議、渡辺国武蔵相、突如、公債支弁国家事業の中止を提案。第4次伊藤内閣、渡辺と他閣僚の意見不一致となる。

5月2日伊藤は、閣内不統一で辞表提出。

3月30日

「荒城の月」「箱根八里」などを収めた「中学唱歌」、東京音楽学校から出版。

3月31日

アントニン・ドボルザークのオペラ『ルサルカ』初演(プラハ)。


つづく

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 PR会社の(折田)社長が県の有識者会議に出席し、県から15万円の謝礼が支払われていた。公職選挙法では県と利益を伴う契約の当事者が選挙に関して寄付することを禁止しています 選挙管理委員会「PR会社の社長が行った行為が寄付なら法に抵触する可能性…」 /   “広報”女性社長は「一度もやったことない」のに兵庫県eスポーツ検討会委員に選ばれていた…彼女を選挙カーに上げた理由を聞かれた知事は仰天回答(集英社オンライン)  



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 兵庫・斎藤知事の選挙カーでライブ配信 公選法違反疑惑を浮上させたPR会社・女性社長のSNS戦略の実態を目撃(AERA.dot); 〈広報全般を任せていただいていた〉 斎藤氏のアカウントすべてを〈管理・監修〉 選挙カーに同乗してライブ配信していた折田氏 「ガッツポーズなどの演出も折田さんの戦略」 「私の働きは400人分に見えていたんや!」 選挙運動への報酬は公選法違反の疑いが 斎藤氏の弁明と食い違う折田氏のブログ 「刑事告発も視野に入れている」   

 



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 「立花さんのYouTubeでテレビのウソがわかった」「メディアは一切信用しない」兵庫県知事選、斎藤元彦氏の応援団に“1か月密着取材” 見えてきた勝利の背景(NEWSポストセブン)



 

【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】 野村修也 テレビ(ミヤネ屋)で斎藤兵庫県知事を擁護 亀井弁護士の発言を遮ってまでの醜態だった模様 

2024年11月26日火曜日

庭の鉢植えのハイビスカスが開花した 2024-11-26

 11月26日(火)晴れのち曇りのち雨

2日ほど前からハイビスカスが花開く気配。

まさかと思ったけど、今朝、しっかり開花していた。

なんか嬉しい。

このハイビスカス、長男が海外駐在する際に譲り受けたもの。

譲り受けた時は、まだ「草」の様だったけど、今は(モチロン今も「草」だけど)「木」のようにしっかりした幹に育っている。


欧州車、5万人リストラ EV失策で部品各社も生産過剰に(日経);「欧州の自動車産業が2024年に入り、少なくとも5万人の従業員を削減すると表明したことが分かった。見通しや推定も含めると10万人を超える。欧州連合(EU)による電気自動車(EV)の振興策を受けて工場の刷新に踏み切ったが、ドイツなど主要加盟国が支援を縮小したことでEV生産能力が過剰になった。部品大手にも影響は波及し、リストラ後の先行きも不透明だ。」   

 

袴田巖さんの支援団体が検察に抗議 「総長談話を撤回した上で…」 静岡地検トップの謝罪意向を受け(テレビ静岡) / 「検事総長が公言してしまったわけですからね  私たちは今でも袴田さんが犯人だと思っています。 だけど裁判の長期化に配慮して控訴をしなかったのだと この発言を撤回せずに 静岡地検検事正が 「裁判の長期化」について謝罪をする そんな謝罪、しないほうがましです。」(岡口基一)

大杉栄とその時代年表(326) 1901(明治34)年3月15日~21日 「総ての楽、総ての自由は尽く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。」(子規「墨汁一滴」)

 

キュー宮殿

大杉栄とその時代年表(325) 1901(明治34)年3月12日~14日 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。」(漱石「日記」) より続く

1901(明治34)年

3月15日

上海の張園でロシアの要求を拒否する集会。「拒俄運動」。

3月15日

大杉栄(16)、幼年学校隣接の地方裁判所が火事になり「御真影」の警護につく。


3月15日

「 散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治(とうじ)に行く楽、紅燈(こうとう)緑酒(りょくしゅ)美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓こする楽、道灌山(どうかんやま)に武蔵野の広きを眺めて崖端(がけはな)の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥(ざが)の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠(かわや)に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪(かんしゃく)の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震といふ時に早速飛び出す自由。――総ての楽、総ての自由は尽(ことごと)く余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇(はげ)しくして執筆の自由は殆ど奪はれ、腸胃漸(ようや)く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。

