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1908(明治41)年
9月10日
清国遼陽及鉄嶺に領事館開館。
9月10日
ロシアと樺太島日露境界確定書(4月10日調印)告示。
9月10日
山田孝雄、『日本文法論』(1902.6 一部を公刊)。
9月10日
文部省、文部省視学官及び文部省視学委員職務規程を制定。視学委員制を新設、大学教授らに視学委員を委嘱し、専門的視野から各大学を視察させる。
9月10日
(漱石)
「九月十日(木)、晴後曇木曜会。午前、小宮豊隆、郷里から帰り直ちに訪ねて来る。高松で買った煙草と煙草盆を土産に持参する。午後、寺田寅彦が来たので、三人で戸山が原散歩する。留守中に春陽堂から『草合』届く。寺田寅彦と小宮豊隆(推定)に与える。森田草平、『煤煙』の発端二十枚ほど持参し、朗読する。一同黙っている。よくないと思われる理由説明する。(不確かな推定)小宮豊隆泊る。
九月十一日(金)、筆、小宮豊隆と共に、新橋停車場に荷物を受け取りに行く。漱石が犬塚武夫に逢ったら、小宮豊隆はまだ帰京していないと云う。これを小宮豊隆に伝える。
九月十二日(土)、小宮豊隆帰る。松根東洋城帰京する。エイ、百日咳にかゝる。犬・猫その他の小動物悉く異常を呈する。
九月十三日(日)、夜、『吾輩は猫である』のモデルになった猫死ぬ。六歳であった。
九月十四日(月)、『吾輩は猫である』の猫の死亡通知出す。葉書のまわりを黒くぬり、松根東洋城・鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎など身近の門下生たちへ出す。その他にも通知を出したかも知れない。衰弱目立ち物置のへっついの上で死んだので、鏡、蜜柑箱に入れて漱石山房の北側の裏庭に埋める。白木の角材求めて、何か出いて欲しいと頼むので、「猫の墓」の裏に、「此の下に稲妻起る宵あらん 漱石」と書く。「夏目先生より猫病死の報あり。見舞の端書認む」(「寺田寅彦日記」)
九月十五日(火)、鏡、実家の父の法事(三回忌)に行く。途中、小宮豊隆の下宿に行く。
松根豊次郎(東洋城)は、「先生の猫が死にたる夜寒かな」、高浜虚子は「吾輩の戒名もなき芒かな」という弔句を寄せる。(明治四十一年九月二十二日『東京朝日新聞』の「萬年筆(まんねんふで)に、「夏目氏の猫死す」として掲載される)この後、二代めの牝猫が飼われる。
墓標は何時か朽ちて、沢庵石ほどの自然石を目印に置く。
鏡は、猫の祥月命日に鮭の切身一片と鰹節飯一椀を供える。この猫は、千駄木町・西片町・早稲田南町へと移ったが、最後まで名前はつけて貰えない。十三回忌に、鏡は九重の保護塔を建てる。」(荒正人、前掲書)
9月10日
「九月十日
(略)
北原からハガキ、転居の通知旁々やつた予のハガキに対する返事だ。吊橋が匂つたり、硝子が泣いたりするのは、君一人の秘曲だから我々には解らぬと云つてやつたのを、それは“皆三角形の一鋭角の悲嘆より来るものにて、さほど秘曲にても候はず、ただ印象と、官能のすすり泣きをきけばいいでは御座らぬか。………この時僕の脳髄は毒茸色を呈し、螺旋状の旋律にうつる。月琴の音が鑲工の壁となり、胡弓が煤けた万国地図の色となる。”と書いて来た。
無論これらも、強き刺戟を欲する近代人の特性を、一方面に発揮したものには相違ないが、我々の“詩”に対して有する希望はここにないのだ。謂つて見ようなら、北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。過去を考へると、感慨に堪へぬ話だが、何時しかにさうなつて来たのだから仕方がない。人が大人になる、すると、今迄興味を有つて来た事の大半に、興味を失つてくる。そこで更に新しい強い刺戟を欲する。ト共に何か知ら再び小児の時代の単純な、自然な心持に帰つて見たくなる。これら二つの希望のうち、どれが詩的かと云へば、無論小供の時代に帰りたいといふ方が詩的だ。我々は少くとも予自身は、此故に、詩に向つて新らしき強き刺戟を求めようとしない。求めようとしても、詩そのものが、或程度まで怎しても格調の束縛があり、且つ言語の連想に司配さるるといふ歴史的伝習的な点があり、全く新らしい酒を盛るには、古い器なのだ。謂ふ心は、我々の複雑な極めて微妙な心の旋律を歌ふには、叙上の束縛がある為に不自由なのだ。それを、無理に咏み込まうとするから、無理が出来る。この無理はさながら音楽に於ける不調和音の如く我々の心を乱して了ふ。
