2026年1月7日水曜日

大杉栄とその時代年表(728) 1907(明治40)年5月 「百姓ほどみじめをものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯(かてめし)を食って、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生活を送って居る。地を這ふ爬虫(むし)の一生、塵埃を嘗めて生きて居るのにも譬ふれは譬へられる。からだは立って歩いても、心は多く地を這ってゐる。親切に思遣ると気の毒にもなるが、趣味に同情は無い。僕はその湿気臭い、鈍い、そしてみじめな生活を見るたびに、毎(いつ)も、醜いしものを憎むと云ふ、ある不快と嫌悪を心に覚える。」(真山青果「南小泉村」)   

 

真山 青果

1907(明治40)年

5月

真山青果「南小泉村」(『新潮』)

青果真山彬(あきら、数え30歳)は、強烈な我執と鋭い判断力を持った青年で、自らを高く持しながら、その気質は動揺甚しく安定することがなかった。彼は仙台の第二高等学校医学部に籍を置いていたが、その間に徳富蘆花の作品を愛読し、深い影響を受けた。学業を途中で放概して、郡立病院の薬局生、開業医の代診、中学校教師などをしてから、明治36年に上京し、蘆花に弟子入りをしようとした。蘆花はちょうど精神的動揺のさ中にあった時で、自分には人の師となる資格なしと言って、彼の入門を拒んだ。

その後彼は3歳年上の佐藤紅緑の門人となり、書生としてその家に寄寓した。佐藤紅緑の紹介で彼は新潮社の社主佐藤儀助に知られ、「新潮」に作品を発表する縁が出来た。

佐藤紅緑は、青森県弘前市の出身で、新聞「日本」の陸羯南の親戚に当っていたので「日本」に勤務し、子規の下で俳句を学んでいた。子規没後、彼は虚子周辺に居心地のよい場所を見出すことができず、「読売新聞」に勤務して、その関心を小説に移した。明治39年11月、彼は「中央公論」に「行火」を発表して注鼠された。同じ年、彼の戯曲「侠艶録」が高田実の一座によって本郷座で上演され、大当りを取ったため、それ以後佐藤紅緑の関心は演劇に移り、小説家としては次第に通俗小説を書くようになった

真山青果は、三流どころの文芸雑誌「新潮」だけがその発表舞台であった。青果は明治37年~38、「かたばみ」、「点晴」、「零落」、「決闘」という作品を立て続けに「新潮」に書いたが、最初の作品「かたばみ」が小栗風葉に認められた。原稿料で生活できるようになった青果は、牛込区袋町の安下宿に居を定め、今度は2歳年上の小栗風葉に弟子入りした。

小栗風葉は、引き立たない風貌の小柄な男で、弟子の青果は丈の高い眉目秀でた好男子であった。二人とも素面のときは他人を気にして、冗談も言えない人物であったが、酒が入ると、自己抑制力を失って、目の前にいる相手を見境なく罵倒した。青果は上等の酒を好んだが、風葉はどんな下等な地酒でも手当り次第に飲んだ。二人は肝胆相照らす仲となり、才能縦横で筆の早い青果は、風葉のために代作をして酒代を稼いだ。酔うと傍若無人になる青果は、師匠の風葉に議論をしかげ、喧嘩し、風葉は破門すると言って青果を追い帰した。だが二三日すると、すぐに和解するのかきまりであった。和解のために酒を飲むと、すぐまた喧嘩して破門騒ぎになる、という状態が続いていた。

明治39年~40年、文壇では、この頃の風薬の作品はみな青果の代作だという噂が行きわたっていた。

明治40年春、青果は、そういう生活の泥沼から脱出するために、仙台郊外の南小泉村で代診生活をした時の体験に取材したこの作品を力を込めて書いた。「南小泉村」は第一節と第二節から成る三十枚ほどの短篇であった。主人公の「僕」は医学校を中途退学して、親戚の家でぶらぶら遊んでいるうちに、この南小泉村の収入役をしている百姓に言われて、仙台に住んでいる医者の代診として働くことになる。彼はその村に住んでいる、もと士族の石岡という老夫婦の家に間借りをして、その仕事をはじめた。そこで一年働いた経験の結論を彼はこの小説の冒頭で次のように述べていた。

「百姓ほどみじめをものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯(かてめし)を食って、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生活を送って居る。地を這ふ爬虫(むし)の一生、塵埃を嘗めて生きて居るのにも譬ふれは譬へられる。からだは立って歩いても、心は多く地を這ってゐる。親切に思遣ると気の毒にもなるが、趣味に同情は無い。僕はその湿気臭い、鈍い、そしてみじめな生活を見るたびに、毎(いつ)も、醜いしものを憎むと云ふ、ある不快と嫌悪を心に覚える。」

これは主人公「僕」の百姓を見る目であると同時に作者真山青果その人の心でもあった。彼は農村の生活者たちを、徹底的に低俗をもの、醜悪をもの、無智と我執と我慾の典型として描いた。

