▼陸軍
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●中支那方面軍(昭和12年12月10日現在)
[編成経緯]
11月7日、中支那方面軍「編合」(正式の軍編成である「戦闘序列」ではない)。上海派遣軍と第10軍よりなる。
司令官松井石根大将(上海派遣軍司令官と兼任)、塚田攻参謀長(参本第3部長、拡大派)、武藤章参謀副官(前参本作戦課長、拡大派、参本に籍を置いたまま派遣軍に出向)。
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参謀部員6人が出張の形式で方面軍参謀に派遣され、上海派遣軍参謀5~6人が方面軍参謀兼務を命じられる。この構成は、12月2日朝香宮が上海派遣軍司令官、松井が方面軍司令官専任になった以外はこのまま維持される。
人員は参謀部副官・当番兵・通訳など20人ばかりにすぎず、司令部機構に必須の兵器部・経理部・軍医部・法務部(軍法会議)などはなく、直轄部隊もない。
司令官の指揮権限も、
①全般的作戦指導、
②兵站業務統制、
③宣伝謀略並びに一般諜報、
に制限されている。
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方面軍参謀中山寧人少佐は東京裁判で、方面軍の権限について、
「両軍の協同作戦を調整することを主任務とするもので、実際上の兵力の運用指揮は上海派遣軍及び第十軍の司令官が夫々専管することになっていました」
と証言。
両軍は、方面軍の指揮・指導を軽んじ、調整程度にしか尊重しない。
任務は、北支那方面軍と同様、「敵の戦争意志を挫折せしめ、戦局終結の動機を獲得する」との目的をもって、「上海付近の敵を掃滅」すること。
作戦地域は、追撃の範囲を「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限。(11月7日付臨命600号)
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11月上旬、武藤章は、上海で海軍軍令部第1部第1課長福留繁大佐に対し、
「中支那方面軍は今のところ中央の意を体し、依然として常熟、蘇州、嘉興の線の占拠をもって、当面の作戦の一段落とし、南京進撃の態勢を整えて爾後の計をたてるとの方針を持っている」、
と語る。
武藤は、参謀本部作戦課長から出向してきた身として、参謀本部にはいずれ追認させることができるという自信のもと、独断専行で南京攻略戦を発動する方針を述べる。
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11月中旬、上海に戦情視察にいった河辺虎四郎作戦課長(戦争指導課長から武藤の後任に転任)に対し、武藤は、「南京をやったら敵は参る」と言いきる(「河辺虎四郎少将回想応答録」)。
中国一撃論を強硬に主張して、石原作戦部長を「追い出した」武藤は、拡大戦略の正しさを現実の作戦で実証する必要に駆られている。
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「陸軍中央が予期も準備もしなかった日中全面戦争の開始によって、急遽、予後備役兵を召集して、臨時の特設師団を編成し、軍隊の装備も将兵の訓練・教育も不十分なままに、上海攻略戦に派兵、投入した俄か作りの部隊」(笠原「南京事件」)。
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[司令官]松井石根大将、
[参謀長]塚田攻少将、
[参謀副長]武藤章大佐、
[参謀]公平匡武・光成省三中佐、中山寧人・二宮義清・吉川猛・河村弁治少佐、
[特務部長]原田熊吉少将、
[第3飛行団]値賀忠治少将-独立飛行4、6、10、14、15中隊
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[中支那方面軍]
①直属部隊-----第3飛行団
②上海派遣軍---第16、9、13、3、11、101師団、
野戦重砲兵第5旅団、直属部隊
③第10軍--------第6、18、114師団、国崎支隊、
野戦砲兵第6旅団、直属部隊
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■上海派遣軍(12年8月15日~13年2月14日)
[編成経緯]
12年8月15日、参謀本部、第3、11師団よりなる上海派遣軍「編組」と上海への派兵を命令。司令官松井石根大将(59)。目的は居留民保護で行動範囲は上海地区に限定。(臨参命73号)。通常作戦軍でなく一時的派遣。
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軍令部と参謀本部の「北支作戦に関する陸海軍協定」(7月2日)の「帝国居留民の保護を要する場合においては、青島および上海付近に限定して陸海軍所要兵力協同してこれにあたる」に基づく、上海地区の日本人居留民保護という限定された任務をもつ小規模兵力の派遣。「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海ならびに北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」(臨参命第73号)に限定されている。しかし、松井大将はこの命令墨守の意向は全くない。
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この段階では、日本の軍中央と政府はまだ不払大方針をとり、戦争ではないとして「北支事変」という呼称をことさらに使い、華北・上海での局地解決を模索。「編組」というのは、派遣軍の任務が上海地区の日本人居留民保護に限定された小範囲の一時的派遣であり、純粋の作戦軍ではないという意味。統帥権を持つ天皇の命令による「戦闘序列」という正式用語をわざわざ避けた。上海派遣軍兵士も、精鋭の現役兵を送らず、戦力や規律で劣る予備役・後備役の兵隊を召集して派遣。参謀本部は、まだ戦局不拡大方針で臨んでいる。
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上海への戦争拡大について橋本参謀長は、「上海の方にまで飛び火するとは誰も考えていなかったので、全面的戦争といってもただ北支に日本軍が相当な兵力を持っていって軍事的に一時これを占領するという位に考えておった」と回想(「橋本回想録」)、石原は「だいたい漢ロの居留民引揚げは有史以来ないことであり、もし揚子江沿岸が無事に終ったならば海軍の面子がないことになります。即ち今次の上海出兵は海軍が陸軍を引摺っていったものといって差支えない」と述べた(「石原回想録」)。
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[司令官]朝香宮鳩彦王中将(12年12月2日~13年2月14日)、[参謀長]飯沼守少将、[参謀副長]上村利道大佐、[参謀]*西原一策大佐(1課長)、*長勇中佐(2課長)、*寺垣忠雄中佐(3課長)、川上清志・北島熊男・*芳村正義、大坪一馬中佐、二神力、志方光之、*本郷忠夫、御厨正幸、榊原主計、櫛田正夫少佐、大西一・佐々木克巳大尉(*は中支那方面軍参謀兼務)、[経理部長]根岸寛爾主計少将、[軍医部長]笹井秀恕軍医少将、[兵器部長]福原豊三少将、[法務部長]塚本浩次法務官、[憲兵長]横田昌隆憲兵少佐
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〇第16師団(京都,定員25,179名)
[司令官]中島今朝吾中将、[参謀長]中沢三夫大佐、[参謀]大須賀応中佐、寺田盛寿少佐、木佐木久少佐
①歩兵第19旅団[草場辰巳少将]
歩兵第9連隊(京都)片桐護郎大佐、歩兵第20連隊(福知山)大野宣明大佐
②歩兵第30旅団[佐々木到一少将]
歩兵第33連隊(津)野田謙吾大佐、歩兵第38連隊(奈良)助川静二大佐
③騎兵第20連隊(笠井敏松中佐)、野砲兵第22連隊(三国直福大佐)
工兵第16連隊(今中武義大佐)、輜重兵第16連隊(柄沢畔夫中佐)
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〇第9師団(金沢)
[司令官]吉住良輔中将、[参謀長]中川広大佐、[参謀]川久保鎮馬中佐、松沢恭平少佐、小西健雄大尉
①歩兵第6旅団[秋山義兌少将]
歩兵第7連隊(金沢)伊佐一男大佐、歩兵第35連隊(富山)富士井末吉大佐
②歩兵第18旅団[井出宣時少将]
歩兵第19連隊(敦賀)人見秀三大佐、歩兵第36連隊(鯖江)脇坂次郎大佐
③騎兵第9連隊(森吾六大佐)、山砲兵第9連隊(芹川透大佐)
工兵第9連隊(野中利貞大佐)、輜重兵第9連隊(三田村正之助大佐)
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〇第13師団(仙台)
[司令官]荻洲立兵中将、[参謀長]畑勇三郎大佐
①歩兵第103旅団[山田栴二少将]
歩兵第104連隊(仙台)田代元俊大佐、歩兵第65連隊(若松)両角業作大佐
②歩兵第26旅団[沼田徳重少将]
歩兵第116連隊(新発田)添田孚大佐、歩兵第58連隊(高田)倉林公任大佐
③騎兵第17連隊(小野良三中佐)、山砲兵第19連隊(横尾芹川闊中佐)
工兵第13連隊(岩淵経夫少佐)、輜重兵第13連隊(新村理市少佐)
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〇第3師団(名古屋)
[司令官]藤田進中将、[参謀長]田尻和雄大佐
①歩兵第5旅団[片山理一郎少将]
歩兵第6連隊(名古屋)川並密大佐、歩兵第68連隊(岐阜)鷹森孝大佐
②歩兵第29旅団[上野勘一郎少将]
歩兵第18連隊(豊橋)石井嘉穂大佐、歩兵第34連隊(静岡)田上八郎大佐
③騎兵第3連隊(星善太郎中佐)、野砲兵第3連隊(武田精一大佐)
工兵第3連隊(中島三栖夫大佐)、輜重兵第3連隊(栗岩尚治中佐)
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〇第11師団(名古屋)
[司令官]山室宗武中将、[参謀長]片村四八大佐
①歩兵第10旅団[天谷直次郎少将]
歩兵第12連隊(丸亀)安達二十三大佐、歩兵第22連隊(松山)永津佐比重大佐
②歩兵第22旅団[黒岩義勝少将]
歩兵第43連隊(徳島)花谷正大佐、歩兵第44連隊(高知)和知鷹二大佐
③騎兵第11連隊(田辺勇中佐)、山砲兵第11連隊(山内保大佐)
工兵第11連隊(山内章大佐)、輜重兵第11連隊(大河原定中佐)
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〇第101師団(東京)
[司令官]伊東政喜中将、[参謀長]西山福太郎大佐
①歩兵第101旅団[佐藤正三郎少将]
歩兵第101連隊(東京)飯塚国五郎大佐、歩兵第149連隊(甲府)津田辰参大佐
②歩兵第102旅団[工藤義雄少将]
歩兵第103連隊(東京)谷川幸造大佐、歩兵第157連隊(佐倉)福井浩太郎大佐
③騎兵第101連隊(大島久忠大佐)、野砲兵第101連隊(山田秀之助中佐)
工兵第101連隊(八隅錦三郎中佐)、輜重兵第101連隊(鳥海勝雄中佐)
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〇野戦重砲兵第5旅団[内山英太郎少将]
野重第11連隊(浅田弥五郎中佐)、野重12連隊(富田富蔵中佐)
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〇その他直属部隊 野重10連隊(長屋朝生中佐)、野重15連隊(街道長作中佐)、鉄道1連隊、独立工兵1、8、12連隊、独立野戦重砲兵2、3、4大隊、独立攻城重砲兵2、3、5大隊、野戦高射砲兵司令部、野戦防空司令部、独立機関銃1、2、7大隊、迫撃砲1、4大隊、戦車第1大隊(岩仲義治大佐)、同第5大隊〔細見惟雄中佐)、独立軽装甲車第2中隊(藤田実彦少佐)、同第6中隊(井上直造中尉)、同第7中隊(矢口昇中尉)、同第8中隊(福田林治大尉)、野戦瓦斯隊本部(森田豊秋少佐)、第2野戦化学実験部(風早清大佐)、第2(今瀬一夫医少佐)、第6野戦防疫部(駒田正雄医少佐)、兵站自動車隊、架橋材料中隊、渡河材料中隊、野戦鳩小隊、陸上輸卒隊、水上輸卒隊、建築輸卒隊、野戦道路構築隊、兵姑病院など
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■第10軍(昭和12年10月20日~13年2月14日)
10月20日、3個師団からなる第10軍(柳川平助中将)編成。柳川兵団。任務は「上海派遣軍ノ任務達成ヲ容易ナラシム」というもの。
