1907(明治40)年
5月1日
豊田佐吉、世界初の自動織機の特許を受ける。
5月1日
鉄道現業員救済組合設立(最初の救済組合)。
5月1日
(漱石)
「(五月一日(水)、高浜虚子、『斑鳩物語』(ホトゝギス』第十巻第八号 明治四十年五月一日発行)を発表する。)
五月三日(金)、『東京朝日新聞』紙上に「入社の辞」を掲載する。
五月四日(土)、『文藝の哲學的基礎』の第一回発表される。野上豊一郎宛手紙で、野上ヤヱ (八重子)の作品について「『七夕さま』は『縁』よりもずつと傑作と思ふ読み直して驚いた。」と伝える。
(『七夕さま』)『ホトゝギス』(十巻九号、明治四十年六月号 六月一日発行)に掲載される。署名は野上八重子。最後に「漱石評。大傑作なり」
(『縁』)『ホトゝキス』(十巻五号、明治四十年二月号 二月一日発行)に発表。署名は八重子。漱石の評は「明治の才媛が未だ嘗て描き出し得なかった嬉しい情趣をあらはして居ます。」とある。この時の原稿料は四円であったらしい。
五月上旬(推定)、大倉書店から『吾輩ハ猫デアル』(下篇)の校正刷が出て来たところ、上篇・中篇に較べてページ数が足らぬので、書き足して欲しいと云って来る。断る。」(荒正人、前掲書)
〈野上豊一郎と八重子〉
野上豊一郎は、大分県臼杵の生れ。明治40年に数え25歳。一高から東京帝大英文科に入り、このとき2年級に在学。彼は小宮豊隆、鈴木三重吉とともに木曜会の常連。
この年3月、漱石は、京都旅行に出かけた。漱石が旅に出ると、鈴木三重吉と小宮豊隆が漱石家に留守番として泊り込んだ。その頃、木曜会で遠慮なく振舞っていた寺田寅彦、小宮・鈴木などの間で、この頃野上が妹と言って同居している八重子という女性は本当に妹なのだろうか、ということがしばしば話題になった。野上はその「妹」を木曜会に連れて来ないので、見たものはなかったが、すでにその野上八重子の写生文風の短い小説「縁」が、この年2月の「ホトトギス」に漱石の推薦で載っていた。先輩の寺田寅彦を除けば、木曜会メンバーで文壇的に作品を発表したものは、「千鳥」と「山彦」を発表した鈴木三重吉に次ぐ派手な事件であった。
「縁」が好評であったので、木曜会の仲間は一層野上八重子なる女性を問題にした。野上は何事もはっきり言わない青年で、この青年たちの好奇心を満足させるような返事をしなかった。あるとき、前々年から東大理学部講師になっている寺田寅彦(30歳)が笑い話をした。前年彼が小石川原町の下宿にいたとき、同じ下宿に一高の生徒がいて、その生徒のところへよく女学生が遊びに来ていた。寺田が外から帰ると、玄関に女学生のものらしい靴だとか傘などがあって、あ、今日も来ているんだな、と彼は思った。寺田は高等学校生徒のときにもらった妻をなくして後、二度目の婁寛子と結婚して、ときどき妻を郷里に帰したり呼びよせたりしていた。寺田は、その一高生が今になってみると野上豊一郎だったと言った。それで野上は皆にからかたれた。
野上はそういう話が出て問いつめられると、いま一緒に暮しているのは自分の妹であって妻ではない、と言明した。野上の言明にかかわらず、彼の態度から妹でないと推定したのか、鈴木三重吉であった。森田草平もそれと同意見であった。
ある日鈴木は、小宮を連れてその実相を確かめに出かけると言い出した。鏡子もそれに興味を持って、八重子さんてどんな顔をしている人かよく見て来てちょうたいと言った。小宮はその実相を確かめるよりも、野上八重子という才媛に逢うのか気が引けたので、行くことを渋ったが、鈴木が強引に小宮を連れ出し、訪ねて行った。
行ってみると野上は留守で、八重子一人がいた。このとき八重子は数え23歳であった。鈴木は26歳、小宮は24歳であった。鈴木は、縁側に腰をかけ、八重子に尻を向けながら話をした。八重子は人をそらさぬ応対をし、鈴木相手にロゼッティの話をしたり、酒の肴の話をしたりした。小宮は話題もないし、二人の話の中に飛び込む勇気もなく、二人の話の聞き役にまわっていた。
