2026年4月18日土曜日

大杉栄とその時代年表(808) 1908(明治41)年10月19日~31日 「十月十九日 十時頃起きると並木君が来た。昨日のボートレースに敗けたといつて残念がつてゐた。一緒に昼飯を喰つて、文部省の美術展覧会を見に上野へ行つた。櫻の葉が少し散つてゐる。日本画の方はソコソコに済して、竹の台の洋画の方へ行つた。出品百余点。二三氏のものを除いてはまだまだ日本の画会も幼稚なもの。・・・・・最後の室にゆくと、鹿子木孟郎氏の大作“ノルマンデーの浜辺”、よく海岸の淋しさが表はれてゐた。・・・・・さて大評判の和田三造氏の“煒燻”、何といはうかこの猛烈な色、見てゐると、何か知ら崇厳な生活の圧迫が頭を圧する………」(啄木日記)

 

和田三造〈煒燻〉

大杉栄とその時代年表(807) 1908(明治41)年10月10日~18日 「昨日も上野へ行つて見ると、展覧会の賑ひは意想外である、その賑ひをなせる観覧者の要素の啻に美術学生等の専門家ばかりでなく、あらゆる職業の人を集めてゐるのには、一驚を喫せざるを得なかつた、やがてこれは美術思想の普及を示すものである、兎角の批評は擱いて、文部省が一臂の力をこの方面に仮〔ママ〕した為に明治美術の存在が世人に知られた一事は徳としなければならぬと思ふ」(『万朝報』) より続く

1908(明治41)年

10月19日

警察当局、反清革命派の中国同盟会の機関誌『民報』を発禁。

この日、日本政府は『民報』第27号を、「新聞紙条例第三十三条違反」として、「発売頒布ヲ停止シ及ビ之ヲ差押エ」た(外交資料「民報関係雑纂」乙秘第1074号、明治41年10月22日)。「発行所の変更を届けなかった」というのがその理由である。このような言いがかりともいえる方法でしか、発行停止に持ち込めなかった。

『民報』の発行停止は、思想の拠り所を失わせただけでなく、収入の上からも打撃になった。

編集長の章炳麟がその不当性を裁判で訴えた。宋教仁も通訳として裁判に立ち会い、法律論を駆使して闘ったが、50円の罰金刑が確定し、『民報』は事実上の廃刊に追い込まれた。彼らはこの罰金の捻出にも苦労し、納付期日まで間に合わなかったため、章は一時入獄している。

この問題には、当時留学生だった魯迅も関わっていた。彼は清朝考証学の学者である章炳麟が、民報社で開いていた国学講習会に通っていた。その当時について、魯迅の弟周作人が書いた『魯迅の故家』に次のような一節がある。

「民報社に通って聴講していたときに、『民報』誌が日本政府によって発行を禁止された。原因はもちろん清国政府の請求によるものだが、表面の理由は出版法違犯ということであった。〔略〕『民報』は同盟会の機関誌といっても、孫中山派はずっと前から関係していなかったので、この罰金も章太炎〔章炳麟のこと〕自身が支払わなければならなかった。納付期限をすぎても支払えないと、一円一日の計算で懲役に服さなければならない。期限ぎりぎりの日になって、龔未生(宝銓)が魯迅を訪ねて相談し、結局さらに許寿裳に頼み、『支那経済全書』の訳本の印刷費の一部を流用してもらって、やっと急場をしのいだ。この事件のために、魯迅は孫文派の同盟会のやり方に非常な不満を感じた(武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す』より)。


10月19日

「十月十九日

十時頃起きると並木君が来た。昨日のボートレースに敗けたといつて残念がつてゐた。一緒に昼飯を喰つて、文部省の美術展覧会を見に上野へ行つた。櫻の葉が少し散つてゐる。日本画の方はソコソコに済して、竹の台の洋画の方へ行つた。出品百余点。二三氏のものを除いてはまだまだ日本の画会も幼稚なもの。・・・・・最後の室にゆくと、鹿子木孟郎氏の大作“ノルマンデーの浜辺”、よく海岸の淋しさが表はれてゐた。・・・・・さて大評判の和田三造氏の“煒燻”、何といはうかこの猛烈な色、見てゐると、何か知ら崇厳な生活の圧迫が頭を圧する………

この画の前を去りかねてゐると、僕らの背後に一人の二十才少し上の、稍背の高い、肉置のゆたかな女が立つてゐた。これは入場した時から僕らと前後して歩いてゐたのだ。マガレツトに幅広の白いリボンを結んで、衣服は何とやらいふお召の羽織に黒い縫紋。女中を一人つれてゐたが、画の見方で怎うやら素人でなかつた。

所へ一人の中背の、やせた、余り風采の揚らぬ、鼠の中折を被つた三十二三の人が来て、此女と挨拶した。そして女が、

“随分思切つた色をおつかひでござンしたねえ!”