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参謀本部作戦部長下村定少将(石原莞爾の後任)は、強力な中央軍が集中する上海方面に主戦場を移し、ここで戦果をあげた方が、「戦局終結の動機」を掴みやすいと考え、新たに第10軍(内地動員の第18、14師団、華北よりの第6師団)を編成し、上海の背後をつく為に杭州湾に上陸させる。また、華北からの第16師団を上海派遣軍に増派。この結果、上海方面には9個師団が投入され、内地に残る常設師団は第7、近衛の2師団となる。
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[司令官]柳川平助中将、[参謀長]田辺盛武少将、[参謀]藤本鉄熊(1課長)、井上靖(2課長)、谷田勇(3課長)大佐、寺田雅雄、岡田重一、小畑信良中佐、吉永朴、池谷半二郎、山崎正男、大坂順次、堂ノ脇光雄少佐、仙頭俊三、清水武男、金子倫介大尉
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〇第6師団(熊本)
[司令官]谷寿夫中将、[参謀長]下野一霍大佐、[参謀]秋永力中佐、藤原武少佐、岡田重美大尉
①歩兵第11旅団[坂井徳太郎少将]
歩兵第13連隊(熊本)岡本保之大佐、歩兵第47連隊(大分)長谷川正憲大佐
②歩兵第36旅団[牛島満少将]
歩兵第23連隊(都城)岡本鎮臣大佐、歩兵第45連隊(鹿児島)竹下義晴大佐
③騎兵第6連隊(猪木近太大佐)、野砲兵第6連隊(藤村謙中佐)
工兵第6連隊(中村誠一大佐)、輜重兵第6連隊(川真田国衛大佐)
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〇第18師団(久留米)
[司令官]牛島貞雄中将、[参謀長]小藤恵大佐
①歩兵第23旅団[上野亀甫少将]
歩兵第55連隊(大村)野副昌徳大佐、歩兵第56連隊(久留米)藤山三郎中佐
②歩兵第35旅団[手塚省三少将]
歩兵第114連隊(小倉)片岡角次中佐、歩兵第124連隊(福岡)小堺芳松中佐
③騎兵第22連隊(小池昌次中佐)、野砲兵第12連隊(浅野末吉中佐)
工兵第12連隊(井沢新大佐)、輜重兵第12連隊(川内益實大佐)
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〇第114師団(宇都宮)
[司令官]末松茂治中将、[参謀長]磯田三郎大佐、[参謀]中井増太郎中佐、宇垣松四郎中佐、森藤甚松大尉
①歩兵第127旅団[秋山充三郎少将]
歩兵第102連隊(水戸)千葉小太郎大佐、歩兵第66連隊(宇都宮)山田常太中佐
②歩兵第128旅団[奥保夫少将]
歩兵第115連隊(高崎)矢ヶ崎節三中佐、歩兵第150連隊(松本)山本重省中佐
③騎兵第18連隊(天城幹七郎少佐)、野砲兵第120連隊(大塚昇中佐)
工兵第114連隊(野口勝之助少佐)、輜重兵第114連隊(中島秀次少佐)
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〇国崎支隊(歩兵第9旅団)国崎登少将
歩兵第41連隊(福山)(山田鉄二郎大佐)、独立山砲第3連隊(月野木正雄大佐)
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〇野戦重砲兵第6旅団
野重第13連隊(橋本欽五郎大佐)、野重第14連隊(井出竜男大佐)
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〇その他直属部隊 第1後備歩兵団、第2後備歩兵団、独立山砲兵2連隊(原田鶴吉大佐)、野戦高射砲兵司令部、独立機関銃8大隊、独立工兵2、3連隊、独立軽装甲9中隊、野戦瓦斯6中隊、第1野戦化学実験部(白倉司馬太大佐)など
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▼海軍
◎支那方面艦隊(長谷川清中将)
○第3艦隊(長谷川中将兼任)
第11戦隊(近藤英次郎少将)
安宅、堅田、鳥羽、八重山、栗、栂、蓮、保津、比良、勢多、嵯峨、二見、熱海
第24駆逐隊(山嵐、海風、江風、涼風)、第1水雷隊(鵲、鴻)
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◎中支那方面軍
松井石根:
明治11(1878)年7月27日~昭和23(1948)年12月23日)。愛知県。陸士9期(9期には陸軍大将6人:荒木貞夫、本庄繁、真崎甚三郎、阿部信行、林仙之、松井石根)。日露戦争に第2軍副官として出征。欧州各国に駐在武官・観戦武官として駐留。清国駐在武官、ハルビン特務機関を経験。熱心な大アジア主義者。1931年からジュネーブ一般軍縮会議全権。昭和8(1933)年3月、大亜細亜協会設立発起人(後に会長)、同年8月、台湾軍司令官就任、台湾亜細亜協会設立。1935年退役、1937年現役復帰。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、陸軍大将。正三位勲一等功一級。昭和15(1940)年2月、熱海市伊豆山に興亜観音建立。南京大虐殺の責任を問われて東京裁判にて死刑判決、処刑。
*
塚田攻:
明治19(1886)年7月14日~昭和17(1942)年12月18日。茨城県。陸士19期、陸大26期。中支那方面軍参謀長、第8師団長、昭和15(1940)11月参謀次長。昭和16(1941)年11月南方軍総参謀長、第11軍司令官。飛行機事故により安徽省で没。陸軍大将進級。
*
武藤章:
明治25(1892)年12月15日~昭和23( 1948)年12月23日。熊本県。済々黌中学、陸士25期(富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代ら)。陸大32期(冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎ら)。ドイツ駐在、教育総監部勤務。二・二六事件後の「粛軍」で頭角を現す。、関東軍参謀、謀略部隊を組織。参謀本部作戦課長(盧溝橋事件では強硬論を主張)。中支方面軍参謀副長。昭和14年陸軍省軍務局長、昭和17年東條に追われて近衛第2師団長(スマトラ、メダン)。昭和19(1944)年10月5日第14方面軍参謀長(フィリピン)。東京裁判で唯一中将として絞首刑判決。
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原田熊吉:
明治21(1888)年8月8日~昭和22(1947)年5月28日。香川県出身。陸士22期、陸大28期。中国大使館附武官、中支那派遣軍特務部長。第35師団長、第27師団長。昭和17年11月第16軍司令官(ジャワ軍政担当、ジャワ住民指導者に政治参加を許可、「軍政協力団・ジャワ奉公会」結成)。昭和20年早春、第55軍司令官(6月15日兼四国軍管区司令官)。陸軍中将。昭和22年5月28日搭乗員殺害事件の責を問われシンガポール・チャンギにて刑死(59歳)。
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値賀忠治:
明治20年7月25日~昭和56年12月22日。陸大28期。浜松陸軍飛行学校幹事、第3飛行団長、陸軍中将・陸軍航空技術学校長、昭和148月31日予備役。
*
■上海派遣軍
朝香宮鳩彦:
明治20(1887)年10月20日~昭和56(1981)4月12日。陸大26期。久邇宮朝彦の第8王子、朝香宮家初代当主。第26代近衛師団長、上海派遣軍司令官。昭和13年3月軍事参議官。昭和14年陸軍大将。強硬な主戦論者、戦争末期の本土決戦で陸海軍統合を主張。94歳で没。旧邸は東京都庭園美術館(「アールデコの館」)。
*
飯沼守:
明21年11月25日~昭53年3月21日。陸士21期、陸大31期。昭和12年8月15日上海派遣軍参謀長。14年12月1日第110師団長。17年8月31日予備役。昭和20年2月20日召集、第96師団長。陣中日記「飯沼守日記」はよく引用される。
*
上村利道:
明22(1889)年2月10日~昭22(1947)年9月19日。陸士22期、陸大34期。12年8月22日上海派遣軍参謀副長。東京幼年学校長、第3軍参謀長、第29師団長、第5軍司令官、第36軍司令官。陣中日記「上村利道日記」はよく引用される。
*
西原一策:
明26年4月18日~昭20年1月23日。広島県。陸士25期、陸大34期。昭和4年1月国際連盟代表随員、昭和6年12月ジュネーブ軍縮会議全権随員、昭和8年12月~9年9月国際連盟陸軍代表随員。昭和12年8月22日上海派遣軍参謀。15年6月24日大本営参謀(仏印監視団長)。「西原機関」長、北部仏印進駐に際し「西原・マルタン協定」締結(15年9月22日)。騎兵学校長、騎兵集団長、戦車第3師団長、機甲本部長。
*
長勇:
明治28(1895)年1月19日~昭和20(1945)年6月23日。福岡県出身。陸士28期(白銀重二、森赳、中西良介、近藤新八、宮崎周一、一木清直ら)、陸大40期(額田坦 、今井武夫、片倉衷ら)。昭和5年9月橋本欽五郎らと桜会結成、翌年3月事件、10月事件を計画、発覚。昭和12年8月15日上海派遣軍第2課長、兼中支那方面軍情報主任参謀。14年3月9日第26師団参謀長。15年9月6日印度支那派遣軍参謀長、16年6月28日第25軍参謀副長。16年11月南方軍司附(仏印機関長)。17年11月10日第10歩兵団長。19年7月8日第32軍参謀長(沖縄)、20年6月23日自決。
*
〇第16師団(京都)
中島今朝吾:
1881年6月15日~1945年10月28日。大分県。陸士15期、陸大卒。仏・独駐在。舞鶴要塞司令官、習志野学校(化学戦)校長。12年8月第16師団師団長、13年7月第4軍司令官、14年9月私財略奪のかどで予備役編入。陸軍中将。「中島今朝吾日記」はよく引用される。
*
草場辰巳:
明21年1月2日~昭21年9月17日。陸士20期、陸大27期。昭和12年3月1日歩兵第19旅団長、13年10月30日第2野戦鉄道司令官、14年3月9日関東軍野戦鉄道司令官、15年10月1日第52師団長、16年11月6日関東防衛軍司令官、17年12月21日第4軍司令官、19年12月1日予備役、19年12月16日召集、大陸鉄道司令官。20年9月シベリア抑留、松村知勝中将・瀬島龍三中佐と共に東京に戻り、21年9月17日東京裁判出廷中に自決。
*
佐々木到一:
明19(1886)年1月27日~昭30(1955)年5月30日。愛媛県。陸士18期(山下奉文、岡部直三郎、阿南惟幾ら)、陸大29期。広東駐在武官、孫文の軍事顧問。帰国後、国民党による第4革命を予言。孫文の病床にも駆けつける。昭和9年12月10日満州国軍政部最高顧問。12年8月2日歩兵第30旅団長、13年3月1日独立混成第3旅団長、13年8月31日支那派遣憲兵隊司令官、14年9月7日第10師団長、16年4月30日予備役、20年7月16日第149師団長。30年5月30日撫順収容所で没。「佐々木到一少将私記」はよく引用される。
*
〇第9師団(金沢)
秋山義兌:
明治19年10月3日~昭和20年8月17日。京都府。陸士20期、陸大32期。大正11年10月25日満洲里特務機関長(~大正12年8月6日)、昭和12年3月1日歩兵第6旅団長。昭和14年1月31日独立混成第5旅団長。昭和15年8月1日第54師団長。昭和16年8月31日予備役。昭和19年8月22日召集、留守第55師団長、昭和20年7月30日第137師団長、昭和20年8月17日咸興でソ連軍と停戦、武装解除後、自決。
*
井出宣時:
明治19年11月9日~昭和33年7月13日。愛知県。陸士21期、陸大29期。イギリス駐在。昭和11年3月28日関東軍司令部附(満洲国軍顧問)、昭和12年3月1日歩兵第18旅団長。昭和14年8月1日旅順要塞司令官。昭和15年8月31日予備役。
*
○第13師団(仙台)
荻洲立兵:
明17(1884)年1月24日~昭和24(1949)年12月22日。愛知県。陸士17期、陸大28期。スイス、ドイツ駐在。昭和7年4月11日第1師団参謀長、8年10月16日歩兵第9旅団長、10年8月1日台湾軍参謀長。12年9月10日第13師団長。14年8月10日第6軍司令官、ノモンハンでソ連軍に完敗、同11月司令官罷免。15年1月29日予備役。
○第3師団(名古屋)
藤田進:
明治17年12月21日~昭和34年2月7日。石川県。陸士16期、陸大25期。昭和12年8月2日第3師団長、昭和14年10月26日第13軍司令官、昭和16年1月31日予備役、昭和18年5月興亜総本部実践局長、昭和20年4月1日召集、金沢師管区司令官。
*
○第11師団(名古屋)
山室宗武:
明13・10・2~昭38・10・31。陸士14期、昭和12年8月14日第11師団長、13年7月15日陸士校長、16年1月20日予備役、18年2月25日召集、教総附、野砲学校長、砲兵監、陸士校長、砲兵監。
*
花谷正:
