2024年11月11日月曜日

長和3年(1014)2月7日 鎮守府将軍平維良、道長に莫大な贈物を持参 藤原隆家を大宰権帥に任命

東京 北の丸公園
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長和3年(1014)
この年
・この年、石清水八幡宮寺の権別当元命(げんみよう)が九州へ赴く途中、讃岐の海上で海賊と遭遇して合戦し、死傷者14人を出して備後に逃げ込む。これは、同僚の権別当院救(いんきゆう)が殺害を図ったものとして訴え出た。
この後も、元命と院救の対立は続く。
また、これとは別に、天台宗の中で山門と寺門(延暦寺と園城寺)の有名な武力抗争も展開される。
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1月
・この頃の受領功過定の様子。
この年正月の除目の際に行われた受領功過定では、伊予介藤原広業(ひろなり)の勤務評定について、中納言藤原行成が問題点を指摘したため、22日~24日の定(さだめ)では決着せず、10月の京官除目にまで持ち越され、最終的に左大臣藤原道長の判断によって「無過」となった(『小右記』)。

一方で、道長の家司受領(けいしずりよう、家政機関の職員で受領を兼ねている者)に対しては概して評価が甘い。
道長の代表的な家司である藤原惟憲(これのり)の場合、この年正月12日に近江守惟憲は「未だ着任せず」(『小右記』)とあるが、3月29日には着任前にもかかわらず、賀茂禊祭料を進納しており、「相府(道長)譴責の詞あり」とある。
惟憲は近江守在任中、着任しないで禊祭料を進納するなど芳しからぬ行いがあった。
寛仁3年(1019)正月22日の県召(あがためし)除目の最中に行われた受領功過定においては、他の受領についてはいろいろ意見が出ているのに、惟憲については、「近江国の事(惟憲、無過)」と何の問題もなく直ちに「無過」と定められている。
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1月17日
・この日付け『小右記』に、既に公卿が22人もいるのに除目でさらに1人ふえることを、「弾指すべし」「乱代の極みのまた極みなり」と書かれている。
この公卿のインフレを、実資は「太(はなは)だ汎愛。世間の珍宝、悉く蓮府(道長)に到る」と、道長に賄賂が贈られる結果だと、道長に人事の責任があると考えている。

道長は長和元年(1012)12月に源道方を参議に任じて公卿を21人にした時、「公卿廿(にじゆう)人を過ぐる事、宜しからざる事なり。然れども申す所その理有り。下﨟を以て不覚に前に任ぜられ、その愁ひ尚は身に留むと。また参議多く書読せざる者有り、定の間見苦しきこと事に触れて多端」と、それなりの理由を日記に記している(『御堂関白記』)
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1月27日
・彗星出現。
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2月
・源頼親(清和源氏)、これまで大和守、淡路守、右馬頭、伊勢守を歴任し、この月、道長から摂津守に推挙されたが、「土人」のごとし(土豪のごとく現地に深い利害関係がある)として、三条天皇の反対を受けて任官を断念させられた。
その後、彼は大和に進出し、道長没後に再度大和守に就任、子孫は大和源氏となる。
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2月7日
・長保5年(1003)に、下総国府を焼き討ちした平維良(これよし、平兼忠の息子、将門を討った平貞盛の曾孫)に対して、追討使が派遣されたにもかかわらず、事件はうやむやとなった。

そして維良は、数年後には鎮守府将軍となり、延任(重任)の取りなしを求めるため、道長に馬・鷲羽・砂金など莫大な贈り物を持参した(『小右記』長和3年2月7日条)。
贈物は、馬20頭、うち12頭は道長に、8頭は道長の諸子に贈る分である。そのほか、矢を入れる胡籙(やなぐい)とか、鷲の羽・砂金・絹・綿・布と、莫大な品々を道長邸に運び入れ、人々は道路に群集してこれを見物した。
こんにちからすれば明白な汚職行為であるが、当時の感覚では多少の非難はあっても、これを罪科と見る向きはなく、公然と行なわれた。

