2024年11月11日月曜日

大杉栄とその時代年表(311) 1900(明治33)年12月1日~15日 漱石、ロンドンで第3回めの下宿(フロッデン・ロード6番地)に移る 山川登美子結婚(「それとなく 紅き花みな友にゆづり そむきて泣きて 忘れ草つむ」)

 

漱石第3回めの下宿(フロッデン・ロード6番地)

大杉栄とその時代年表(310) 1900(明治33)年11月23日~30日 漱石、クレイグ(シェークスピア学者)から個人教授を受ける(~翌年8月) 「頗る妙な爺だよ。余り西洋人と緑が絶ても困るから、此先任の所へは逗留中は行く積りだ。」 「明星」第8号発禁(一条成美のフランス裸体画) より続く

1900(明治33)年

12月

陸軍士官学校に初めて清国から留学生が入校(40名)。韓国からは明治29年1月が最初。

12月

国木田独歩「置土産」(「太陽」)

12月1日

ポルフィリオ・ディアス、メキシコ大統領に6期連続就任。マゴン兄弟、レヘネラシオン紙創刊、ィアス独裁反対の論陣を張る。

12月1日

レーニン、マルトフらがシュトゥットガルトで社会民主労働党機関紙『イスクラ(花火)』発刊。レーニン「中国の戦争」。

12月5日

吉岡荒太・弥生夫妻、東京飯田町に私立東京女医学校開設。明治41年第1回卒業生竹内茂ら3人。

12月6日

6日ころ 漱石、2番目の下宿の家族関係が複雑で契約違反でもあるため3番目の下宿に転居


「十二月六日(木)、当日以前、 6 Flodden Road, Camberwell New Road, London,S,E, の Harold Brett 家に移転する。(ロンドンで第三回めの下宿)一週二十五シリング。 Brett 夫妻のほか、 Mrs. Brett の妹 Miss Kate Sparrow, Brett 夫妻の親族 Miss Robert, Mr.Webster (スコットランド人)が寄宿する。(Mr, Brett は工学士。 Mrs.Brett は教育家)

馬車に書物を載せ、十二キロの道を行く。元は、小さい私立 ladies' school (女学校)であったが、伝染病のため閉鎖して、下宿屋に変えたもので、 Brett 夫妻と妹の Kate が経営している。屋根裏部屋(女中住む)を入れて、四階建である。日本人を好んで下宿させている。(宮川清、米津恒次郎もいる)妹は、宗教心も厚く控えめだが、姉の方は少しお転婆である。女中に、「ペン」というおしゃべり好きがいる。この建物は後に、 Charles Edward Brooke School for Girls (チャールズ・エドワード・ブルック女学校)になる。最近は、再び下宿屋となる。「筆への見やげものに『クリスマス』の『カード』依頼致候筈の處混雑の際失念致候」(十二月二十六日鏡宛手紙)と云っているのは、この頃の慌しい生活のために生じたものか。

池辺(小中村)義象が小山正太郎と共に Paris から来て、寄宿する。(帰国したら、中根家に立寄り、近況を伝えると云う。)」(荒正人、前掲書)

「このフロッデン・ロード六番地の家は、テムズ南岸のオーヴァル(ケニントン)という地下電気の駅から徒歩で約二十分ほどのところにあった。途中、両側に貧民窟が延々とつづいているかなり広い道がカンパーウェル・ニュー・ロードで、そのはずれ近くを西側(右手)にはいったところにあるややましな住宅地が、フロッデン・ロードである。角は兵営で二番地・四番地を占め、煉瓦造り三隅建ての六番地は、さらにフロッデン・ロードがハルスメア・ロードという小さな路地と交叉する角屋敷であった。・・・・・

「下宿の女主人はミセス・プレットといい、その妹と女主人の夫、それに下女と犬二匹というのが主人側の家族であった。下宿人には金之助のほかに、サミニル商会というところに勤めている田中という日本人がいた。・・・金之助の部屋は三階の東側で、頭上の四階、つまり屋根裏は下女の「べッジパードン」ことペンの部屋になっていた。彼は毎朝眼覚めぎわに、ひびのはいった不景気な天井を通してペンがゴトゴトやっている物音を聴いた。田中の部屋は二階にあった。」(江藤淳『漱石とその時代2』)