1894(明治27)年1月5日~1957(昭和32)年8月28日)。岡山県。陸士26期、陸大34期。参謀本部付(支那研究員、鄭州駐在)。昭和3年8月関東軍参謀、4年8月歩兵第37聯隊大隊長、5年8月関東軍司附(奉天特務機関)、柳条溝の謀略にに参画。8年8月1日参本附仰付(済南武官)、10年8月1日関東軍参謀。12年11月1日歩兵第43聯隊長。14年1月31日満洲国軍顧問。18年10月23日第55師団長、ビルマ(アキャブ)で敗退。部下に自殺を強要するので有名。20年7月9日第39軍参謀長、同7月14日第18方面軍参謀長、21年7月復員、予備役。
*
和知鷹二:
明26・2・1~昭53・10・30。陸士卒、 陸大34期。昭和3年5月第6師団司附(済南特務機関)、同10月済南駐在武官。6年11月関東軍参謀、7年8月8日広東駐在武官。10年12月2日支那駐屯軍司附(大原機関長)、12年8月2日歩兵第44聯隊長、13年3月1日台湾軍司附(特務工作)、13年3月25日参本附(特務工作)、13年6月大本営附(蘭機関長)。 16年3月1日台湾軍参謀長兼研究部長、17年2月20日第14軍参謀長(バターン・コレヒドール作戦に従事)、17年8日兼比島軍政監。19年3月22日南方軍総参謀副長、19年11月14日第35軍参謀長、20年4月6日南方軍総参謀副長、20年8月中国憲兵隊司令官。21年1月戦犯として巣鴨拘置所に拘留、23年4月重労働6年、25月8日仮釈放。
*
〇第101師団(東京)
伊東政喜:
明治14年9月7日~昭和34年12月13日。陸士14期、砲工校14期、陸大24期。大正15年10月1日 陸軍省軍務局兵務課長。昭和8年8月1日 陸軍野戦砲兵学校長。昭和11年3月23日第3師団長。昭和12年8月31日予備役、同9月3日召集、第101師団長。昭和13年9月戦傷。昭和14年4月1日召集解除。2007年6月「第百一師団団長日誌」公刊。特設師団の実態、毒ガス使用、慰安所運用にも触れている。
*
〇野戦重砲兵第5旅団
内山英太郎少将:
1887(明治20)年12月16日~1973(昭和48)年12月25日。陸士21期、陸大32期)。昭和8年8月1日野砲兵第1聯隊長、10年8月1日野砲学校教官。12年9月1日野重第5旅団長、13年12月10日関東軍砲兵司令官(14年7月ノモンハンで戦う)、15年9月28日第13師団長、17年8月17日第3軍司令官、19年2月7日第12軍司令官、20年4月7日第15方面軍司令官兼中部軍管区司令官、20年10月第2復員軍司令官。21年6月搭乗員殺害事件で逮捕、24年1月重労働40年、33年4月仮釈放。
*
■第10軍
柳川平助:
1879年10月2日~1945年1月22日。長崎県。陸士12期、陸大24期。18(大7)年6月北京陸軍大学校教官に招聘。国際連盟派遣、欧州駐在。23(大12)年3月17日騎兵第20連隊長。大14年5月1日参謀本部演習課長。昭和2年4月1日騎兵第1旅団長で山東出兵。昭和7年8月8日陸軍次官。皇道派の中心人物として活動。9年8月1日第1師団長、10年12月2日台湾軍司令官。11年9月20日粛軍人事で予備役。12年10月14日召集、第10軍司令官。11月15日幕僚会議で独断で南京追撃を決定。13年12月16日興亜院総務長官。15年12月21日司法相、16年7月18日国務相。大政翼賛会副総裁。小磯内閣後継に擬せられるが病没。
*
〇第6師団(熊本)
谷寿夫:
1882年12月23日~1947年4月26日。岡山県。陸士15期、陸大24期。英駐在武官、インド駐在武官、'24~'27再度の陸軍大学校兵学教官時代に日露戦争研究必読書・兵学教科書「機密日露戦史」を著す。'30(昭和5)年国連派遣、国連陸空軍代表。'32年軍事調査委員長、'33年近江歩兵第2旅団長、'34年東京湾要塞司令官。'35第6師団長(熊本)'37年12月28日中部防衛司令官。'39予備役編入。'45年8月12日第59軍司令官兼中国軍管区司令官。戦後、南京大虐殺の責を問われ中国側に身柄を拘束、南京裁判により処刑(66歳)。柳川平助・中島今朝吾は没しており、朝香宮は皇族の為、谷に責任が廻ったとも云われる。尚、 南京裁判では、百人斬り競争を報道された野田毅陸軍少尉と向井敏明陸軍少尉、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉陸軍大尉が死刑となる。
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牛島満:
1887(明治20)年7月31日~1945(昭和20)年6月22日。陸士20期、陸大28期。1932年(昭和7年)8月8日陸軍戸山学校教育部長。1933年(昭和8年)3月18日陸軍省高級副官。1937年(昭和12年)3月1日歩兵第36旅団長。12月5日陸軍予科士官学校幹事。1939年(昭和14年)3月9日陸軍予科士官学校校長。陸軍戸山学校校長(兼任)。12月1日第11師団長。1942年(昭和17年)8月8日陸軍士官学校校長。1944年(昭和19年)9月26日第32軍司令官(沖縄)。1945年(昭和20年)5月22日南部撤退。6月23日早朝、摩文仁の丘洞窟内で長勇参謀長らと自決。同日付け陸軍大将特進。
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竹下義晴:
広島。陸士23期、陸大33期。昭和6年10月5日関東軍参謀、昭和7年8月8日ハルピン駐在。昭和10年8月1日山海関特務機関長。昭和12年10月17日歩兵第45聯隊長、昭和13年7月15日上海特務機関長。昭和15年3月9日蒙疆連絡部長官。昭和16年12月8日 満洲国軍政部最高顧問、昭和17年11月9日第27師団長(~昭和19年5月30日)。昭和19年12月2日予備役、昭和20年1月20日留守第30師団長、同4月1日平壌師管区司令官。
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〇第18師団(久留米)
牛島貞雄:
1876年1月30日~1960年9月1日。熊本県。陸士12期、陸大24期。)歩兵第3連隊長、参謀本部課長、1930年12月豊予要塞司令官。歩兵第29旅団長、陸大幹事、同校長、第19師団長を務め、1935年3月予備役。1937年9月召集、第18師団長。第2次上海事変の増援軍として第6師団・第114師団とともに第10軍に編入され杭州湾に上陸、中国軍背後から攻撃。上海戦後は南京攻略戦に参加、第10軍廃止後は中支那派遣軍隷下となり占領地の治安維持に当たる。翌年7月召集解除、以後、陸軍司政長官(フィリピン・ビサヤ支部長)、帝国在郷軍人会副会長。
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「★南京戦インデックス」をご参照下さい。
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「居留民保護」のため・・・・?
ちょっと待てよ、これと同じ言葉を最近聞いたゾ。
そうだ!! 予算委員会で、タロウが、「日本人の生命と財産を守るため」、海賊退治に軍隊を派遣するんだとかナントか・・・。
ヤバイ、ヤバイ。
まだまだ、学習効果が出ていないな。
それに、海賊「全員」を捕縛したら、「退治」できると思ってんのだろうか?
多分、全国民を逮捕するまで「退治」できないナ。
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to be continued
2009年2月5日木曜日
2009年2月2日月曜日
1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・(8)
3月28日
・仏、グレーヴ広場、国民軍中央委員会、コミューン成立宣言。
選挙結果とコミューン議員選出についての発表。
市庁舎で最初のコミューン会議、司会は最長老議員シャルル・ベレー。
国民軍とその中央委員会の、祖国及び共和国に対する功績についての決定採択。
国民軍中央委員会、コミューンへの権力移諸についてパリ住民へアピール。
*
市庁舎の正面入口には女神「共和国」の胸像が、赤いスカーフを首に巻き赤い旗にとり囲まれている。市庁舎の屋根にも赤旗が翻り、グレーヴ広場の台の側にも赤旗・三色旗がぎっしりと立っている。台の前に着剣をした国民軍兵士が整列し、「ラ・マルセイエーズ」「出陣の歌」が起こる。祝砲が響き、大革命のときの流行帽フリージア帽が波を打つ。やがて中央委員会委員や選出されたコミューン議員が壇上に登り、中央委員会代表ランヴィエが、コミューン成立を宣言。
*
社説「祭り」(「人民の叫び」30日付)。
「コミューンが宜言された。
コミューンは、勝ち誇り、最高の権威をもち、武器を手にして、投票箱から誕生した。パリの人民に選ばれた議員たちが市庁舎の古い建物に入っていった。この建物はサンテールの太鼓と一月二二日の銃声を聞いたのだ。市庁舎前の広場には国家の名誉とパリの尊厳のために犠牲となった人々が流した血が、この祭りの日に勝ちほこって進む大隊の足下に舞い上る埃で消されたばかりである。・・・
コミューンは革命的で愛国的な平和で陽気な、祭りの一日に宣言される。・・・それは九二年の人々が眺めた日々に価する日であり、また帝政の二〇年と敗北と裏切りの六ヵ月を慰める。・・・
武器を手に立ちあがったパリの人民は、このコミューンを歓呼して迎えた。コミューンは、パリの人民を開城の屈辱とプロシアの勝利という侮辱から救い出した。コミューンはかつてパリを勝利に導いたごとく、やがてパリに自由をあたえるだろう。・・・
コミューンが宣言された。
今日は思想と共和国の結婚の祭典だ。
明日は、市民兵諸君、昨夜歓呼で迎えられて結婚したコミューンに子供を生ませるため、常に誇らかに、自由を保持しつつ、仕事場や、帳場にある諸君の持場に帰らなければならない。
勝利の詩の後には、労働の散文がやってくる。」
*
中央委員会の声明。
「本日、われわれは、最も雄大な人民集会をもつことができた、われわれの眼をこのように見はらせ、われわれの心をこのように感動させたものはない。
パリはその革命に挨拶と歓呼を送った。パリは歴史に新しい頁を開き、その力強い名前を書きこんだ。
・・・二十万の自由人がその自由を宣言し、新制度を布告した。われわれの周囲を徘徊しているヴェルサイユのスパイどもは、帰ってその主人に報告するがいい、祖国のために死ぬことを誓いつつその主権を取戻した人民の偉大なる姿を。
・・・帝政の前に二十年間無力だったフランスは、自由と勤勉とによって過去の専制と無力からよみがえらなければならぬ。本日選ばれた人々は全力をあげて諸君の自由を保証し、これを永久的なものたらしめるであろう。
・・・信頼をもって諸君のコミューンの周囲に結集せよ、なさねばならぬ改革に協力することによって、その事業を容易ならしめよ、そのときこそ諸君は、確実に次の目標である世界共和国の理想に達することができよう。」。偉大な勝利の日、偉大な幻想の日。
*
コミューン内部でも「パリ・コミューン」について3つの解釈が共存。
①コミューンは、市政の独立・自由の表現であるという考えで、政府・議会の介入を拒み自治性を確立するという点で、パリ・ブルジョワの長年の夢の実現。
②コミューンを1792、93年の革命的独裁の継続として捉える理解で、プランキストやジャコバン派が抱くコミューンの理想像。
③インターナショナルの連邦主義者たちの考えで、コミューンを労働者階級の渇望に応ずる新しい社会秩序の基盤として意味付ける。
*
・パリ、証券取引所、再開。
*
・アルジェリア、フランス住民の民主的部分の代表者達、「もっとも断固としてパリ・コミューンに参加する」と声明。
*
・マルセイユに到着したパリの国民軍中央委員会代表団の発意に基づき、反革命勢力を攻撃開始。
*
・サン・テティエンヌ。政府軍、市役所占拠。コミューン崩壊。
*
・ルアン。ドイツ政府代表とティエール政府全権と協定締結。
ティエール政府がヴェルサイユおよびセイヌ・エ・オアズ県における軍隊増強(4⇒8万)、臨時に、国民議会によって樹立された政府の権力と秩序とが、パリに完全に回復されるまでの間許可する。
ヴェルサイユ軍補充の為、ドイツからフランス軍捕虜の送還再開。
*
・ロンドン。インタナショナル総評議会、マルクス、評議会員セライエがパリ支部連合評議会の手紙の件でパリに派遣された、総評議会代表団が22日のウェリントン・ミュージック・ホールの集会に出席し、「パリの労働者たちの現在の闘争にたいする共感」の決議が、満場一致で採択されたことを報告。
*
・ブリュッセル、平和条約締結について、フランスとドイツの交渉開始。ドイツ代表団は、フランスの国内情勢を利用して、暫定平和条約の条件改悪を目論む。
*
・モスクワ、チャイコフスキー「弦楽四重奏曲第1番第2楽章(アンダンテ・カンタービレ)」初演。
*
3月29日