予が北原の詩のうちで、所謂邪宗門流のものをとらずして、(極言すれば邪路に迷へるものとして、)却つて同君があまり力を注がぬらしき“心の花”の“断章”などを、現下詩壇の一品とする所以だ。乃ち、我々は我々の情的希望のうち、詩的な方面を詩によつて充たさむとする。道理ぢやなからうか。クラシカルな、又ロマンチカルな趣味が、かくて現在の我々の頭にも存し得る。
無論、我々は二十世紀に生れた人間であるから、さればと言つて、古人の作に満足はし得ない。同じクラシカルな趣味でもロマンチカルな趣味でも、古人のそれと今人のそれとは、言はずして明かな相違がある。
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小説界に起つた自然主義は、詩壇にも同様の現象を誘起した。自ら自然主義詩人と称した手合も、早稲田派の末派などには少くない。此傾向はまた、“口語詩”なるものを作らしめた。
自然主義詩に予の満足しえない理由、否、寧ろ全然不賛成な理由は、上に書いたことで明かだと思ふ。
時代の思想、感情、概念は、その時代の言語によつて表はされなければならぬのは、言ふまでもない。が、詩は、詩だけは、その性質として、一番終ひに時代の言語を採用するものぢやなからうか。………………
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吉井君からも葉書、“この頃の寒気は如何に候や。実に骨髄に徹して堪えがたく候。何処かに火を求めざるべからず。寒し寒し。”と書いてある。ハハ…………
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(略)
夜、頼まれてゐた男の事が少し解つたので千駄ヶ谷にゆく。
今夜は中秋の明月だ。晶子さんは勝手でお団子を拵へてゐた。やがてそれと里芋と栗と豆の煮たのを持つて来て語つた。程なくして主人が多摩川の鮎漁から帰つて来た。ハンケチに包んだのを解くと、三つ許り石が出た。形が面白いから拾つて来たのだといふ。見れば郷里の方ならいくらでもある様な詰らぬ石だ。予は面白いと思つた。
(略)」(啄木日記)
9月11日
日清間南満、京奉鉄道連絡協約調印。
9月11日
京都帝国大学理工科大学の理学科を分けて、数学科、物理学科、純正化学科とする。
9月12日
駐英日本大使に加藤高明任命。
9月13日
川上音二郎、新興行法(革新興行)として第1団2世左団次らは明治座で、第2団川上貞奴らは本郷座で興行。あと全国公演。
9月13日
社会民主党ニュールンベルク大会で修正主義勝利。
9月15日
満鉄(2代目総裁中村是公)、東京支社に「東亜経済調査局」設置。国際社会に対する満鉄経営のパブリシティ拠点。
9月15日
「東京社会新聞」(西川光二郎派)、廃刊。
9月15日
帝国女優養成所、開設。川上貞奴の私費。開所式は理髪店2階の17畳半。第1期生15名。森律子(弁護士森肇の娘)は跡見高女校友会から除名される。
翌明治42年7月、帝国劇場附属伎芸学校に吸収される。
9月15日
後藤宙外『非自然主義』(「春陽堂」)。
9月15日
ミシガン州デトロイト、ウィリアム・デュラント、ゼネラルモーターズ社(GM)、ビュイック社とオールズモービル社を合併しデトロイトで創設。
9月中旬
古河力作、弾圧に憤慨。桂首相暗殺を思い官邸前うろつく。
つづく
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