森まゆみ『子規の音』(新潮社)より
・・・・・慶応三(一八六七)年生れの子規は明治三十四(一九〇一)年の春を、根岸で数え三十五歳で迎えた。・・・・・明治三十四年は一九〇一年、二十世紀の幕開けの年である。
(略)
元旦には物理学徒寺田寅彦が来た。二日には俳句の弟子、河東碧梧桐が来た。
七日、歌の弟子、岡麓(ふもと)が子規を慰めようと、春の七草を竹の籠に植えてもってきた。この間、年賀状を貰ったり害いたりして子規の時間は過ぎる。
十三日、横腹に疼痛を覚え、長いものが書けないので、一日二十行以内に文言短文を書いて、日本新聞社に送ることにする。これを「墨汁一滴」と題す。この日は輪飾りのことを書いてみた。
翌十四日には岡麓がくれた七草の籠について書いた。芹、薺(なずな)、五行、田平子(たひらこ)、鈴菜(小松菜のたぐいならん)、鈴白(赤蕪)、仏の座のかわりに亀の座とあるのは縁喜物をつくる植木師の心遣いであろう、とある。
あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため
「墨汁一滴」の最初の稿が思ったように一月十五日に掲載されなかったので子規はがっかりした。「何も嫌だ。新聞も読みたくない」と子規はいった。翌十六日より掲載。安堵した。七月二日まで百六十四回続くことになる。・・・・・・
子規没の前年明治34年1月7日に子規の和歌の弟子岡麓が、春の七草を竹籠に仕立てて子規に贈った。子規はこれを喜び、1月14日に記事にして、『墨汁一滴』の2回目(1月17日)に掲載された。
一月七日の会に麓(ふもと)のもて来こしつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠(かご)の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座(かめのざ)といふ札あるは菫(すみれ)の如(ごと)き草なり。こは仏(ほとけ)の座(ざ)とあるべきを縁喜物(えんぎもの)なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行(ごぎょう)とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子(たびらこ)の札あり。はこべらの事か。真後(まうしろ)に芹(せり)と薺(なずな)とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾(つぼみ)のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜(すずな)とあるは丈(たけ)三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白(すずしろ)の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪(あかかぶら)にて紅(くれない)の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊(こと)にきはだちて目もさめなん心地する。『源語(げんご)』『枕草子(まくらのそうし)』などにもあるべき趣(おもむき)なりかし。
あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来(こ)し病めるわがため
(一月十七日)
春の七草は、「せり なずな おぎょう(こぎょう) はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞななくさ」と言われるが、岡麓が子規に贈った竹籠には七草それぞれに名を記した札が立ててあった。「仏の座」は病人に対して縁起が悪いので「亀野座」と記してあった。
子規は麓の心遣いに感謝して歌を詠んだ。
なお、春の七草についてはコチラの解説が分かり易い。
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ちなみに我が家では、東京から横浜に帰省していた次男が、今日(1月6日)東京に戻るというので、今朝七草粥を戴いた。
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