・仏、パリ・コミューン最初の評議会。議長は最年長のベレー。若干の決議。議会の非公開(これは抗議を呼び、議会と、人民、衛兵大隊、地区、地区集会、クラブなどとの連帯が弱まる)、毎週、執行部を選挙すること(最初の選挙では、議長ルフランセ、書記リゴーとフェレ、補佐ベルジュレとデュヴァル。その結果、指導的役割はプランキ派とブルードン派が分け合うことになる)、コミューンが行なう公共事業を定める布告、など。
*
・パリ・コミューン評議会において、アシは中央委員会の名において、同委員会が保有する権限をコミューンに譲渡する(中央委員会は消滅するのではなく、組織を残したままで、国民衛兵を指揮する事を望む)。ウードが、選出された議会を公式に「パリ・コミューン」と呼ぶ提案、可決。
*
・パリ・コミューン評議会、旧各省に対応する9委員会に分割。財政・軍事・労働・教育・保安など。
*
①軍事委員会。国民軍の訓練・武装、被服、軍に関する法令起草、保安委員会との協力によるコミューン防衛強化を任務とする。既にコミューン成立に重大な成果を収めている国民軍連盟中央委員会との権限分担という複雑な問題を抱える。中央委員会は任務完了宣言したものの、ヴェルサイユとの軍事的緊張の高まりの中で、なお存続する。
パンディ、ウード、ベルジュレ、デュヴァル、シャルトン、フルーランス、ランヴィエが委員。⇒改造後ドゥレクリューズ、トリドン、アヴリアル、ランヴィエ、アルノルド。
*
②保安委員会。警察、公安を任務とし、委員はリゴー、フェレ、アシー、クールネ、ウーデ、シャレン、ジェラルダン。⇒改造後クールネ、ヴェルモレル、フェレ、上フンケ、A・デュポン。
*
③司法委員会。裁判を民主的社会制度にする任務をもち、司法諸制度・諸手続きを法令によって規則化する段階ま進める必要がある。この委員会は「臨時」の性格を帯び、実際に司法権に関しては、コミューンがとった法的な処置が、全体として司法権であるという事態が起こる。
委員はプロト、ランク、メイエ、ヴェルモレル、ルドロワ、バビック。⇒改造後ガンボン、ドゥリュール、クレマンス、ランジュヴァン、デュラン。
*
④財務委員会。パリ市の予算監査、家賃問題、支払期日問題、フランス銀行、予めコミューンによって許され査証された資金の各委員会への分配等に責任をもつ。
委員はジュールド、ヴァルラン、Ⅴ・クレマン、レジュール、ペスレー。⇒改造後べスレ、ピリオレ、Ⅴ・クレマン、ルフランセ、F・ピア。
*
⑤糧食委員会。首都の糧食の調達、新立法を待つ間の入市税取りたて。
委員はドゥルール、シャンピー、オスタン、J・B・クレマン、パリゼル、E・クレマン、H・フォルテュネ。⇒改造後ヴァルラン、パリゼル、E・クレマン、Art・アルヌー、シャンピー。
*
⑥労働・工業・交易委員会。コミューンの公益事業、労働者と雇用主との関係、商法改正、職業教育等の問題を扱う。労働とサラリーを均衡させる手段を探りながら、国家的産業を発達させ、パリを生産の一大中心地にする義務がある。さらに社会主義的理論の普及につとめながら社会革命の道を開拓する重大な任務を負う。委員には連邦主義者が多い。
マロン、フランケル、ティズ、デュポン、アヴリアル、ロワゾー・パンソン、ジェラルダン、ピユジェ。⇒改造後ティズ、マロン、セライリエ、ロンゲ、シャレン。
*
○「労働および交換委員会」(委員長レオ・フランケル)の任務:
「コミューンの社会事業ならびに男女労働者の労働事情に関連して実行すべき諸種の方策を研究し、商業取引規則、関税率等を再検討し、諸種の直接税および間接税を改正し、労働および交換の統計的研究を行なう」。この委員会の発起に基づき公布された労働立法の例。罰金その他の名目により、労賃より控除を行なうことを禁じる、コミューンの請負事業における労働者の最低賃銀を定める、入札は労働者の生産協同組合に優先権を認める、パン焼労働者の夜業を禁止。
*
⑦公共事業委員会。市行政の監督し、郵便、電報、道路行政、鉄道、福祉の責任を負う。
委員はビリオレ、マルトゥレ、モルティエ、ラストゥール。⇒改造後オスタン・ヴェジニエ、ラストゥール、Ant・アルノー、ポティエ。
*
⑧教育委員会。教育改革に関わり、教育を無料化・義務化、宗教から切り離し、リセにおける奨学金付与を容易化、労働者階級の子弟に高等教育への道を開く等の問題の検討。
委員は教育関係者が多く、ヴァイアンを中心に、ヴァレス、グーピル、ルフェーヴル、ウルベン、A・ルロワ、ヴェルデュル、ドウメ、ロシネ、ミオ。⇒改造後クールベ、ヴェルデュール、ミオ、ヴァレス、J・B・クレマン。
*
⑨渉外関係委員会。対外関係を扱う。特にフランス各地のコミューンとの連盟を目指し、またプロシアなどの外国とも友好関係を結ぶ活動。
委員はP・グルーセ、ランク、ドゥレクリューズ、U・パラン、Art・アルヌー、Ant・アルノー、Ch・ジェラルダン。⇒改造後メイエ、Ch・ジェラルダン、アムールー、ジョアナール、ウルベン。
*
・パリ・コミューン評議会、執行委員会設置。コミューンの布告や他委員会の決定を執行させる任務。様々な対立の為4月20日に改選。
メンバは、ウード、トリドン、ヴァイアン、ルフランセ、デュヴァル、F・ピア、ベルジュレ、リゴー、モルティエ、パラン、バンディが選出されるが、様々な対立により、4月20日に改組。
*
・コミューンの最初の呼び掛け。
コミューンの任務とその最初の諸法令(徴兵を廃止し常備軍を武装人民に変えること、家賃支払延期について、質入れ品物の売却停止について、ヴェルサイユ政府の命令・指示の無効宣言など)について。
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徴兵・旧軍隊廃止。1866年、第1インタナショナルのジュネーヴ大会で提起された民主的変革綱領の最重要項目。軍隊は、人民から遊離し、勤労者の利益に反対、支配階級の特権を擁護し、革命的行動を弾圧し、略奪戦争を遂行する為に利用される。コミューンは反人民的な常備軍を廃止し、それを全人民の武装(勤労者からなる国民軍)によって取り替える。
*
貧民は、質物の無償受け出しを要求。財政委員ジュールドは財政への影響大のため反対。5月6日応急措置。
*
「現存する唯一の権力であるパリ・コミューンは、以下のごとく布告する。
一、種々の公務の従業員は以後、ヴェルサイユあるいはその同調者から発せられる命令および通達を無効とみなすこと。
二、この政令に従わない官吏あるいは従業員は直ちに解雇されるであろう。
コミューンを代表して 議長 ルフランセ。 補佐 ラン、ヴァイヤン。」
*
貼り出された宣言。
「諸君が後を追おうとさえしなかった犯罪者どもが、今日、諸君の寛大さを悪用して、市の城門附近に王政的陰謀の策源地を組織しようとしている。彼らは内戦を起そうとしている。彼らはあらゆる買収運動を行なっている。彼らはあらゆる共犯者と手をにざる。彼らは外国の援助さえあえて哀願するほどである。われわれはこの憎むべき策謀を、フランスと世界の審判に訴える・・・」
*
・チラールとコミューンの数人の議員(グルーセ、ジュールド、リゴー)との間に激しい対立。チラールは議場を去り数日後に辞職。
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・国民軍、5つの保険会社の店舗を占拠、これら会社の帳簿・金庫を封印。
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・政治的展望の薄明りの中を出来るだけ遠く見通そうとするロンゲの論説(「官報」29日付)。
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「コミューンの権限。
われわれがこの文章を書いているこの時に、中央委員会は、事実上は別として法律上はその地位をコミューンに譲っているだろう。
中央委員会は、必要に迫られて付託された異状な委託をなし遂げたので、みずからその特殊な任務に立ち帰えるだろう。その任務こそ中央委員会の存在理由であり、それが権力によって暴力的に否認されたので、都市の武装した代表として都市と共に戦って勝利をおさめるか、または滅びることをよぎなくされた。
政府の専横に対して正当かつ合法的に蜂起した市政の自由の表現である中央委員会の唯一の使命は、委員会がかちとった根源的な権利が奪い取られるのを万難を排して防ぐことであった。投票の翌日に、中央委員会はその義務を完了したということができる。
選出されたコミューンについていえば、・・・何よりもまずその委託の性格を決定し、その権限を定めなければならないであろう。フランスのために国民議会にあたえられる、かくも広範で、かくも錯綜した憲法制定の権力を、コミューンは自分自身のために、すなわちコミューンはその表現にすぎない都市のために行使しなければならないであろう。
さらに、われわれの選出議員の最初の仕事は、彼らの憲章、かつて中世のわれわれの祖先たちが彼らのコミューンと呼んだあの証書の、討議と起草になるであろう。この仕事がおわれば、市の自治についての法令を、それがいかなるものであるにせよ、中央権力に承認させ保証させる手段を考えなければならないであろう。・・・
権力の侵害に対しては、パリ・コミューンは、自ら侵害をもって応えるには及ばないであろう。フランスのすでに解放された他のコミューンと連合して、パリ・コミューンはその名において、またリヨンやマルセーユの、そしてやがてはおそらく十大都市の名において、それらコミューンを国家に結びつけるべき契約条項を検討し、それらのコミューンが署名に応じる最終的な協定を作成しなければならないであろう。
この最終的な協定はどのようなものになるだろうか。第一に・・・自治、すなわち回復された市町村の主権の保証が含まれねばならないだろう。
第二に、それはコミューンと国家的統一体の代表者たちとの自由な交流関係を確立しなければならない。
最後に、それは議会に対し・・・将来において都市の代表が農村の代表のなかに吸収され、溺れてしまうようなことが二度とおこらない・・・ような選挙法の発布を強制しなければならないだろう。」
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・インタナショナルパリ支部連合評議会、コミューンとの連絡委員会の選出。インタナショナル定期大会の5月15日パリ開催を決定。
*
・マルセイユ。国民軍集会、パリの模範にならい、国民軍連盟結成を決定。
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・ヴェルサイユ。ティエール、オルレアン派副提督ゲイドン伯爵をアルジェリアの総督に任命。
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・ブタペシュト。ルーマニア人の新聞「アルピナ」、パリで「革命家たちが、その敵どもにたいして、民主主義と共和制を強化確保する目的をたてている」という報道を掲載。
to be continued
・仏、グレーヴ広場、国民軍中央委員会、コミューン成立宣言。
選挙結果とコミューン議員選出についての発表。
市庁舎で最初のコミューン会議、司会は最長老議員シャルル・ベレー。
国民軍とその中央委員会の、祖国及び共和国に対する功績についての決定採択。
国民軍中央委員会、コミューンへの権力移諸についてパリ住民へアピール。
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市庁舎の正面入口には女神「共和国」の胸像が、赤いスカーフを首に巻き赤い旗にとり囲まれている。市庁舎の屋根にも赤旗が翻り、グレーヴ広場の台の側にも赤旗・三色旗がぎっしりと立っている。台の前に着剣をした国民軍兵士が整列し、「ラ・マルセイエーズ」「出陣の歌」が起こる。祝砲が響き、大革命のときの流行帽フリージア帽が波を打つ。やがて中央委員会委員や選出されたコミューン議員が壇上に登り、中央委員会代表ランヴィエが、コミューン成立を宣言。
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社説「祭り」(「人民の叫び」30日付)。
「コミューンが宜言された。
コミューンは、勝ち誇り、最高の権威をもち、武器を手にして、投票箱から誕生した。パリの人民に選ばれた議員たちが市庁舎の古い建物に入っていった。この建物はサンテールの太鼓と一月二二日の銃声を聞いたのだ。市庁舎前の広場には国家の名誉とパリの尊厳のために犠牲となった人々が流した血が、この祭りの日に勝ちほこって進む大隊の足下に舞い上る埃で消されたばかりである。・・・
コミューンは革命的で愛国的な平和で陽気な、祭りの一日に宣言される。・・・それは九二年の人々が眺めた日々に価する日であり、また帝政の二〇年と敗北と裏切りの六ヵ月を慰める。・・・