 耶蘇(ヤソ)信者某(なにがし)一日余の枕辺(ちんぺん)に来り説いて曰(いわ)くこの世は短いです、次の世は永いです、あなたはキリストのおよみ返りを信ずる事によつて幸福でありますと。余は某の好意に対して深く感謝の意を表する者なれども、奈何(いかん)せん余が現在の苦痛余り劇しくしていまだ永遠の幸福を謀るに暇(いとま)あらず。願くは神先づ余に一日の間(ひま)を与へて二十四時の間(あいだ)自由に身を動かしたらふく食を貪(むさぼ)らしめよ。而して後に徐(おもむ)ろに永遠の幸福を考へ見んか。

(三月十五日)」(子規「墨汁一滴」)

3月15日

独、ビューロー宰相、揚子江協定の満州適用を否定。英日独間の反露ブロック交渉中断。

3月16日

義和団事件での軍事費を捻出するための増税諸法案、12日の勅語を受けて、貴族院で可決。

3月16日

田中正造、衆議院で足尾銅山鉱毒事件を見過ごす政府を非難。

3月16日

この日の漱石


「三月十六日(土)、田中孝太郎と共に、 Metropole Theatre (メトロポール劇場)で Ralph Lumley (ラルフ・ラムリー)の ""In the Soup"" (『スープの中で』)という滑稽劇を見る。」(荒正人、前掲書)


3月16日 この日付け漱石の『日記』。


日本ハ三十年前ニ覚メタリト云フ。然レドモ半鐘ノ声デ急ニ飛ビ起キタルナリ。其覚メタルハ本当ノ覚メタルニアラズ。狼狽シツゝアルナリ。只西洋カラ吸収スルニ急ニシテ、消化スルニ暇(イトマ)ナキナリ。文学モ政治モ商業モ皆然ラン。日本ハ真ニ目ガ醒ネバダメダ


3月17日

3月17日~18日 ロンドンの漱石


「三月十七日(日)、襟白シャツを替える。昼、田中孝太郎と共に、 Kew Garden (キュー・ガーデン 植物園)を見、 Kew Palace (キュー宮殿)に赴く。

三月十八日(月)、中根重一からの手紙で、次女恒子の生れたこと知らせてくる。立花銑三郎(在ベルリン)宛手紙に、二、三日前、芳賀矢一と藤代禎輔(素人)からの連絡で病気で帰国することを知ったが、その際、 London に寄るなら、自分の下宿に来ないかと伝える。日本人相手の下宿屋だが、現在は他に日本人は一人(田中孝太郎)いるだけで、暫くすると、フランスから一、二名乗るかも知れぬと書き添える。」(荒正人、前掲書)


3月18日 この日付け漱石の『日記』。


「吾人ノ眠ル間、吾人ノ働ク間、吾人が行尿送尿の裡(ウチ)に、地球ハ回転シツゝアルナリ。吾人ノ知ラヌ間ニ回転シツゝアルナリ。運命ノ車ハ之卜共ニ回転シツゝアルナリ。知ラザル者ハ危(アヤフ)シ。知ル者ハ運命ヲ形(カタチヅ)クルヲ得ン」


3月17日

露、サンクト・ペテルブルク、反帝政派暴動。レフ・トルストイ破門に抗議の学生がカザン大聖堂に押し掛けミサを中止させようと路上で反帝政のビラ配布。コサック兵が鎮圧。同様の暴動は、モスクワ、オデッサ、キエフ、ハリコフでも発生。

3月18日

黒岩涙香「巌窟王」連載。1年3ヶ月。

3月19日

3月19日~20日 ロンドンの漱石


「三月十九日(火)、 Dr. Craig の許に赴く。謝礼を払う。夜、入浴に行く。煙草四箱を買う。

三月二十日(水)、風雨激しい。 Camberwell Park (キャンパーウェル公園)を散歩する。鏡から手紙(二月十日(日)付)届く。(出産を伝えたものと思われる)」(荒正人、前掲書)