いわば前科者の維良がその後、財宝を積んで位も授かり、鎮守府将軍にも昇り、主従ともに益々富強となって、重任の運動に上京して来た。

この維良の件を実資は非難の意をこめて日記に書いているが、実資に対しても、諸国の受領からはかなりの付け届けがあったらしい。

実資は 「かつて追捕官符を受けて指名手配された男が、五位に叙され鎮守府将軍に任じられた。すべて財貨の力である」と日記に記している(『小右記』)と非難している。

長保5年(1003)正月、下総守宮道義行(みやじのよしゆき)から維長が国府館を焼亡させ官物(稲穀など国衝財産)を略奪したという「兵乱」が報告されて追捕官符が下され、藤原惟風(これかぜ)が追討使として派遣された。
しかし9月、惟風から届いた調査報告書に対して左大臣道長は惟風の署名がないなどの難癖をつけて、事件はうやむやになってしまった。
道長は捜査を妨害して、家人維良を救済したのである。
宮道義行は実資家の家司として忠勤に励んだ人物であり、実資は家司義行の兵乱報告が虚偽と認定されたことを屈辱とし、他の平氏一門が曲がりなりにも小野官流に仕えているなかにあって、恩を仇で返すような行為をした維長に腹を立てている。

平貞盛の子孫と摂関家との関係
平貞盛とその子息たちは、藤原北家の中でも実頼・頼忠・実資の系統(小野宮(おののみや)流)に仕えていた。
実資は、貞盛の養子で常陸国に居住する「僕」(家人)維幹を五位に推挙しようと運動し、常陸介として赴任する家人維衡に馬1匹を餞別として送り、維時が持ち込んできた弘法大師直筆と称する「大般若経」の真偽鑑定を三蹟で名高い権大納言行成に頼み、行成は「凡筆に非ず、貴重とすべし、随喜すべし」と嘆息している。
維敏・維叙(これのぶ)らも頼忠・実資に仕えていた。
しかし、兼家・道長と九条流が摂関家の地位を不動のものにしていくと、貞盛の子息たちも道長へと奉仕の比重を移していく。
ただし、維叙が臨終出家することをまず実資に伝え実資から道長に連絡していたり、上総介赴任中に病を得て上洛した維時が一番先に実資に連絡しているところをみると、道長との関係よりも実資との主従関係の方が深く親密であったようである(『小右記』)。

しかし摂関家と貞盛子孫との関係は、源氏ほど強固な関係にはならなかった。
蔵人・殿上人として内裏の奥深くで天皇を直接警固する源氏と、検非違使として京内犯罪を取り締まる平氏とでは、宮延社会における家格の差は歴然としていた。
この家格差は摂関家との主従関係の親密さの差とも密接に結びついていた。