結局、八重子は豊一郎と同じ臼杵の生れであるが、豊一郎の妻なのか妹なのか分らなかった。小宮は鏡子に、八重子さんは舌ったるい口の利き方をする人で、顔はゼムの広告の女に似ています、と言った。ゼムというのは「四季必携、懐中要薬」として仁丹と競争していた薬で、トランプのダイヤ型の広告に美女の顔を刷って、いたる所に張ってあるものであった。
野上八重子は本名をヤエ、大分県臼杵町の酒造家小手川角三郎の長女。小学校在学中に国学者小中村清矩の弟子久保千尋について、「古今和歌集」、「万葉集」、「源氏物語」、「枕草子」、四書の講読を受けた。明治33年16歳で上京、本郷弥生町にいた伯父小手川豊次郎の家に同居し、明治女学校に入ることになった。「毎日新聞」記者で、伯父の知人であった木下尚江がある日やって来て、明治29年に焼失して数年後、藤本善治の努力で郊外の巣鴨に再建した明治女学校へヤエを連れて行った。
ヤエの実家と同様、野上豊一郎の家も臼杵の酒造家であり、縁つづさにもなっていたので、ヤエは早くから豊一郎と結婚することにきまっていた。明治女学校普通科を卒業してからヤエは高等科に入り、明治39年3月に卒業した。
その頃、明治女学校は、その後に出来た日本女子大学や下田歌子の実践女学校などと違ってて嚢運を辿っていた。一番の病手は、校舎焼失の後間もなく妻の若松賎子を失った巌本善治が、女性問題を起したことであった。明治女学校の卒業生に坂本夏子という才気のすぐれた女性があった。日本に看護学校を建てる目的でアメリカに行って看護学を研究した。帰ってから母校の教になっていたが、独身の藤本と関係が出来、それが外部に洩れて、噂が高まった。それはスキャンダルとなり、学校は破滅に瀕し、やがて身を退くこととなった。明治女学校はそれをきっかけにして崩壊しはじめていた。
明治女学校高等科を卒業して半年後の明治39年8月15日、小手川ヤエは東京帝大に入学したばかりの野上豊-郎(24)と結婚した。八重子の名でものを書き出していた野上ヤエは、明治40年6月、写生文風の短編「七夕さま」と「黒猫」とを「ホトトギス」に発表し、更に8月には「中央公論」に「仏の座」という小説を書き、少しずつ作家として認められると同時に妻としても友人の間に公認されるようになった。
(『日本文壇史』より)
5月1日
『家庭雑誌』5巻7号発行
大杉栄「米国婦人運動小史」「石川、山口両君の入獄」
5月1日
在米無政府主義者、「革命」第3号発行。「忠君思想の犠牲」記事。
5月2日
この日の啄木の日記、「枕上、今日つきし「明星」五号を読む、詩も歌も、さして心にとむべきなし、・・・」。
5月3日
夏目漱石(40)、「入社の辞」(「東京朝日」)。
4日より「文芸の哲学的基礎」第1回~第27回(~6月4日迄)。
7日、「文学論」(大倉書店)。
26日、小宮豊隆と上野・浅草散歩の帰りに虞美人草を買い、次の小説の題名を「虞美人草」と決める。
28日新聞に予告掲載。三越は虞美人草浴衣、玉宝堂は虞美人草指輪を発売。
6月4日「虞美人草」起稿。
「新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。・・・新聞が商売である如く大学も商売である。只個人として営業しているのと、御上で御営業になるのとの差だけである。」
「食ってさえ行かれれば何を苦しんでザットのイットのを振り回す必要があろう。・・・やめた翌日から急に背中が軽くなって、肺臓に未曽有の多量な空気がはいってきた」
「人生意気に感ずとか何とか云う。変り物の余を変り物に適する様な境遇に置いてくれた朝日新聞の為めに、変り物として出来得る限りを尽すは余の嬉(うれ)しき義務である。」。
5月3日
大塚久雄、生まれる
5月3日
大杉栄「エスペラント語講義 第一三回」(『日本エスペラント』)

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