“駄目です。”とその人が強く言つた。“思切つて書いたつもりでしたけれど、此処へ持つて来てみると、まるで駄目です。”

“そんな事はございません。私なんかモウ此処から離れたくない様で………”

“自分の画の前に立つてゐると、何だか変ですね。”と言つて軽く笑つたその様子には、妙に恁う小供らしい表情があつた。誰あらう、これがこの天才和田氏でなくて?

と、その女は、

“鹿子木さんも大分大きいものをお出しでござんしたねえ。”

と、パタパタ唇をたたいてゐたプログラムで、横の方にある“ノルマンデーの海辺”を指して言ふ。

“え。パンを食つて書いたのは違ひます。”

この語は、異様に強い響きがあつた。予は妙に憧がれる様な気持で、この人を見た。蓋し鹿子木氏は洋行して来たが、和田氏はまだ行かぬのだ!

和田氏の姿はやがて見えなくなつた。女は室から室と、繰返して見てあるいてゐた。そのうちに僕らが出て了つた。後からその女も出て来て、日本画の方へ行つた。その後姿を茶店のベンチの上から見送つて、屹度女画家であらうと僕は思つた。

彫刻の方では、特別室は見かねたが、荻原守衛氏の“文覚”には目を睜つた。この豪壮な筋肉の中には、文覚以上の力と血が充満してゐさうだ。

    ――――――――――――――――

竹の台のあちこち、通訳をつれた米艦水兵が、三々五々、遊んでゐた。

(略)」(啄木日記)


10月20日

台湾総督府、極印付円銀を公納に使用し得る期限を12月31日限りとする旨制定。円銀は時価をもって引き換え。

10月20日

宮本顕治、誕生。

10月20日

岩野泡鳴『新自然主義』。

10月21日

西園寺公望、桂太郎宛の書簡で、東京に戻った折にお会いしたかったが、「実は宿痾又起り気分あしく」、御多忙中の妨げになると思い失礼しました、と体の不調を述べる。

政友会代議士会や大会における西園寺総裁の演説も、代読が多くなり(1908年12月19日、1909年1月19日、1910年10月19日)、西園寺が行っても演説中に自ら病気にに言及することが多くなる(1909年3月26日、1910年3月25日)。

10月21日

(漱石)

「(十月二十一日(水)、狩野亨吉、病気理由に、京都帝国大学文科大学学長を依願退職する。)

十月二十二日(木)、木曜会。西村誠三郎(濤蔭)・小宮豊隆ら来る。夜、寺田寅彦来る。

十月二十三日(金)、高浜虚子宛手紙に、『寺田寅彦小説集』について、寺田寅彦の意向を伝える。序文は、集った文章を読み直してからにしたいと云う。


「虚子『寅彦小説集』編纂の計畫の由なり」(「寺田寅彦日記」)から推定すれば、漱石は寺田寅彦に、高浜虚子が『寺田寅彦小説集』という文集を計画していると伝える。だが、寺田寅彦は、文集の題名に自分の名前を冠することは強く辞退する。但し、漱石の序文が付くことは反対しなかったらしい。」(荒正人、前掲書)

10月21日

「十月二十一日

秋声の“凋落”を読み了へた。印象は灰色の重き圧迫! この作者は非常に苦心してゐる。が、技巧にはまだまだ足らぬ所がある。世評はこの人の苦心に酬ゐてゐない!

夜また独歩の“濤声”をくり返して、涙が出た。そして金田一君の室へ行つて二時間許り語つた。――今の予には何かは知らぬが力がある。希望がある。そして金田一君も國學院大學の講師になつた。」(啄木日記)


10月22日

幌別鉱山で暴動

10月23日

文部省、教育を通じて戊申詔書の国民道徳作興の聖旨を奉体するよう、直轄学校長、地方長官らに訓令。

10月23日

淡路十四師団を宇都宮へ移す

10月23日

「十月二十三日

よく晴れた日。今日米艦隊の提督スペリーが公式に退京するさうな。

(略)

・・・・・十一時少し前千駄ヶ谷の晶子さんから電話、吉井が来てゐて歌をつくるから来いといふのですぐ出懸けて行つた。再昨夜出した筈の原稿がまだ着かぬといふ。

夕方までに三十五首作つた。平野君もその頃来た。一人六時頃に辞して帰りを平出君に寄つたが留守。

帰つて来て平出君に手紙出した。十時まで金田一君と語つた。十一時頃に一寸出ておでんを喰つて来た。


十月二十四日

午前中に明星へ改めて原稿をかいて送つた。先に書いたつた詩三篇と歌六十首。

此朝にせつ子から葉書。宝小学校の方十六日付で辞令が下つて、十九日から出勤してゐると。三給上俸といふと、予が弥生にゐた時と同じ十二円だ。せつ子に恁麼事(*そのような事)をさせる! それはそれとして、予はホツと一息ついた。家族は先づ以て来春まではあまり郁雨君の補助も仰がずに喰つてゆける。

