1907(明治40)年
5月
呉海軍工場で巡洋艦起工。11月進水。1万4,600トン、実馬力2,400、速力22節。
5月
安部磯雄ら7名、内相原敬に谷中村土地収容に対する訴願書提出。
5月(又は6月)
(漱石)
「五月または六月(推定)、夜、大塚保治の許で催された集りに出席する。出席者は十人ほどで、大塚楠緒も出席する。京都の感想や『吾輩は猫である』の山の芋を盗まれた話などについて聞かれる。漱石は、ある匂いを嗅ぐとその匂いを嗅いだ時の光景を思いだすこと、イギリス留学時代に客を招き、主人役になり、肉を配るとき、肉の良い部分を自分の皿にとり、客には骨の部分だけを配ったので、客はナイフもフォークも下におき、手持ち無沙汰にしている。途中で気付いたが、仕方ないのでさっさとかたづけてしまったと失敗談を話す。大塚楠緒や他の客も面白がる。大塚保治の客間には、ランプが三つ四つおいてあり、高低を自在にすることができる。大塚保治に夫人の考案かと聞くと、出来合いだと答える」(荒正人、前掲書)
5月
天魔童子「女子の堕落と論客の無責任」(「新声」)。
「女学生堕落の問題は、近ごろ新聞雑誌論壇の火花となりぬ」。働いても学んでも女には「堕落」の声がつきまとう。
5月
三木露風、早稲田大学高等予科文科へ入学。『芸苑』『早稲田文学』『新声』に次々と作品を発表。
5月
中村星湖(せいこ)「少年行(しょうねんこう)」(「早稲田文学」)
星湖中村将為(まさため、数え24)は、山梨県南都留郡河口村の製糸業兼農家の長男に生れた。母から読書趣味を受け、父から俳句などを作る手引きを受け、10歳の頃「里見八犬伝」を読み終える。山梨県立甲府中学校に在学中から、校友会誌や「中学世界」などに投書する文学少年で、「文芸倶楽部」、「新小説」等に載る小説類を耽読した。
中学校卒業後、神田の伯父の家に寄萬しなから早稲田大学の英文科に学ぶ。その間にも5円の賞金で小品文を募集していた「万朝報」に何度か当選し、坪内逍遥を牛込の宅に訪ねて指導を受けた。また早稲田の先輩、「毎日新聞」記者孤島中島茂一に知られてその新聞に文芸評論を書き、学友の片上伸や未明小川健作等と交際した。
明治38年、島村抱月が帰朝すると、彼は学友の片上伸に伴なわれて島村抱月を訪ねた。この頃彼はキリスト教に心を惹かれ、本郷教会で海老名弾正の手で洗礼を受けた。中村は熱心な投書家で、「新小説」に投書した「老巡礼」が明治39年1月号に1等当選として発表された。明治39年1月、「早稲田文学」が島村抱月により再刊され、その創刊号の社告で「新作小説及脚本」を「新たに文壇に出でんとするものの為め」に募集していた。早稲田大学に学ぶ文学青年たちは活気づいた。その年7月、中村は自分の少年時代の思出を中心とした作品「少年行」を書きはじめ、それを「早稲田文学」に送った。
天弦片上伸は中村と同年齢だが、中村より1年早く、明治39年に早稲田大学を卒業して、「早稲田文学」の編輯員になっていた。
明治40年4月のある日、片上伸は中村に逢って、「少年行」が選者二葉亭四迷によって1等当選に推されたことを知らせた。次いで中村は島村抱月に逢った。その時抱月(数え37歳)は、早稲田大学英文科教務主任であり、前年から牛込薬玉寺前町に住んでいた。そこは墓地の隣なので、抱月は自らその家を対墓庵と号していた。このとき彼は妻いち子との間に一男二女があった。
中村がその対墓庵へ朝早く訪ねて行くと、島村は彼を二階の書斎に通し、「少年行」を近く「早稲田文学」臨時増刊号に載せる予定だが、その前に一度選者の二葉亭を訪ねて、なお訂正すべき点などについて注意してもらったらよいだろう、と言った。中村は、二葉亭は坪内逍遥ですら一目置いでいる大家であることを知っていた。また彼は二葉亭の翻訳「片恋」や「あひゞき」を何度も繰り返して読んでいたので、その二葉亭に逢う機会を得たことを喜んだ。抱月は、「長谷川さんは大そうな寝坊で十時か十一時でないと起きない人だと聞いているから、朝早く行ってはいけませんよ」と中村に言った。