「・・・・・十二月六日(*日付ママ)、十二キロも離れたテムズ河の南、キャンパウェルに転居した。

東京でいえば深川、あまり人気(じんき)のよいとはいえぬ土地柄で、その四階建の下宿の三階に漱石は住んだ。下宿料は週に二十五シリングであった。ひと月なら五ポンド強、すなわち五十円強である。ということは二食つきで月に六十万円程度になるこの下宿で、漱石は二十世紀を迎えたのである。」(関川夏央、前掲書)

12月8日

田口卯吉、谷干城ら、芝公園の弥生館で東京市公民大会を開催。政友会の市政私物化と市政の腐敗を糾弾。

12月9日

クロード・アシル・ドビュッシーの『夜想曲(雲・祭)』(1899年作曲)、初演。

12月10日

台湾製糖株式会社設立(社長鈴木藤三郎、本社台南県)。資本金100万円・2万株。

糖業への資本輸出はかなり遅れる。1895年設立の日本精製糖・日本精糖両社には台湾進出の余裕はなく、総督府からの投資要請は三井家に向けてなされる。台湾製糖株式会社は、年6分の利益補助等の保護を総督府からとりつけ設立。三井物産(計2500株)・皇室・毛利家(各1千株)はじめ原六郎・鈴木藤三郎(社長)・藤田伝三郎・住友吉左衛門(各500株)ら有力資本家が出資し、台湾人糖商からも陳中和(750株)と王雪農(250枚)が参加。総督府は、殖産局長新渡戸稲造の「糖業改良意見書」に基づき、1902年以降おもに機械制製糖工場を対象とする糖業保護政策を実施。

12月13日

田口卯吉(45)、横浜・太田町の日盛楼での横浜経済会35回例会で「北清実見談」を演説。

12月13日

アインシュタイン、チューリッヒから最初の論文を『物理学年報』誌に送る。

12月14日

万国鉱業所有権保護同盟条約及び附属議定書修正追加条約調印。1902年8月18日公布、9月14日実施。

12月14日

独人の物理学者マックス・ブランク、エネルギーは断続的に塊状で放射されるという学説を発表。輻射エネルギーの不連続性を説明。この塊を量子と命名、量子論の基礎を築く。

12月14日

仏・伊秘密協定締結(~16)。モロッコのフランス支配権とトリポリにおけるイタリアの優先的権益を相互承認。

12月14日

ベルギー、トゥールネ近郊ベル・ウィユ城(1394年完成)全焼。絵画・財宝焼失。

12月中旬

山川登美子、故郷で元メルボルン領事館書記生、銀座の江副商会支配人山川駐七郎に嫁ぐ。「それとなく 紅き花みな友にゆづり そむきて泣きて 忘れ草つむ」(「明星」11号)。

山川登美子;

明治12年7月19日、福井県遠敷郡雲浜村竹原第16号字西壱ノ堀12番地に父貞蔵、母ゑいの4女として誕生。山川家は代々若州藩酒井家の御目付役・側用人の家で、貞蔵は7代目で第二五銀行頭取。登美子は姉みちの嫁ぎ先から大阪の私立梅花女学校を明治30年卒業、同33年4月、同校研究生となる。その夏、登美子は鉄幹と晶子に出合い、鉄幹への思慕を募らせる。しかし、登美子の姉たちは親戚関係もしくは貞蔵の知人の家に嫁ぎ、登美子の場合も同様で、旧藩士佐伯成充より持ちこまれた縁談が同族の山川駐七郎との結婚。駐七郎は山川一郎家養子で(一郎の妻の甥)、東京高商(現、一橋大学)卒業、外務省入り、メルボルン日本領事館書記生として在勤、病気(肺結核)のため帰国、銀座の貿易商江副商会の支配人。「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」(「明星」11月号)。晶子を意識した歌を詠み、悶々と悩み、諦めと忍従の道に進む。12月、登美子は結婚し、東京市牛込区矢来町3番地で新婚生活を始める。


つづく

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