武器を手に立ちあがったパリの人民は、このコミューンを歓呼して迎えた。コミューンは、パリの人民を開城の屈辱とプロシアの勝利という侮辱から救い出した。コミューンはかつてパリを勝利に導いたごとく、やがてパリに自由をあたえるだろう。・・・
コミューンが宣言された。
今日は思想と共和国の結婚の祭典だ。
明日は、市民兵諸君、昨夜歓呼で迎えられて結婚したコミューンに子供を生ませるため、常に誇らかに、自由を保持しつつ、仕事場や、帳場にある諸君の持場に帰らなければならない。
勝利の詩の後には、労働の散文がやってくる。」
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中央委員会の声明。
「本日、われわれは、最も雄大な人民集会をもつことができた、われわれの眼をこのように見はらせ、われわれの心をこのように感動させたものはない。
パリはその革命に挨拶と歓呼を送った。パリは歴史に新しい頁を開き、その力強い名前を書きこんだ。
・・・二十万の自由人がその自由を宣言し、新制度を布告した。われわれの周囲を徘徊しているヴェルサイユのスパイどもは、帰ってその主人に報告するがいい、祖国のために死ぬことを誓いつつその主権を取戻した人民の偉大なる姿を。
・・・帝政の前に二十年間無力だったフランスは、自由と勤勉とによって過去の専制と無力からよみがえらなければならぬ。本日選ばれた人々は全力をあげて諸君の自由を保証し、これを永久的なものたらしめるであろう。
・・・信頼をもって諸君のコミューンの周囲に結集せよ、なさねばならぬ改革に協力することによって、その事業を容易ならしめよ、そのときこそ諸君は、確実に次の目標である世界共和国の理想に達することができよう。」。偉大な勝利の日、偉大な幻想の日。
*
コミューン内部でも「パリ・コミューン」について3つの解釈が共存。
①コミューンは、市政の独立・自由の表現であるという考えで、政府・議会の介入を拒み自治性を確立するという点で、パリ・ブルジョワの長年の夢の実現。
②コミューンを1792、93年の革命的独裁の継続として捉える理解で、プランキストやジャコバン派が抱くコミューンの理想像。
③インターナショナルの連邦主義者たちの考えで、コミューンを労働者階級の渇望に応ずる新しい社会秩序の基盤として意味付ける。
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・パリ、証券取引所、再開。
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・アルジェリア、フランス住民の民主的部分の代表者達、「もっとも断固としてパリ・コミューンに参加する」と声明。
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・マルセイユに到着したパリの国民軍中央委員会代表団の発意に基づき、反革命勢力を攻撃開始。
*
・サン・テティエンヌ。政府軍、市役所占拠。コミューン崩壊。
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・ルアン。ドイツ政府代表とティエール政府全権と協定締結。
ティエール政府がヴェルサイユおよびセイヌ・エ・オアズ県における軍隊増強(4⇒8万)、臨時に、国民議会によって樹立された政府の権力と秩序とが、パリに完全に回復されるまでの間許可する。
ヴェルサイユ軍補充の為、ドイツからフランス軍捕虜の送還再開。
*
・ロンドン。インタナショナル総評議会、マルクス、評議会員セライエがパリ支部連合評議会の手紙の件でパリに派遣された、総評議会代表団が22日のウェリントン・ミュージック・ホールの集会に出席し、「パリの労働者たちの現在の闘争にたいする共感」の決議が、満場一致で採択されたことを報告。
*
・ブリュッセル、平和条約締結について、フランスとドイツの交渉開始。ドイツ代表団は、フランスの国内情勢を利用して、暫定平和条約の条件改悪を目論む。
*
・モスクワ、チャイコフスキー「弦楽四重奏曲第1番第2楽章(アンダンテ・カンタービレ)」初演。
*
3月29日
・仏、パリ・コミューン最初の評議会。議長は最年長のベレー。若干の決議。議会の非公開(これは抗議を呼び、議会と、人民、衛兵大隊、地区、地区集会、クラブなどとの連帯が弱まる)、毎週、執行部を選挙すること(最初の選挙では、議長ルフランセ、書記リゴーとフェレ、補佐ベルジュレとデュヴァル。その結果、指導的役割はプランキ派とブルードン派が分け合うことになる)、コミューンが行なう公共事業を定める布告、など。
*
・パリ・コミューン評議会において、アシは中央委員会の名において、同委員会が保有する権限をコミューンに譲渡する(中央委員会は消滅するのではなく、組織を残したままで、国民衛兵を指揮する事を望む)。ウードが、選出された議会を公式に「パリ・コミューン」と呼ぶ提案、可決。
*
・パリ・コミューン評議会、旧各省に対応する9委員会に分割。財政・軍事・労働・教育・保安など。
*
①軍事委員会。国民軍の訓練・武装、被服、軍に関する法令起草、保安委員会との協力によるコミューン防衛強化を任務とする。既にコミューン成立に重大な成果を収めている国民軍連盟中央委員会との権限分担という複雑な問題を抱える。中央委員会は任務完了宣言したものの、ヴェルサイユとの軍事的緊張の高まりの中で、なお存続する。
パンディ、ウード、ベルジュレ、デュヴァル、シャルトン、フルーランス、ランヴィエが委員。⇒改造後ドゥレクリューズ、トリドン、アヴリアル、ランヴィエ、アルノルド。
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②保安委員会。警察、公安を任務とし、委員はリゴー、フェレ、アシー、クールネ、ウーデ、シャレン、ジェラルダン。⇒改造後クールネ、ヴェルモレル、フェレ、上フンケ、A・デュポン。
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③司法委員会。裁判を民主的社会制度にする任務をもち、司法諸制度・諸手続きを法令によって規則化する段階ま進める必要がある。この委員会は「臨時」の性格を帯び、実際に司法権に関しては、コミューンがとった法的な処置が、全体として司法権であるという事態が起こる。
委員はプロト、ランク、メイエ、ヴェルモレル、ルドロワ、バビック。⇒改造後ガンボン、ドゥリュール、クレマンス、ランジュヴァン、デュラン。
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④財務委員会。パリ市の予算監査、家賃問題、支払期日問題、フランス銀行、予めコミューンによって許され査証された資金の各委員会への分配等に責任をもつ。
委員はジュールド、ヴァルラン、Ⅴ・クレマン、レジュール、ペスレー。⇒改造後べスレ、ピリオレ、Ⅴ・クレマン、ルフランセ、F・ピア。
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⑤糧食委員会。首都の糧食の調達、新立法を待つ間の入市税取りたて。
委員はドゥルール、シャンピー、オスタン、J・B・クレマン、パリゼル、E・クレマン、H・フォルテュネ。⇒改造後ヴァルラン、パリゼル、E・クレマン、Art・アルヌー、シャンピー。
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⑥労働・工業・交易委員会。コミューンの公益事業、労働者と雇用主との関係、商法改正、職業教育等の問題を扱う。労働とサラリーを均衡させる手段を探りながら、国家的産業を発達させ、パリを生産の一大中心地にする義務がある。さらに社会主義的理論の普及につとめながら社会革命の道を開拓する重大な任務を負う。委員には連邦主義者が多い。
マロン、フランケル、ティズ、デュポン、アヴリアル、ロワゾー・パンソン、ジェラルダン、ピユジェ。⇒改造後ティズ、マロン、セライリエ、ロンゲ、シャレン。
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○「労働および交換委員会」(委員長レオ・フランケル)の任務:
「コミューンの社会事業ならびに男女労働者の労働事情に関連して実行すべき諸種の方策を研究し、商業取引規則、関税率等を再検討し、諸種の直接税および間接税を改正し、労働および交換の統計的研究を行なう」。この委員会の発起に基づき公布された労働立法の例。罰金その他の名目により、労賃より控除を行なうことを禁じる、コミューンの請負事業における労働者の最低賃銀を定める、入札は労働者の生産協同組合に優先権を認める、パン焼労働者の夜業を禁止。
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⑦公共事業委員会。市行政の監督し、郵便、電報、道路行政、鉄道、福祉の責任を負う。
委員はビリオレ、マルトゥレ、モルティエ、ラストゥール。⇒改造後オスタン・ヴェジニエ、ラストゥール、Ant・アルノー、ポティエ。
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⑧教育委員会。教育改革に関わり、教育を無料化・義務化、宗教から切り離し、リセにおける奨学金付与を容易化、労働者階級の子弟に高等教育への道を開く等の問題の検討。
委員は教育関係者が多く、ヴァイアンを中心に、ヴァレス、グーピル、ルフェーヴル、ウルベン、A・ルロワ、ヴェルデュル、ドウメ、ロシネ、ミオ。⇒改造後クールベ、ヴェルデュール、ミオ、ヴァレス、J・B・クレマン。
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⑨渉外関係委員会。対外関係を扱う。特にフランス各地のコミューンとの連盟を目指し、またプロシアなどの外国とも友好関係を結ぶ活動。
委員はP・グルーセ、ランク、ドゥレクリューズ、U・パラン、Art・アルヌー、Ant・アルノー、Ch・ジェラルダン。⇒改造後メイエ、Ch・ジェラルダン、アムールー、ジョアナール、ウルベン。
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・パリ・コミューン評議会、執行委員会設置。コミューンの布告や他委員会の決定を執行させる任務。様々な対立の為4月20日に改選。
メンバは、ウード、トリドン、ヴァイアン、ルフランセ、デュヴァル、F・ピア、ベルジュレ、リゴー、モルティエ、パラン、バンディが選出されるが、様々な対立により、4月20日に改組。
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・コミューンの最初の呼び掛け。
コミューンの任務とその最初の諸法令(徴兵を廃止し常備軍を武装人民に変えること、家賃支払延期について、質入れ品物の売却停止について、ヴェルサイユ政府の命令・指示の無効宣言など)について。
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徴兵・旧軍隊廃止。1866年、第1インタナショナルのジュネーヴ大会で提起された民主的変革綱領の最重要項目。軍隊は、人民から遊離し、勤労者の利益に反対、支配階級の特権を擁護し、革命的行動を弾圧し、略奪戦争を遂行する為に利用される。コミューンは反人民的な常備軍を廃止し、それを全人民の武装(勤労者からなる国民軍)によって取り替える。
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貧民は、質物の無償受け出しを要求。財政委員ジュールドは財政への影響大のため反対。5月6日応急措置。
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「現存する唯一の権力であるパリ・コミューンは、以下のごとく布告する。
一、種々の公務の従業員は以後、ヴェルサイユあるいはその同調者から発せられる命令および通達を無効とみなすこと。
二、この政令に従わない官吏あるいは従業員は直ちに解雇されるであろう。
コミューンを代表して 議長 ルフランセ。 補佐 ラン、ヴァイヤン。」
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貼り出された宣言。
「諸君が後を追おうとさえしなかった犯罪者どもが、今日、諸君の寛大さを悪用して、市の城門附近に王政的陰謀の策源地を組織しようとしている。彼らは内戦を起そうとしている。彼らはあらゆる買収運動を行なっている。彼らはあらゆる共犯者と手をにざる。彼らは外国の援助さえあえて哀願するほどである。われわれはこの憎むべき策謀を、フランスと世界の審判に訴える・・・」
*
・チラールとコミューンの数人の議員(グルーセ、ジュールド、リゴー)との間に激しい対立。チラールは議場を去り数日後に辞職。
*
・国民軍、5つの保険会社の店舗を占拠、これら会社の帳簿・金庫を封印。
*