3月20日

張之洞湖広総督、小田切上海領事に満州三省開放提議。

5月11日、政府は見合わせることを勧告。

3月20日

加藤外相、清国公使に満州に関する露の期限付き要求(3月26日まで)を拒否することを勧告。露に対しても、要求の撤回を勧告。

3月21日

ロンドンの漱石


「三月二十一日(木)、文部省からの送金届かず大いに困る。金沢の藤井乙男(紫影)から、書籍購入の委託を受ける。イギリス・フランス・ドイツは、世界の強国と自惚れているが、ギリシャやローマの滅びたことを忘れている。日本は未来に向って、誠実な努力を払うべきだと思う。」(荒正人、前掲書)


3月21日付け漱石のロンドン日記

ヨーロッパ列強について、


「(前略)英人ハ天下一ノ強国卜思ヘリ仏人モ天下一ノ強国卜思へり独乙人モシカ思ヘリ彼等ハ過去ニ歴史アルコトヲ忘レツゝアルナリ羅馬ハ亡ピタリ希臘モ亡ビタリ今ノ英国仏国独乙ハ亡プルノ期ナキカ、」


と、世界の帝国主義列強国イギリス、フランス、ドイツの前途を思い、それでは日本はどうすればよいのかを考える。


「日本ハ過去ニ於テ比較的ニ満足ナル現在ヲ有シツゝアリ、未来ハ如何アルベキカ、自ラ得意ニナル勿レ、自ラ棄ル勿レ黙々トシテ牛ノ如クセヨ孜々トシテ鶏ノ如クセヨ内ヲ虚ニシテ大呼スル勿レ真面目ニ考へヨ誠実ニ語レ摯実ニ行へ汝ノ現今ニ播ク種ハヤガテ汝ノ収ムベキ未来トナツテ現ハルベシ」


と真面目に考える。

留学中の漱石はとくに愛国者である。しかし、脱亜入欧主義者でも、国家主義者でも、帝国主義支持者でもない。世界が見えるロンドンから日本の過去、現在、未来を透視している漱石である。


また、この日の『日記』には、


ふたたび、「カルルスバード一瓶ヲ買フ」(胃腸薬)とある。


つづく

2024年11月25日月曜日

七里ヶ浜からの富士山 ほんの少し紅葉が始まった鶴岡八幡宮国宝館まえ 2024-11-25

 11月25日(月)はれ

今日は朝からクリヤな富士山が見えそうなので、七里ガ浜に行ってみた。

いつものように、朝の間はグズグズしていたので、現地着は正午頃。それでも、まあまあクリヤな富士山を見ることができた。

次に、経験的には鎌倉でも早めの紅葉が見える鶴岡八幡宮に向かった。

お目当ての国宝館まえ、ほんの少しだけ紅葉が始まっていた。

いやはや、今年の紅葉巡り、どうなるか見当もつかない。

▼七里ヶ浜からの富士山(正午ころ)


▼行合川鉄橋と江ノ電


▼鶴岡八幡宮源平池

▼国宝館まえ
位置で紅葉が始まっている


▼柳原神池周辺
まだ紅葉とは言えないレベル


【兵庫県斎藤知事公選法違反問題】(11/25百条委員会サボって全国知事会出席。東京のマスコミにきっちり詰められる) → 斎藤知事代理人弁護士 PR会社にポスターデザイン費として約71万円払うも契約書はなし(カンテレ) /「PR会社に70万円支払い」兵庫県の斎藤元彦知事「SNSなどについて意見を伺った」公選法違反との指摘は「事実ない」否定(FNN) /  PR会社にポスターデザイン制作費などの名目で70万円あまりを支払ったと認める 斎藤元彦知事のSNS戦略に公職選挙法違反の疑い指摘(TBS) / 斎藤氏代理人「70万円はチラシやポスターのデザイン制作費」 後援会名義で支払いと説明(産経) / 斎藤元彦知事ヤバい体質また露呈! SNS戦略めぐる公選法違反「釈明の墓穴」…PR会社タダ働きでも消えない買収疑惑(日刊ゲンダイ) / 玉川徹「選挙運動は記載されてる事だけが許される。それ以外の記載がない事は全て許されない。SNS戦略も記載がないので許されない。」 / PR会社社長「答えるなと言われている」(口止め!) / 斎藤「折田さんはボランティア」 / 記者「ポスターを製作する人がなぜ斎藤さんの横で選挙カーの上に乗ってSNSを配信していたんでしょうか」 答え「そこを含めて今、代理人、弁護士が対応を考えていますので」 / 齋藤氏が広報戦略費を払った場合→公職選挙法違反 無償で戦略企画した場合→政治資金規正法違反    


