大杉栄とその時代年表(309) 1900(明治33)年11月12日~22日 漱石、ロンドンで2回めの下宿に移る(『永日小品』「下宿」「過去の匂ひ」) ロンドン大学に通う 原敬、大阪毎日退社 より続く
1900(明治33)年
11月22日
漱石、ケア教授の紹介でシェークスピア学者ウイリアム・J・クレイグから個人教授を受けることにする(週1回、翌年10月ごろまで)
「十一月二十二日(木)、 Ker 教授の紹介で、 Baker Street (ベーカー通り)の西側 Gloucester place 55A 二階に、雇女と二人で住むシェークスピア研究家のアイルランド人 William James Craig (1843-1906)博士に個人教授を依頼する。好感を抱く。毎週一度火曜日。一時間五シリング。(翌年八月頃まで私宅に通う)
十一月二十三日(金)、 Hampstead Heath (ハンプステッド・ヒース)に、長尾半平と共に行き(推定)、愉快な感じ抱く。ロンドンに来て、最も愉快な日である。水夫として日本に行ったと云う将官に会う。日本を賞讃する。
十一月二十七日(火)、 Craig の許に行く。(推定)
十二月四日(火)、 Craig の許に行く。」(荒正人、前掲書)
「学校の方を話さう。 Univercity College へ行って英文学の講義を聞たが、第一時(とき)の配合が悪い。無暗に待たせられる恐がある。講義其物は多少面白い節もあるが、日本の大学の講義とさして変つた事もない。滊車へ乗つて時間を損して聴(きき)に行くよりも、其費用で本を買つて読む方が早道だといふ気になる。尤も普通の学生になって、交際もしたり図書館へも這入たり、討論会へも傍聴に出たり、教師の家へも遊びに行たりしたら少しは利益があらう。然し高い月謝を払はねはならぬ。入らぬ会費を徴集されねばならぬ。其のみならず、そんな事をして居れば二年間は烟の様に立つて仕舞ふ。時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月許り出席して其後やめて仕舞た。
「同時に Craig と云ふ人の家へ教はりに行く。此人は英誌及「シエクスピヤー」の方では専門家で、自分で edit した沙翁を「オクスフオード」から出版して居る。「ダウテン」の朋友で、今同教授が出版しつつある沙翁集中の「キングリヤ」の edior である。「ベーカー」町の角の二階裏に、下女と二人で住んで居る。頗る妙な爺だよ。余り西洋人と緑が絶(たえ)ても困るから、此先任の所へは逗留中は行く積りだ。」(明治34年2月9日付け狩野亨吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎の4人宛ての手紙)
「先生はアイルランドのロンドンデリーに生まれた。秀才でダブリン大学を卒業し、ウェールズで大学教授にもなったが、その職を捨て、ロンドンで個人教授をしながらシェイクスピア研究に没頭した。漱石が通ったときはベーカー街の「角の二階裏」に下女と住んでいたという。日本流に言えば建物の裏側の三階か。階数は「クレイグ先生」では四階であり、どちらが正しいのか、今でも決着はつかないようだが、「股が痛くなるほど階段を上った」というから、ここでは仮に四階と考えておきたい。一年近く、この階段を毎週上るのはかなりの努力を必要としただろう。
だがそれを厭わなかったのは、彼がイギリス人でただ一人好感を抱き、共感できる人物だったからである。クレイグからは主としてキーツやワーズワースらの詩に対する批評を聞いたが、それよりもいつも脱線し、話が飛散する、それでいてシェイクスピアの厳密な文献学的研究で知られるこの老学者に、彼は未来の自分を重ねて見たのかもしれない。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「一八四三年十一月六日、北アイルランド北端 Coleraine (コールレイン)の西南 Macosquin (マコスキン)に生れる。その地方で、副牧師をしていた George Craig (ジョージ・クレーグ)の二男である。一八六一年七月一日、 Dublin のダブリン大学 Trinity College (トリニティ・カレッジ)に入学、一八六五年に歴史とイギリス文学で銀牌をえて、学士となり卒業する。一八七〇年に、修士になる。卒業後、 Trinity College で個人教授をする。