・政治的展望の薄明りの中を出来るだけ遠く見通そうとするロンゲの論説(「官報」29日付)。
*
「コミューンの権限。
われわれがこの文章を書いているこの時に、中央委員会は、事実上は別として法律上はその地位をコミューンに譲っているだろう。
中央委員会は、必要に迫られて付託された異状な委託をなし遂げたので、みずからその特殊な任務に立ち帰えるだろう。その任務こそ中央委員会の存在理由であり、それが権力によって暴力的に否認されたので、都市の武装した代表として都市と共に戦って勝利をおさめるか、または滅びることをよぎなくされた。
政府の専横に対して正当かつ合法的に蜂起した市政の自由の表現である中央委員会の唯一の使命は、委員会がかちとった根源的な権利が奪い取られるのを万難を排して防ぐことであった。投票の翌日に、中央委員会はその義務を完了したということができる。
選出されたコミューンについていえば、・・・何よりもまずその委託の性格を決定し、その権限を定めなければならないであろう。フランスのために国民議会にあたえられる、かくも広範で、かくも錯綜した憲法制定の権力を、コミューンは自分自身のために、すなわちコミューンはその表現にすぎない都市のために行使しなければならないであろう。
さらに、われわれの選出議員の最初の仕事は、彼らの憲章、かつて中世のわれわれの祖先たちが彼らのコミューンと呼んだあの証書の、討議と起草になるであろう。この仕事がおわれば、市の自治についての法令を、それがいかなるものであるにせよ、中央権力に承認させ保証させる手段を考えなければならないであろう。・・・
権力の侵害に対しては、パリ・コミューンは、自ら侵害をもって応えるには及ばないであろう。フランスのすでに解放された他のコミューンと連合して、パリ・コミューンはその名において、またリヨンやマルセーユの、そしてやがてはおそらく十大都市の名において、それらコミューンを国家に結びつけるべき契約条項を検討し、それらのコミューンが署名に応じる最終的な協定を作成しなければならないであろう。
この最終的な協定はどのようなものになるだろうか。第一に・・・自治、すなわち回復された市町村の主権の保証が含まれねばならないだろう。
第二に、それはコミューンと国家的統一体の代表者たちとの自由な交流関係を確立しなければならない。
最後に、それは議会に対し・・・将来において都市の代表が農村の代表のなかに吸収され、溺れてしまうようなことが二度とおこらない・・・ような選挙法の発布を強制しなければならないだろう。」
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・インタナショナルパリ支部連合評議会、コミューンとの連絡委員会の選出。インタナショナル定期大会の5月15日パリ開催を決定。
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・マルセイユ。国民軍集会、パリの模範にならい、国民軍連盟結成を決定。
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・ヴェルサイユ。ティエール、オルレアン派副提督ゲイドン伯爵をアルジェリアの総督に任命。
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・ブタペシュト。ルーマニア人の新聞「アルピナ」、パリで「革命家たちが、その敵どもにたいして、民主主義と共和制を強化確保する目的をたてている」という報道を掲載。
to be continued
2009年2月1日日曜日
京のいしぶみ 三つの二条城②、二条殿 旧本能寺 南蛮寺址 「烏丸御池遺跡・平安京跡」
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*二条殿址
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*本能寺址
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*南蛮寺址
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一番上は、京都の烏丸御池交差点(北東角)にある石碑。銘文は、「烏丸御池遺跡・平安京跡」とあり、以下・・・
「この交差点付近は、縄文晩期~古墳時代の土器が多数出土することから、有史以前より集落が営まれていたことが推定され、地名をとって烏丸御池遺跡と呼んでいる。
この碑が建つ地点は、平安京では左京三条三坊十四町と十五町の間の三条坊門小路にあたり、付近は当時の一等地であった。中でも交差点北西角の地には、後鳥羽上皇の押小路殿に始まる著名な園地があり、そのため三条坊門泉殿などの別名で呼ばれていた。今、ここを東西に走る御池通は、神泉苑の前を通ることに因むというのが通説だが、『坊目誌』ではこの泉殿の園地に由来するという説が掲げられている。
その後も付近は高級住宅街として、足利一門の邸宅が存在したが、戦国時代には、この辺りにも砦や城が幾つも構えられ、泉殿の跡には織田信長の宿館が作られた。これらは本能寺の変の際にもその舞台の一つとなったと伝える。
江戸時代になると、金座・銀座などが集中して金融街へと変貌し、その賑わいは、現在でも近代建築の多く残る三条通や烏丸通のオフィスビル群に見ることができる。」
とあります。
この「信長の宿館」というくだりが、三つの二条城の二つ目にあげる所以です。
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天正元(1573年)、信長は将軍義昭の旧二条城を攻め、義昭追放後これを破却。天正4(1576)年、自らの在京屋敷として、二条殿を立ち退かせ、「二条御新造」を築城。
この辺りは江戸時代には金座・銀座があり(石碑は後ほど紹介します)、通りの名前も両替町通りです。しかし、町名は、二条殿町・龍池町・御池之町があり、二条殿の石碑(上から2,3番目)のある場所には龍池小学校(烏丸御池上ル、現在は廃校)があります。これらは二条殿の「龍躍池」にちなんだもののようです。
信長は3年後には正親町天皇の皇子の誠仁親王にこれを献上、二条御所となりますが、天正10年の本能寺の変の際、信長嫡男信忠はここで自刃、二条御所は焼失する。
信忠はこの二条御所の隣にある二条妙覚寺宿泊してまして、急報を聞き本能寺に駆けつけようとしますが、京都奉行村井貞勝に押し止められ、二条御所に籠ることになります。しかし、明智軍は、二条御所の隣の近衛邸お屋根に上りここから火矢を放ったとのことで、防戦敵わず自刃となったようです。
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ということで、旧本能寺跡の石碑も仲間に入れました。
治承4年記(1)
このブログは始めてすぐ「治承4年4月」をやりましたが、ただ「黙翁年表」をベタっと流しただけで、読みにくくかつ面白くなく、自分でもイヤになってまして、続けようか思案をしてました。ただ、「黙翁年表」はそれでも、どんどん増殖してますので、再び先の轍を踏む危険を顧みず、「治承4年記」として再出発します。
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▽治承4年の概観
前年治承3年11月、福原に引退していた前太政大臣平清盛は、突如兵数千を率い入京、後白河上皇を鳥羽殿に押し込めて院政を停止、高倉天皇を傀儡として政治の実権を掌握。関白藤原基房以下の官職を剥奪し、全国66ヶ国中32ヶ国が平家と与党の知行国となる(クーデタ前は17ヶ国)。
この年治承4年初め、清盛外孫の安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行される。
4月、宮廷内の源氏の代表者たる源頼政は、クーデタで所領を失い皇位への望みを断たれた後白河上皇の第3皇子高倉の宮以仁王を奉じ、反平家挙兵を敢行。王は、皇家に反逆する平家を討てと呼びかける令旨を作成し、全国の源氏へ送る。令旨を運ぶ源行家は伊豆国田方郡北条で源頼朝に面会、頼朝は装束を整え、源氏の氏神石清水八幡宮を遥拝し、舅北条時政とを呼び寄せて令旨(叛乱を正統化する根拠文書)を見る。
鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」はここから始まる。
以仁王と頼政の挙兵は失敗し、2人は平家に討ち取られる。
*
平家は、令旨を受けた全国の源氏の討伐を計画。
頼朝は動きを察知し、8月、先手をうって伊豆国の平家一門山木兼隆を討ち取る。しかし、三浦氏ら南関東の軍兵が参集しないうちに、相模国の平家方大庭景親以下に襲われ、石橋山に戦い惨敗、房総半島に逃げ延びる。
ところが、ここから頼朝の武運は大きく開け、千葉常胤・上総広常らが続々と馳せ参じ、この大軍を率い、頼朝は隅田川を越えて武蔵国に入る。ここでは、畠山・河越・江戸などの諸氏も帰順し、10月6日、遂に父祖ゆかりの地鎌倉に入る。
*
一方、平家は平維盛を大将とする討伐軍を東下させるが、頼朝は富士山麓を南進する甲斐源氏との連携に成功、富士川で平家軍と対峠。両軍には明らかな兵力差があり、平家方の戦意は低下。10月20日、甲斐源氏が攻撃を仕掛けると平家軍は大混乱に陥り、戦わず敗北、平維盛以下は京都に逃げ帰る。
頼朝は勢いに乗じ、軍勢を上洛させようとするが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らは、関東には佐竹氏をはじめ味方しない者がいる、先ず東夷を平らげ、その後に関西に至るべきだと諌める。これは、関東の武士たちは、平家追討のために頼朝に臣従したのではなく、関東での新秩序樹立(佐竹氏排除)を望んでいたということを示す。頼朝は彼らの諌言を容れ、甲斐源氏の安田義定・武田信義に遠江・駿河を任せ、黄瀬川で再会した弟義経を伴い、鎌倉に軍を返す。・・・
*
この年は、頼朝が京都に対して「二重権力」体制を構築する叛乱を開始した年。令旨により叛乱の正統性を確立させ、叛乱は内乱へ転化する。
*
この夏、西日本は旱魃により大凶作。平家の兵糧米徴発も加わり、餓死者、相つぐ。翌年の養和の大飢饉に繋がる。
*
藤原定家「明月記」(現存する部分)、この年から始まる。
*
1月(日付なし)
・明恵上人(8)、母と死別。9月、父平重国(戦死)とも死別。母の姉(宗重の長女)の嫁ぎ先田殿庄・崎山兵衛良貞の許にに引き取られ、1年間養育された後、9歳で高尾の神護寺に入る。
*
○[明恵(1173承安3~1232貞永1)]:
紀伊国の人。父は平重国,母は湯浅氏。父母を失った後、叔父の高雄神護寺の上覚房行慈の弟子となり密教や華厳教学を学ぶ。のち紀伊国白上峯に庵室を構え修行、約3年後、高雄奥の栂尾に閑居。その後再び紀伊に移住、約9年間、母方の湯浅一族の各地の館で過す。2度、天竺(インド)に渡ろうとし、春日大明神の神託により中止。
1206年(元久3)後鳥羽院は華厳宗興隆のため明恵に栂尾の別所を与え、翌年東大寺の華厳教学の中心道場である尊勝院の学頭として華厳宗を興隆すべと命じる。栂尾に高山寺が建てられる。
1212年(建暦2)に没した源空「選択本願念仏集」を読み、「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」を著して源空の専修念仏を批判。在家の人々は「南無三宝後生たすけさせ給へ」と唱え、三宝に供養すればよいと実践の簡易化を図る。
1221年(承文3)承久の変に際し、賀茂の別所に移るが翌々年栂尾に戻る。その時、後鳥羽院側の関東調伏の依頼に応じたともいう。また、院側の敗残兵が栂尾に逃げ込んだのを匿った事により六波羅に連行されるが、この時初めて明恵に会った北条泰時が明恵に帰依するようになったともいう。刑死した中御門宗行の未亡人が高雄の入口平岡に善妙寺を開き、同様の女性が集まる。
1233年没(60)。後鳥羽院と関わり、後深草院・修明門院,九条兼実・道家・藤原長房・西園寺公経・富小路盛兼・北条泰時ほかの帰依を受ける。
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・平頼盛、還任され、加賀・佐渡を知行国として与えられる。平忠度、薩摩守・左兵衛佐兼任・正四位下となる。
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○[平頼盛(1132長承元年~1186文治2年)]:
父は忠盛。母は修理大夫藤原宗兼の女宗子(池禅尼)。家盛の同母弟。清盛・経盛・教盛らの異母弟。妻は俊寛の姉妹大納言局(八条院女房。保盛・光盛らの父。六波羅池殿に住み、池殿・池大納言と呼ばれる。
久安2年(1146)皇后宮権少進となり、以後右兵衛佐・中務権大輔・太皇太后宮亮・修理大夫等を歴任、常陸介・安芸守三河守・尾張守・太宰大弐にも任じられる。仁安元年(1166)従三位。左右兵衛督・中納言等を経て、寿永2年(1183)正二位権大納言。