中村は学者町として知られている本郷区西片町十番地にノ三十四号の二葉亭(数え44歳)の家を訪ねて行った。入口の格子を開けて案内を乞うた。若い女性が出て来て、名刺を渡すと中村は二階へ通された。この若い女性は、明治35年に二葉亭と結婚した後妻りう(数え25歳)であり、二葉亭との間に一男一女があった。
二葉亭は人並より大きな身体に質素な着物をまとい兵児帯をしていた。男らしい顔だちだが、憂鬱そのもののような表情で、額には太刀瘡を思あせるような深い竪飯が刻まれていた。強度の近視眼らしいその眼鏡の下の目が鋭かった。
中村が、自分の「少年行」を雑誌に載せる前に、欠点があったら注意して頂いて訂正したい、と言ったところ、二葉亭は、
「注意すべき点と言って、別に・・・あのままでいいでしょう。一体、文学というものは教ぇるとか訂正するとかいう種類のものでないですからね」と答えた。
「あの作についてではなくても、今後自分などの気をつけなければならぬ点を」と更に中村がたずねると、二葉亭は、謙遜な態度で、
「自分には文学の事は全然分らないが、自分は昔ゴーゴリの『肖像画』という短篇を訳したことがある。あの中には文学や芸術を以て身を立てようとする人の教訓になりそうなことが書いてあったから、折があったら読んでみなさい」と言った。
また二葉亭は、若くて文学に志す人は、自分の親兄弟のことなど顧みず、どんな犠牲を払っても志す方へ突進しようとするものらしい。自分の友人の矢崎嵯峨の屋なども、若い時は実に真剣に努力したものだが、その生活は気の毒をほど惨めをものであった。結局今は嵯峨の屋も生活に負けて、文学からすっかり離れた形になった、と語った。
嵯峨の屋御室(矢崎鎖四郎、数え45歳)は、明治19年24歳の時に、外国語学校の学友であった長谷川辰之助(二葉亭)の紹介で坪内逍遥に師事し、坪内の家に同居して小説の修業をはじめた。その後彼は多くの小説を書き、また金港堂、「国民新聞」、「朝日新聞」等に記者としての籍を持った。しかし生活は容易でなく、34歳のとき「国民新聞」を辞して、文筆一本で生活するようになってからは、一層困窮の度を加え、方々の下宿屋を転々として移り住んでいた。
36歳の頃、キリスト教徒となり、二度も見神の体験を持ち、人生観が明るくなった。しかし同時に文芸著作への執諸が次第に減退し、また作家としても時代に取り残された存在となった。明治37年42歳で小林とせと結婚し、かつ日露戦争開戦に当ってそのロシア語の学力を買われて、大本営幕僚事務扱いとなった。明治39年、陸軍士官学校露西亜語教官となり、長男が生れて、はじめて生活に安定を得た。この頃からほとんど小説の作を廃した。
中村は、二葉亭訪問の数日後、九段下の大橋図書館(博文館創設者大橋佐平が死の直前に創立)にでかけた。そこで彼は、二葉亭訳のゴーゴリ「肖像画」の載っている「太陽」明治30年1月号から3月号までを探し出し、借りて読んだ。それは、ある天才的な画家が、漸く世に認められて、人気が出ると、人気にまかせて濫作をはじめ、贅沢を生活を楽しむようになる。その生活が続くうちに次第に堕落して平凡な通俗画家になる、という筋のものであった。彼はそれを読んだ印象を述べ、それを終生の教訓とするつもりであるとの手紙を書いて長谷川のところへ送った。
中村の「少年行」は「早稲田文学」5月号に載せられた。
この作品は半ば彼の自叙伝であり、その生い立ち、中学生生活から上京の頃までを描いたものであるが、作中の主人公は作者その人を示す奈良原武でなく、その少年時代からの親友宮川牧夫であった。この小説は、この宮川牧夫という少年の破滅を追ったものであるが、その描写の主体は河口湖畔の貧しい農村生活と移り変りの激しい自然の描写にあり、素朴で純情な少年武の心理が中心となっていた。筆力の幼なさがそのままういういしい味となるような鮮明を効果を持っていた。
中村星湖はこの一作によって、数え年24歳で新進作家として世に知られることとなった。
この作品の発表されたすぐ後に彼は早稲田大学英文科を卒業し、この年8月から「早稲田文学」の記者に採用された。中村星湖は若い作家として最も幸福を順調な出発をした一人と見なされた。
(『日本文壇史』より)
つづく

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