一八七四年、ロンドンに移り、個人教授をする。一八七六年に、 Wales (ウェールズ)の Aberystwyth (アべリストゥイス)の University College (ユニヴァーシティ・カレッジ)の英語・英文学の教授になり、シェークスピアを教える。一八七九年、 University College を退職。その後、 Hatfield (ハットフィールド)で、 Salisbury (ソールズペリー)侯爵の末子 Hugh Cecil (ヒュー・セシル)の個人教授をした期間を除いて、ロンドンで個人教授となり生計を立てていた。但し、漱石の個人教授だけでは生計は立つ筈もなく、数人を教えるか、または遺産などがあったかもしれぬ。一八九四年、オックスフォードのクラレンドン出版局から一巻本の "The Oxford Shakespeare" (『シェークスピア全集』)を刊行。これには短い語彙集が付いている。教職にいた頃から、 Schmidt (シュミット)の "Shekespeare-Lexicon" (『シェークスピア・レキシコン』)を越える総合的語彙集を編むために、エリザベス時代の作家からの引用も集めていたけれども、余りに厖大な仕事なので未完に終る。だが、 Methuen (メシューイン)社版 "The Little Quarto Shakespeare" 1901-4.39 vols.(『小四つ折版シェークスピア』)のための序説と脚注を完成する。一九〇一年以後は、友人であった Edward Dowden (エドワード・ダウテン)教授の仕事を受けついで、 "The Arden Shakespeare" 1899-1924. 39 vols. (『アーデン・シェークスピア』)を監修する。クレーグは、 "King Lear" (『リア王』一九〇一年刊)を担当する。これは、この全集のなかで最も優れたものである。漱石が私的教授を受けていた時期には、以上のような仕事に熱中している。クレーグはその後、 "Coriolanus" (『コリオレーナス』)にも取り組んでいたけれども、これは完成しなかった。漱石が私的教授を受けている時期に、 "Coriolanus" の仕事も始めていたかもしれぬ。」(荒正人、前掲書)
「毎週火曜日のクレイグの個人授業には、彼は地下電気で通っていた。下宿からケニントンまで徒歩で行き、オーヴァル駅では昇降器というもので吊り下げられて、五分間隔でやって来る電車に乗る。電車はテムズの河底をくぐりぬけ、四つ目のパンクという駅で市中を東西に横断する地下鉄(現在のセントラル・ライン)に乗換える。金之助は地下電気の穴の中の空気が異臭を放っているのにへきえきし、そのなかで乗客が新聞や雑誌を読みふけっているのにおどろきの眼をみはった。乗っているだけでも車の動揺に酔って吐気を感じるほどなのに、ものを読んでいる人間がいる。金之助は人力車と鉄道馬車以外の都市交通にこれまで乗ったことがなかった。街鉄と呼ばれる市街電車がはじめて東京市中に設置されたのさえ、明治三十六年(一九〇三)八月、金之助が帰国してのちであった。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
11月23日
子規、再び闇汁会を催す。今回は歌人を招く。左千夫、節、格堂ら、根岸短歌会の9人が集まる。
11月26日
平山信、小惑星「ヒスパニア」を発見。
11月26日
漱石の、この日付け妻鏡子宛書簡。
「天気のわるきには閉口、晴天は着後数えるほどしか無之、しかも日本晴といふやうな透きとほるやうな空は到底見ること困難に候。もし霧起るとあれば日中にても暗夜同然ガスをつけ用を足し候。不愉快この上もなく候。」
11月27日
「明星」第8号発行。
12月9日、内務大臣男爵文学博士末松謙澄から発禁の通達。一条成美のフランス裸体画が風俗壊乱(一条は責任を取って退職)。末松はかつて青萍と号して「太陽」誌上で新派の和歌を攻撃した論争の相手。鉄幹は「末松青萍博士に質す」(「読売新聞」)を書く。
「明星」9号では、「文芸のためにこの如き迫害は、言論の許すかぎり理非を質さで已むまじく候」と内務省に戦いを挑む。
11月28日
田中正造、川俣事件第15回公判で、抗議の大欠伸、官吏侮辱罪で起訴。
11月30日
英詩人ワイルド(44)、没。
つづく
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