この小説は、全然救いを認めない餓鬼道として人と人との関係を描いた点で、読者にショッキングな印象を与えた。しかも青果の描写は綿密で自然の変化、人物の表情態度などをその急所で把握しており、それが一層この作品の冷酷残忍な感じを強めた。

青果の「南小泉村」について、田山花袋は「文章世界」6月号の匿名の「文芸月評」で「仙台の在の農村の有様がよく出てゐる。読みごたへのある作だ。唯だ作者の小主観が客観化されずに、至る所に出てゐるのか、やゝ作物の重みを減じたやうに感じられる」と評した。この「文芸月評」はほとんど総ての作品について手酷い批評を加えていた。5月に発表された作品の中では、僅かに国木田独歩の「疲労」を、「この作には、止むを得ずに働いて、而して、人生に疲れてゐるものゝ胸に痛切に響く所がある。6月の創作壇で、最も振ってゐるものゝ一つである」と称譲した外は、いずれも否定的な批評であった。僅かに「南小泉村」が、その独歩の作の次に位するものとして扱われていた。独歩はこの当時、新文学を代表する最も才オある人と見られていたのであるから、青果はかなり高い評価を得たのである。

文壇では、この「南小泉村」を正宗白鳥の「塵埃」と並べ、いま文壇で論議の中心になり、待望されている自然主義文学の本質を持つものとして、この二篇の新作が比較して論ぜられる習慣がこの時から生れた。

(『日本文壇史』より)

5月

木下尚江「霊か肉か 上編」(「文淵堂」)。下編は梁江堂翌41年1月刊 。

5月

正宗白鳥(数え29)「独立心」(「新小説」)

5月

小川未明の作品集『愁人』

未明小用健作は新潟県商田町の出である。父は神職で、上杉謙信を崇拝し、春日山の古城址に謙信神社を創設した。明治28年健作は高田中学校に入り、そこで糸魚川町生れの相馬昌治と学友になった。

数え19歳のとき、健作は学校を中途退学し、翌年(明治34年)、上京して早稲田大学予備校に入学し、後英文科に入った。その頃小泉八雲が早稲田大学で教えていてその講義を聞いた。小川は学校よりも坪内逍遥に親近して、直接その指導を受けた。逍遥は純真で夢想癖のある小川を愛して、彼に雅号未明を与えた。

未明は英文科在学中からロシア文学を愛読し、その民衆尊重思想の影響を強く受けた。一年遅れて相馬昌治もまた早稲田大学へ入ったので、二人の間に親交があった。外に小川は、同じ時期の学生の梅渓高須芳次朗、酔夢西村真次、孤雁吉江喬松、天弦片上伸等とも交際した。小川は在学中から多くの習作短篇を書き、23歳のとき「帰思」を「読売新聞」に、「漂浪児」を「新小説」に発表した。

明治38年数え24歳で早稲田大学を卒業。卒業論文は「ラフカディオ・ハーン論」であった。この年彼は盛んに作品を書いて新聞や雑誌に送ったが、3月に「新小説」に掲載された「霰に霙」は甚だ好評で、作家としての地位をほぼこのときに作ることができた。

小川未明は卒業の翌年(明治39年)、新潟県長岡市の出である山里吉子と結婚した。この年島村抱月は彼を招いて早稲田文学社に入れ、新しい児童文学を起すために「少年文庫」の編韓に当らせた。しかしこの雑誌は成功せず廃刊になると、小川はそこを辞して、翌年の明治四十年に、正宗白鳥の紹介で「読売新聞」の記者となった。

この年6月、小川未明はそれまでに書いた短篇小説や小品文を集めて作品集「愁人」を出版した。坪内逍遥はその本に序文を書いて、未明の特色を説明し、この作家は「作られたる人にあらずして、生れたる人」であると述べた。


5月

荒畑寒村、徴兵検査。海軍水兵(4年)に決まる。

12月1日横須賀海兵団入営。医師の入れ智恵で菅野のカンフル0.5gを服用、翌日、兵役免除となる。

5月

月初め、坂本清馬(小石川砲兵工廠警夫)、平民社訪問、初めて幸徳秋水に会う。

5月

堺セルロイド株式会社創立。資本金200万円。

5月

日本化学工業株式会社創立。資本金60万円。

5月

北陸人造肥料株式会社創立。資本金100万円。

5月

片倉組、埼玉県熊谷町に石原製糸所設置。

5月

英、第1回マン島ツーリスト・トロフィ・オートバイ・レース開催。

5月

インド暴動発生。軍投入。

6月6日、イギリス政府、いかな状況の下でも撤退せずと宣言。

5月

仏、マルセイユ、水夫ら労働条件改善求めゼネスト。

5月

オーストリア普通選挙法に基く選挙。キリスト教社会党98議席、社会民主党87。ドイツ人233人、チェコ人107、ポーランド人82など。

5月

米、母の日、初の実施。


つづく


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