そして光子も来月から何とか云ふ外国人の家庭教師になることに話がきまつたので、京子を守するために月末までに岩見沢へ行つてゐる母を呼ぶと。

(略)」(啄木日記)


10月24日

台湾の縦貫鉄道全通式挙行(基隆~高雄)

10月25日

小村寿太郎、高平小五郎駐米大使に太平洋問題および清国における機会均等主義に関する日米協商案を訓令。

26日 高平大使、米大統領に草案提示。

10月26日

榎本武揚(73)、没。

10月26日

「十月二十六日

今日はよい日であつた。午前に栗原君から葉書。“鳥影”を島田社長と合議の上貰ふことに確定したと言つて来た。

(略) 

清岡、新渡戸、櫻庭及び郁雨正二君とせつ子とへ葉書――毎日社の小説きまつた事を知らしてやつた。

(略)」(啄木日記)


10月27日

(漱石)

「十月二十七日(火)、エイ、百日咳から腸チフスになり、昨今やっと快方に向う。

十月下旬または十一月初め(日不詳)、春陽堂から『文學評論』の整理催促され、訂正に熱中する。今年中に出版したいという。(明治四十二年三月十六日に刊行される)」(荒正人、前掲書)

10月28日

デイリー・テレグラフ事件。

独皇帝ウィルヘルム二世、英紙『The Daily Telegraph』のインタビュー。自分は英に対して友好的だが独国民の大半は反英的であると発言。国際的反響、皇帝への批判高まる。両国で物議。独首相のフォン・ビューロー公、後に辞任。

10月29日

「世界婦人」発行兼編集人神崎順一の公判。東京地裁。

10月30日

「十月三十日

朝飯を十時頃にすまして、戸塚村に小栗風葉氏を訪ねたが、運悪く不在。・・・・・

千駄ヶ谷に行つて晶子さんに色々話して二時半頃かへつてくると、与謝野氏に逢つて又戻つた。そして晩餐を御馳走になつた。

新たに帰朝した上田敏氏を訪ねた。与謝野氏の伝言を伝へて一時間半許りも話した。少し頭の毛がうすくなつてゐる。そして、盛んに日本文学者がプライドを失つてゐると気焔を吐かれた。

八時頃平野君に途中で逢つて帰り、十時まで語つた。そして昴の一号へ出す小説の題を“泥濘”とした。

妙に昂奮してゐて、金田一君の室へ行つて気焔を吐いた。


十月三十一日

(略) 早起。終日の雨。寒暖計は五十一度に下つた。綿入を着て猶寒い。

貸本屋から借りて、二葉亭訳の“浮草”をよんだ。風葉の青春がこれからヒントをえたものであらう。

約の如く夜雨を犯して千駄ヶ谷にゆき、五円貰つた。帰りに仏語の独修書をかつて来た。

(略)

この日の東京毎日に、“鳥影”の予告文が載つた。」(啄木日記)

10月31日

三菱合資三菱造船所(長崎)、500kWのパーソンス式蒸気タービンを製作、据付。同造船所用の発電機に使用。

10月31日

日韓漁業協定調印。両国民は相手国の沿海、港湾、河川、湖池で漁業をなし得ることとなる。1909年4月1日施行。

10月31日

新詩社の同人で東京毎日新聞社に勤務する栗原古城(元吉)の厚意で「東京毎日新聞」に新聞小説「鳥影」を連載することになり、この日啄木の書いた予告が同紙に掲げられた。「本朝の御紙にて予告文を見、聊か若き心のをののくを覚え侯」(栗原古城宛10月31日書簡)

10月31日

日韓漁業協定調印。両国民は相手国の沿海、港湾、河川、湖池で漁業をなし得ることとなる。1909.4.1 施行。

10月末

箱根林泉寺内山愚堂、秘密出版パンフレット「入獄記念・無政府共産(小作人はなぜ苦しいか)」を巣鴨平民社に持込み全国に発送を依頼。「パンの略取」出版準備中の幸徳秋水は影響を恐れ拒否。平民社にいた森近運平が同情して読者名簿を見せる。

翌日、愚堂は新橋駅前郵便局、国府津駅から発送。

(11月3日愛知県知多郡亀崎町の亀崎鉄工所労働者宮下太吉のもとに50部が届く)。

愚堂は、年内に「道徳否認論」「帝国軍人座右銘」等出す。


つづく


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