〈報道ステーションのツイート全文〉

【#斎藤知事】公選法違反の可能性は?PR会社社長は“ボランティア”

▼#公職選挙法 では選挙運動は原則“無報酬”

例外として“報酬が支払える場合”も

・選挙運動の事務員

選挙事務所内で事務作業をする人

・車上運動員

いわゆる“ウグイス嬢”など

・手話通訳者

演説などを手話で通訳

→これ以外に報酬を支払うと“#買収罪”

また、ポスター製作を業者が有償で行うことも認められる

▼今回は何を問題視?

日本大学法学部 安野修右 専任講師

「業者が主体的に選挙運動の企画・立案を行っていた場合、選挙運動にあたる可能性が高い。もし斎藤氏の陣営が報酬等を支払っていたとしたら、公職選挙法“買収罪”抵触の可能性」

▼斎藤知事は25日の取材で…

「ポスターなどの製作費として、PR会社に70万円ほど支払った。SNSは斎藤事務所が主体的に運用。PR会社の社長はボランティアとして参加した」

日本大学法学部 安野修右 専任講師

「報酬を受け取るべき業務を無償で行っていたとしたら、“#寄附行為”にあたる可能性。仮に県と利害関係があり、寄附行為をしていたとすれば、公職選挙法199条1項“特定の寄附の禁止”に該当する可能性も」




 



〈報道ステーション+サタステ ツイート全文〉

【#兵庫県知事選 PR会社社長は『ボランティア参加』】

兵庫県 #斎藤元彦 知事

(Q.SNS全般を任せ、広報の金を払っていたのでは?)

「今回の件について、公選法違反にならないと認識」

▼先週水曜日、PR会社社長が公開したnote

「今回広報全般を任せていただいていた立場として、まとめを残しておきたいと思います」

「私が監修者として運用戦略立案、アカウントの立ち上げ、プロフィール作成、コンテンツ企画、信頼できる少数精鋭のチームで協力しながら運用していました」

「ご本人は私の提案を真剣に聞いてくださり、広報全般を任せていただくことになりました」

「そのような仕事を東京の大手代理店ではなく、兵庫県にある会社が手掛けたということもアピールしておきたいです」

総務省によると、ネットを利用した選挙運動への対価として報酬を支払っていた場合、公職選挙法の『買収罪』が適用される可能性があります

兵庫県 斎藤元彦知事

「(PR会社に)ポスターの制作などを依頼したという事実はございます」

「制作物を依頼したということが事実でございます」

(Q.お金は払っている?)

「製作費として70万円ほど支払っています」

斎藤知事の代理人弁護士は、あくまでポスターなどの製作費であり、公職選挙法違反にはあたらないとしています

(Q.70万円以外は一切払っていない?)

「そうです」

(Q.ネット戦略立案については無償でやってもらった?)

「基本的にはご意見は伺ったり、アイデアは聞いたりしましたけど、斎藤元彦陣営・斎藤元彦として主体的に対応した」

「(PR会社社長は)ボランティアとして個人で参加されたと認識しています」


▼“ボランティア”だったとしても問題が―

PR会社社長は、去年から兵庫県の『空飛ぶクルマ会議』で検討委員を務めていました

公職選挙法では、特定の地方公共団体と利害関係のある契約者が、その地方の知事選などでの寄付行為を禁止しています

→無償で業務をしていた場合、“寄付”に該当する可能性


兵庫県 斎藤元彦知事

(Q.県の検討委員を務めているという認識はあった?)

「いろんな場面で接触するということがありました」

(Q.契約上まずいことになるという意識はなかった?)

「今回については、知人の方を介して紹介をしていただいた」

「法令に抵触するような事実はないと認識していますので、代理人の弁護士に対応を一任していますから、そちらのほうでしっかりと確認をしていきたい


▼PR会社の社長はANNの取材に対して―

(Q.今回の件は仕事としてやっていた?)

「『答えるな』と言われています」

(Q.SNSの仕事を請け負っていた?)

「『答えないで』と言われています」

(Q.弁護士ですか?)

「そうですね」

(Q.説明が必要では?)

「それも含めて今答えられません」


 

 

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