仁安3年(1168)と治承3年(1179)の政変で解官されるなど、清盛との間には早くから忠盛後継を巡る対抗関係にある。寿永2年(1183)7月の平家一門の都落ちの際には都に留る。
同10月鎌倉に下向(公卿補任)、翌年4月に頼朝から没官領を返還され、6月に帰洛(「吾妻鏡」4月6日、6月1、5日条等)。文治元年(1185)5月、病により東大寺で出家(古記・公卿補任)。翌年6月2日没。
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○[平忠度(タダノリ、?~1184寿永3)]:薩摩守、平忠盛の6男。清盛の末弟。母は歌人僧正遍照の子孫にあたる高成の女、妻は同族の高綱(歌人)の女。「兵範記」仁安元年(1167)11月16日条に、清盛の内大臣拝賀の前駆の中に「阿波前司忠度」とある。その後、「右衛門佐」(「兵範記」仁安2年8月14日条など)、「伯耆守」(「玉葉」治承3年11月18日条等)、「薩摩守」(治承4年9月11日条等)などを歴任。治承2年正月5日従四位上(「玉葉」「山塊記」同日条)。治承4年の富士川合戦(「玉葉」9月9、11日条)、翌5年3月の墨俣合戦(「古記」13日条)に名が見え、源氏追討の遠征にしばしば参加。
寿永3年一の谷合戦で討たれ、八条河原にその首が並べられる(「吾妻鏡」2月13日条)。
歌人としても知られ、「千載集」(詠み人知らず)をはじめ、「新勅撰集」「玉葉集」「風雅集」「新拾遺集」などの勅撰集に10首入集。私家集「忠度集」。また、「吾妻鏡」には熊野別当湛快の女と結婚とある(元暦2年2月19日条)。
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1月5日
・藤原定家(19)、従五位上に叙任。
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○[藤原定家(1162~1241)]:
藤原俊成の2男。母は藤原親忠女の美福門院加賀。
後鳥羽上皇は退位1年後の正治元年(1199)頃から、和歌の世界に傾倒し、「新古今和歌集」編纂に発展していく。定家は正治2年頃の和歌詠進メンバから外れているが、父俊成と諸方に働きかけ詠進メンバに加えられ、元久2年(1205)「新古今和歌集」編纂の中心的役割を果たす。
京都文化への憧憬から和歌に心を寄せる将軍実朝(18)は、承元3年(1209)7月、住吉社に歌30首を奉じ、定家の許にも送る。翌8月、使者内藤知親(定家門弟)は鎌倉に帰り、合点を加えた和歌を実朝に返進。その時、定家は実朝の質問に対して書かれた歌論書「近代秀歌」を送る。
この年、定家(50)は従三位にのぼり、侍従となる。この頃後鳥羽との間に芸術上の意見対立や感情疎隔が生じ、歌の作れない時期で、健康にも恵まれない日々が多くスランプに陥っていた時期。その後も実朝との往信は続き、建暦元年9月には、頼時が関東に下向のついでに手紙や歌論を託し、建暦3年(1213)には相伝の私本「万葉集」を実朝に献呈。承久の乱直前に後鳥羽から勅勘を被り、乱に連坐することなく、乱後は歌壇の大御所として活躍した。大福2年(1234)10月出家。19歳から書き続けられる日記「明月記」は75歳で終わる。晩年は歌を作るより、歌を整理し歌道として後世に残す事を心掛け、古典の書写を続ける。正治2年(1241)没。
to be continued
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▽治承4年の概観
前年治承3年11月、福原に引退していた前太政大臣平清盛は、突如兵数千を率い入京、後白河上皇を鳥羽殿に押し込めて院政を停止、高倉天皇を傀儡として政治の実権を掌握。関白藤原基房以下の官職を剥奪し、全国66ヶ国中32ヶ国が平家と与党の知行国となる(クーデタ前は17ヶ国)。
この年治承4年初め、清盛外孫の安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行される。
4月、宮廷内の源氏の代表者たる源頼政は、クーデタで所領を失い皇位への望みを断たれた後白河上皇の第3皇子高倉の宮以仁王を奉じ、反平家挙兵を敢行。王は、皇家に反逆する平家を討てと呼びかける令旨を作成し、全国の源氏へ送る。令旨を運ぶ源行家は伊豆国田方郡北条で源頼朝に面会、頼朝は装束を整え、源氏の氏神石清水八幡宮を遥拝し、舅北条時政とを呼び寄せて令旨(叛乱を正統化する根拠文書)を見る。
鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」はここから始まる。
以仁王と頼政の挙兵は失敗し、2人は平家に討ち取られる。
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平家は、令旨を受けた全国の源氏の討伐を計画。
頼朝は動きを察知し、8月、先手をうって伊豆国の平家一門山木兼隆を討ち取る。しかし、三浦氏ら南関東の軍兵が参集しないうちに、相模国の平家方大庭景親以下に襲われ、石橋山に戦い惨敗、房総半島に逃げ延びる。
ところが、ここから頼朝の武運は大きく開け、千葉常胤・上総広常らが続々と馳せ参じ、この大軍を率い、頼朝は隅田川を越えて武蔵国に入る。ここでは、畠山・河越・江戸などの諸氏も帰順し、10月6日、遂に父祖ゆかりの地鎌倉に入る。
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一方、平家は平維盛を大将とする討伐軍を東下させるが、頼朝は富士山麓を南進する甲斐源氏との連携に成功、富士川で平家軍と対峠。両軍には明らかな兵力差があり、平家方の戦意は低下。10月20日、甲斐源氏が攻撃を仕掛けると平家軍は大混乱に陥り、戦わず敗北、平維盛以下は京都に逃げ帰る。
頼朝は勢いに乗じ、軍勢を上洛させようとするが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らは、関東には佐竹氏をはじめ味方しない者がいる、先ず東夷を平らげ、その後に関西に至るべきだと諌める。これは、関東の武士たちは、平家追討のために頼朝に臣従したのではなく、関東での新秩序樹立(佐竹氏排除)を望んでいたということを示す。頼朝は彼らの諌言を容れ、甲斐源氏の安田義定・武田信義に遠江・駿河を任せ、黄瀬川で再会した弟義経を伴い、鎌倉に軍を返す。・・・
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この年は、頼朝が京都に対して「二重権力」体制を構築する叛乱を開始した年。令旨により叛乱の正統性を確立させ、叛乱は内乱へ転化する。
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この夏、西日本は旱魃により大凶作。平家の兵糧米徴発も加わり、餓死者、相つぐ。翌年の養和の大飢饉に繋がる。
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藤原定家「明月記」(現存する部分)、この年から始まる。
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1月(日付なし)
・明恵上人(8)、母と死別。9月、父平重国(戦死)とも死別。母の姉(宗重の長女)の嫁ぎ先田殿庄・崎山兵衛良貞の許にに引き取られ、1年間養育された後、9歳で高尾の神護寺に入る。
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○[明恵(1173承安3~1232貞永1)]:
紀伊国の人。父は平重国,母は湯浅氏。父母を失った後、叔父の高雄神護寺の上覚房行慈の弟子となり密教や華厳教学を学ぶ。のち紀伊国白上峯に庵室を構え修行、約3年後、高雄奥の栂尾に閑居。その後再び紀伊に移住、約9年間、母方の湯浅一族の各地の館で過す。2度、天竺(インド)に渡ろうとし、春日大明神の神託により中止。
1206年(元久3)後鳥羽院は華厳宗興隆のため明恵に栂尾の別所を与え、翌年東大寺の華厳教学の中心道場である尊勝院の学頭として華厳宗を興隆すべと命じる。栂尾に高山寺が建てられる。
1212年(建暦2)に没した源空「選択本願念仏集」を読み、「摧邪輪」「摧邪輪荘厳記」を著して源空の専修念仏を批判。在家の人々は「南無三宝後生たすけさせ給へ」と唱え、三宝に供養すればよいと実践の簡易化を図る。
1221年(承文3)承久の変に際し、賀茂の別所に移るが翌々年栂尾に戻る。その時、後鳥羽院側の関東調伏の依頼に応じたともいう。また、院側の敗残兵が栂尾に逃げ込んだのを匿った事により六波羅に連行されるが、この時初めて明恵に会った北条泰時が明恵に帰依するようになったともいう。刑死した中御門宗行の未亡人が高雄の入口平岡に善妙寺を開き、同様の女性が集まる。
1233年没(60)。後鳥羽院と関わり、後深草院・修明門院,九条兼実・道家・藤原長房・西園寺公経・富小路盛兼・北条泰時ほかの帰依を受ける。
*
・平頼盛、還任され、加賀・佐渡を知行国として与えられる。平忠度、薩摩守・左兵衛佐兼任・正四位下となる。
*
○[平頼盛(1132長承元年~1186文治2年)]:
父は忠盛。母は修理大夫藤原宗兼の女宗子(池禅尼)。家盛の同母弟。清盛・経盛・教盛らの異母弟。妻は俊寛の姉妹大納言局(八条院女房。保盛・光盛らの父。六波羅池殿に住み、池殿・池大納言と呼ばれる。
久安2年(1146)皇后宮権少進となり、以後右兵衛佐・中務権大輔・太皇太后宮亮・修理大夫等を歴任、常陸介・安芸守三河守・尾張守・太宰大弐にも任じられる。仁安元年(1166)従三位。左右兵衛督・中納言等を経て、寿永2年(1183)正二位権大納言。
仁安3年(1168)と治承3年(1179)の政変で解官されるなど、清盛との間には早くから忠盛後継を巡る対抗関係にある。寿永2年(1183)7月の平家一門の都落ちの際には都に留る。
同10月鎌倉に下向(公卿補任)、翌年4月に頼朝から没官領を返還され、6月に帰洛(「吾妻鏡」4月6日、6月1、5日条等)。文治元年(1185)5月、病により東大寺で出家(古記・公卿補任)。翌年6月2日没。
*
○[平忠度(タダノリ、?~1184寿永3)]:薩摩守、平忠盛の6男。清盛の末弟。母は歌人僧正遍照の子孫にあたる高成の女、妻は同族の高綱(歌人)の女。「兵範記」仁安元年(1167)11月16日条に、清盛の内大臣拝賀の前駆の中に「阿波前司忠度」とある。その後、「右衛門佐」(「兵範記」仁安2年8月14日条など)、「伯耆守」(「玉葉」治承3年11月18日条等)、「薩摩守」(治承4年9月11日条等)などを歴任。治承2年正月5日従四位上(「玉葉」「山塊記」同日条)。治承4年の富士川合戦(「玉葉」9月9、11日条)、翌5年3月の墨俣合戦(「古記」13日条)に名が見え、源氏追討の遠征にしばしば参加。
寿永3年一の谷合戦で討たれ、八条河原にその首が並べられる(「吾妻鏡」2月13日条)。
歌人としても知られ、「千載集」(詠み人知らず)をはじめ、「新勅撰集」「玉葉集」「風雅集」「新拾遺集」などの勅撰集に10首入集。私家集「忠度集」。また、「吾妻鏡」には熊野別当湛快の女と結婚とある(元暦2年2月19日条)。
*
1月5日
・藤原定家(19)、従五位上に叙任。
*
○[藤原定家(1162~1241)]:
藤原俊成の2男。母は藤原親忠女の美福門院加賀。
後鳥羽上皇は退位1年後の正治元年(1199)頃から、和歌の世界に傾倒し、「新古今和歌集」編纂に発展していく。定家は正治2年頃の和歌詠進メンバから外れているが、父俊成と諸方に働きかけ詠進メンバに加えられ、元久2年(1205)「新古今和歌集」編纂の中心的役割を果たす。
京都文化への憧憬から和歌に心を寄せる将軍実朝(18)は、承元3年(1209)7月、住吉社に歌30首を奉じ、定家の許にも送る。翌8月、使者内藤知親(定家門弟)は鎌倉に帰り、合点を加えた和歌を実朝に返進。その時、定家は実朝の質問に対して書かれた歌論書「近代秀歌」を送る。
この年、定家(50)は従三位にのぼり、侍従となる。この頃後鳥羽との間に芸術上の意見対立や感情疎隔が生じ、歌の作れない時期で、健康にも恵まれない日々が多くスランプに陥っていた時期。その後も実朝との往信は続き、建暦元年9月には、頼時が関東に下向のついでに手紙や歌論を託し、建暦3年(1213)には相伝の私本「万葉集」を実朝に献呈。承久の乱直前に後鳥羽から勅勘を被り、乱に連坐することなく、乱後は歌壇の大御所として活躍した。大福2年(1234)10月出家。19歳から書き続けられる日記「明月記」は75歳で終わる。晩年は歌を作るより、歌を整理し歌道として後世に残す事を心掛け、古典の書写を続ける。正治2年(1241)没。
to be continued
2009年1月31日土曜日
鎌倉 鎌倉五山② 寿福寺
アウトラインは写真の説明をご参照下さい。