摂関期、表舞台に立っていた源氏の陰で雌伏していた平氏は、やがて院権力と結合して源氏を凌ぐようになる。
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2月9日
・この日午後10時過ぎ、内裏の北側にある登化殿から火災が起こり、内裏の諸殿舎はほとんど焼失した。
おりから正月27日いらい、天空には彗星が出現して人々を恐れさせ、天文道の博士が異変の起こるべきことを密奏した直後の事件である。
この不祥事に天皇の心痛は激しく、間もなく左の目が見えず、片耳も聴力を失うという状態となり、紅雪(こうせつ)や阿梨勒丸(ありろくがん)などという薬を服用した甲斐もなく、病状は日増しに進んで、年末にはついに失明に近くなった。
「亥(午後9時~午後11時)の終剋の頃、(中原)師重が云(い)ったことには、「西の方角に火事が有ります。その距離は、はなはだ遠いものです」と。驚いて見てみると、すでに宮中に当たっていた。そこで急いで参入した。」(『小右記』長和3年(1014)2月9日条)
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3月1日
「(藤原)資平が内裏から退出して云ったことには、「三条天皇が私(資平)を召し、おっしゃって云われたことには、『(清原)為信が上京したということを聞いた。すぐに召させたとはいっても、病の障りを申して参らなかった。・・・」
「・・・但し二度、私(三条天皇)は丹薬を服用し、その後、冷物を食した。ところが、近日では、片目が見えず、片耳が聞こえない。・・・(清原)為信に問うて、申した趣旨を奏上するように』ということでした」と。」
(『小右記』長和3年(1014)3月1日条)
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3月6日
「深夜、按察使納言(あぜちなごん/藤原隆家)が、布衣(ほい)を着して来て、熊野に参った事を談(かた)った。また、目は頗(すこぶ)る平減したとはいっても、出仕することはできない。都督に任じられる望みが、もっとも深い。」(『小右記』長和3年(1014)3月6日条)
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3月12日
「巳剋(午前9時~午前11時)の頃、北西の方に火が有った。雑人が申させて云(い)ったことには、「大宿直所が焼亡しています」と云うことだ。しばらくしてまた云ったことには、「火は内蔵寮の不動倉および掃部寮に移りました」と云うことだ。」(『小右記』長和3年(1014)3月12日条)
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3月14日
「夜に入って、(藤原)資平が来て云(い)ったことには、「・・・『先日、左府(藤原道長)および大納言(藤原)道綱が、連れだって、天道が主上(三条天皇)を責め奉ったのだということを奏上した』と云うことです。・・・」
「・・・皆、思うところが有るようなものです。『主上(三条天皇)は、詳しくその志をわかっておられる』と云(い)うことでした。これは右金吾(うきんご)将軍(藤原懐平)が、密々に私(藤原資平)に談(かた)ったことです」と。・・・」
「僕射(ぼくや/藤原道長)は、たとえ思うところが有るとはいっても、(藤原)道綱がどうして同心するのか。愚である、愚である。天譴(てんけん)は避け難いのではないか。
(『小右記』長和3年(1014)3月14日条)
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3月22日
「(藤原)資平が望む任官について、頭弁(藤原朝経)に事情を聞いた。その報に云(い)ったことには、「昨日、奏聞したところ、(三条)天皇がおっしゃって云ったことには、『左大臣(藤原道長)に、妨害の意向がある。・・・」
「・・・「(藤原)道雅と(藤原)兼綱を、先ず蔵人頭に補せられるべきものです。ところが専一に(藤原)資平をおっしゃられるのは、如何なものでしょう」と。勅答して云ったことには、「恪勤であるので、資平を中将に任じたのである。・・・」
「・・・蔵人頭についてもまた恪勤によるべきである。但し(藤原)道雅と(藤原)兼綱は、恪勤ではない上にその職に堪えることはできないであろう」と。左大臣(藤原道長)が申して云(い)ったことには、「追って定め申すこととします」と。・・・
・・・意向は、(藤原)経通を推挙するのであろう』ということでした」と。万事あれこれ、丞相(藤原道長)の口に懸かっている。
(『小右記』長和3年(1014)3月22日条)
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3月25日
「(藤原)資平が云ったことには、・・・「また、(藤原道長が三条天皇に)譲位を行うよう、責めることが有りました。はなはだ耐え難いということについて、天皇の仰せ事がありました」ということだ。奇である。恠である。」(『小右記』長和3年(1014)3月25日条)
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5月
・この月の造内裏定で、天皇の意向として実資の兄の懐平(かねひら)が造官別当に内定していたが、御前定で道長が若い教通(のりみち)に定める。
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5月16日
「還御の後、急に民部大輔(藤原)兼綱を蔵人頭に補された<(藤原)能信を三位に叙した替わり>。式部卿親王(敦明親王)が、今日、馬場に於いて懇奏したものである。」
「この蔵人頭については、度々、(三条)天皇がおっしゃって云(い)ったことには、「欠員が有る時は、必ず(藤原)資平を補される」と。人を介しておっしゃられ、また、資平にもおっしゃられた。」
「ところが汗と同じである綸旨(りんじ)は、掌(てのひら)を返すに異ならないばかりである。後々、(三条)天皇の仰せは頼むことはできない。また、数度、おっしゃられた事が有った。今となっては、思い出すことができない。
(『小右記』長和3年(1014)5月16日条)
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6月
・この月、藤原実資が所領である筑前国高田牧に遣使し、大宰府にいた宋の医僧より薬を購入しようとする。
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6月17日
藤原為時、越後守の任期を任期を1年残しながら職を辞して帰京
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11月7日
「夜に入って、(藤原)資平が来て云ったことには、「・・・(三条)天皇が還御した後、陣座に於いて除目が行われました。中納言(藤原)隆家を大宰権帥に任じました。・・・除目については、左大臣(藤原道長)が奉行しました」と。」(『小右記』長和3年(1014)11月7日条)
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12月
・この月の『小右記』に、亡くなった大宰大弐藤原高遠の所有していた大瑠璃壷を道長が奪ったという話がある。唐物熱の高さが窺える。
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