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この日、特にアテもなく歩いていたら、結果的に鎌倉五山の4つを参拝したことになったのですが、後でネットで知ったところによると、昭和12年2月に中原中也がこのお寺の境内に引っ越して最晩年をすごしたそうです(この年10月に鎌倉の病院で没)。
前にもちょこっと書いたのですが、「帰郷」という彼の詩が好きです。
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「帰郷」
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする
これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦の低い声もする
あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする
これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦の低い声もする
あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ
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頼朝の鎌倉入りの翌日(治承4年(1180)10月7日)の「吾妻鏡」は:
「先ず鶴岡八幡宮を遙拝し奉り給う。次いで故左典厩(さてんきゅう、頼朝の父、左馬頭義朝)の亀谷の御旧跡を監臨し給う。即ち当所を点じ、御亭を建てらるべきの由、その沙汰有りと雖も、地形広きに非ず。また岡崎平四郎義實、彼の没後を訪い奉らんが為一梵宇を建つ。仍ってその儀を停めらると。 」
*
*
(現代語訳)「まず鶴岡八幡宮を遥拝された。その後左典厩の御旧跡である亀谷に行かれた。その場所を定めて邸宅をお建てになろうとしたものの、土地の形が広くなく、そのうえ岡崎四郎義実が義朝の没後を弔うために寺院を建てていたため、お止めになったという。」
とあります。
*
頼朝没後(翌年)、政子の夢に頼朝の父義朝が現れ、今は沼間の館(逗子)に居るが鎌倉の館に戻りたいと言ったので、義朝の別邸を管理していた三浦氏に掛け合い、遺品等を亀ヶ谷の館跡に移し寺を建てたというのが由来だそうです。
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鎌倉の五山といっても、大伽藍のあるデーンとしたお寺は建長寺・円覚寺までですね。でも、ひなびた、ひっそりとしたたたずまいが、いいですね。
このお寺、非公開です。
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(新緑の頃の再訪もご覧下さい)
「鎌倉 寿福寺 北条政子の墓 実朝の墓 虚子の墓」
*
寿福寺から源氏山公園に上り、化粧坂に出るルートでの散策記事もあります。
*
また、中原中也と小林秀雄が和解した場所として妙本寺があります。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
「★鎌倉インデックス」を作りました。
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(新緑の頃の再訪もご覧下さい)
「鎌倉 寿福寺 北条政子の墓 実朝の墓 虚子の墓」
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寿福寺から源氏山公園に上り、化粧坂に出るルートでの散策記事もあります。
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また、中原中也と小林秀雄が和解した場所として妙本寺があります。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
「★鎌倉インデックス」を作りました。
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明治17(1884)年10月1~11日 秩父(10)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 秩父困民党、岩殿沢鉱泉で非合法集会
■明治17(1884)年秩父(10)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月:蜂起1ヶ月前
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10月(日付なし)
・宮城県柴田郡に借金党蜂起
*
・景山英子、上京。「自由燈」記者坂崎斌を頼る。ミッションスクール新栄女学校(築地新栄町、後の女子学院)入学(11月頃~翌18年4、5月)。
*・鹿鳴館、開館。
この月より毎日曜日、日本の高官夫人たちにダンス練習会が始る。外務卿井上馨は、殆ど皆勤で婦人たちの練習につきあう。
*
・民権結社、関東6県で303社、東北6県で120社となる。
*
・この頃、加波山事件の逃亡者、八王子に潜入。4日、加波山事件により、二子川向こうより先に巡査・憲兵による立番が置かれる(橘樹郡溝ノロ村の「上田日記」)。
*
10月2日
・清仏戦争。
西太后、敵は船堅砲利であるが、多数の舢板船(沿岸河川用小型砲艦)で四方から一斉砲撃すれば勝利を得ようと述べる。三元里に始まる「以民以夷」(義民によるゲリラ戦)戦略。12日、朝廷、基隆を攻撃するフランス軍に対し、台湾の富戸・豪士が「忠義の士」を集めて団勇(義勇軍)を組織し、正規軍と協力してフランス軍を撃退せよと命令。
*
9月6日開戦。10月以降、クールベ提督率いるフランス海軍は基隆・澎湖島の占領、台湾の淡水・浙江の鎮海の攻撃、台湾・寧波の封鎖などを行う。陸軍もトンキン~広西ルートの要衝ランソンをへて国境の鎮南関まで占領。
*
10月2日
・東秩父坂本村、自由党員福島敬三のもとに門松庄右衛門と共に代用教員新井周三郎(のち甲大隊長)が訪問、門松他農民13名の自由党入党志願書の保証人を依頼。福島は文字もかけない農民には党員資格なしと拒否するが、新井の理を尽くした説得で判を押す。
*
福島の父は大地主・戸長、自分も戸長役場筆生として村政を牛耳る。
福島は、秩父蜂起には参加せず、児玉町警察と通じる。長い審理ののち無罪放免。旦那自由党員の限界。自由党の体質を変えざるを得ない状況にあるということは、同時に自由党自壊の始りでもある。
*
10月2日
・南多摩郡下壱分方村の被差別部落民の自由党員山口重兵衛・山上作太郎(卓樹)・柏木豊次郎・奥田兵助ら,浅川の川原で野外運動会を行ない、鴻武館道場の発会式を祝う。
*
10月2日
・中溝昌弘(私立銀行・金貸会社との直接交渉を担当)の細野喜代四郎宛書簡。
諸銀行会社が回答案の提出を先延ばしする姿勢に「不快」。八王子銀行回答案が年賦返済を認める範囲を狭くし、それが他の銀行会社に与える影響を憂慮。
また、東海貯蓄銀行株主総会で、「蓄財専門連中」の「田村・指田抔(など)」が会社規則通りの処置を主張し、八王子銀行と同様に「猶予年賦」を認めることに「不承諾」を決議し、中溝の詰問に対して成内頭取が、役員の任期1年を越えた約束はできないと述べたこと、等を細野に知らせて批判。
因循していては負債主が不幸に陥るばかり、と負債民(困民)側にたった問題解決を模索。
*
○石阪昌孝・中溝昌弘・薄井盛恭ら名望家層として仲裁に関与する「天保の老人」たちに共通の不満や憤り:
彼らは幕末から、地域社会の平和や安穏の維持に責任感をもつ保護者として振る舞い、地域の人々の困難の除去を責務と考え、その責務に対する思い入れが強い。
困民党の徒党行動は容認しないが、困民の状況には同情的で、困難の原因を諸銀行会社に見て、原因の除去を求める立場。
石阪・中溝・薄井らの幕末維新期の同志で、リーダー的存在の小野路村(町田市)小島韶斎も、困民への同情と債主非難を日記に書く。
また、この頃の北多摩郡長砂川源右衛門(砂川村、現立川市、明治14年1月結成の多摩で最初の政治結社自治改進党社長)も、東海貯蓄銀行成内頴一郎に対し「不都合ノ営業ヲセズモ妻子扶助ハ差支有之間敷ニ付已来廃業」しろと「厳談」に及ぶ(薄井盛恭の原豊穣南多摩郡長宛書簡、1884年10月24日付)。
*
聯合村戸長の立場にある仲裁人(細野喜代四郎・長谷川彦八ら):
末端とはいえ官吏が私的な契約に介入することの論理的な正当性をついに見つけられず、自らの立場は曖昧。
諸銀行会社役員には、契約履行を会社規則に則り強行するのは当然という論理をもつ者があり、政府もそれを保証するとの確信もある。地域社会では少数派だが、時代との一体感は強い。
*
自由民権家:
経済的自由、営業の自由、契約の絶対性、財産所有権などに親和的で、中溝昌弘・薄井盛恭らのように同情を機軸に対応できず、銀行側を不誠実・不快なものと非難することも不可能。夫々の地域社会における位置、銀行会社との関係などに引きずられて対応を選択する、論理と状況の板挟み状況。
*
石阪昌孝(中溝・薄井ら名望家と発想を共有し、かつ自由民権家):
論理は明確ではないが、地域自由党の最高リーダーとして、共融会社や甲子会社への影響力を行使。また中央自由党幹事で昌孝の同志佐藤貞幹に仲裁活動を要請し、「自由党員」としての関与が目立つ。
昌孝は、仲裁人リーダーで友人の薄井盛恭から、「石坂抔ハ兎角激論ノミ」主張すると見られている(1884年8月29日付、原豊穣南多摩郡長宛書簡)。
数年後、石阪昌孝は、長年の同志・北多摩郡野崎村吉野泰三と多摩を二分する政治的対立に陥るが、そのとき昌孝は吉野派から、「加波山暴挙ニ続テ石坂ハ八王子地方ニ於テ陰ニ貧乏党を煽動ス」「此貧乏党沈静ノ為メ神奈川県知事沖守固ハ石坂をシテ沈静ニ尽力セシメ褒状及物品ヲ賜フ、人皆眉ヲヒソム」と非難される。この文書は、怪文書的なもので信用度は低いが、昌孝の困民よりの姿勢を表すともいえる。
*
結局、仲裁活動の成果としての銀行側の回答案(負債額100円以内のものに限り元金3ヶ年賦)では、鎮静化に至らず。
仲裁人が困民党の総代的な役割を担った津久井郡と、細野喜代四郎の管轄下の高ケ坂村・金森村などの困民党は、回答案に沿っての和解交渉に入るが、圧倒的多数の困民集団は、回答案を不満として武相7郡におよぶ大困民党組織「武相困民党」を結成(秩父困民党蜂起潰滅後の11月19日)、嘆願により行政を巻き込み、自力で問題解決を図ろうとする。仲裁団の影響力は10月を境に後退。石阪昌孝も自由党指導者としての活動に追われる時を迎える。
*
10月2日
・海南親睦会結成
*
10月3日
・下村湖人、誕生。
*
10月4日
・秩父困民党、高利貸しとの個別交渉始まる。
鋭い論理で相手を追詰める教員あがりの新井周三郎、それを苦みばしった笑いで見つめる加藤織平(今も古老の語り草)。ひとりの高利貸しも崩せず。
*
風布村大野福次郎は、隣村西ノ入村の新井周三郎の組に属し、井戸村の高利貸磯辺浜五郎の邸に押しかける。浜五郎からは、風布の宮下嘉蔵が9円60銭、中川庄蔵が17円を借りていたと云う。
*
風布村農民の借金額。
福次郎の記録だけをみても、24人で2,144円、1人平均90円となっている。1戸当りの所有地価は65円であり、家屋敷田畑全て抵当に入れてなお足らぬ額と、村を挙げての身代限りというべき情況。よって、要求も「43ヶ年間据置き、15ヶ年賦」、棒引きに等しいものとなる。
*
10月5日
・「自由新聞」、「海外着手」を訴える。
「その形跡のたまたま併呑蚕食に類するあるも、また何ぞこれを意とするに足らんや」と強調。
*
10月10日
・秩父困民党、岩殿沢鉱泉での非合法集会。中堅幹部以上と各村代表に拡大幹部会議。
高利貸との交渉(合法活動)限界となり、再度の警察署への請願を決定(一度も行われず、内部的には一斉蜂起による強願へ方向転換が決議?)。
*
風布村福次郎は、「小鹿野の岩殿鉱泉にあつまれ」との指示ありでかけると、数十名の農民が集まっているが、顔見知りは犬木寿作・落合寅市ぐらいで、あとは新顔ばかりと云う。組織活動の進展を示す。
*
高利貸との個別交渉の総括的検討を行い、激しい個別交渉によっても、1人の高利貸をも崩せなかったことの確認と再度警察署への請願を決める。
●困民党指導部の狙いは、激しい個別交渉後の農民たちの闘志の方向性の測定にある。それ故、再度請願の会議決定は実行されず、2日後(12日)の最高幹部会議では「一斉蜂起」方針が打ち出される。再度請願は、警察権力への撹乱戦術と推測する見方もあり。
*
10月10日
・高ヶ坂村市川四郎助、共融会社へ出頭、交渉するも手間取る。夜、市川・矢口は、原町田警察分署山本一智宅を訪問、「困民ノ事情」を報告。11日、市川は、細野に銀行へ書面を出してくれるよう依頼。
*
10月11日
・武相自由党会議。広徳館。石阪昌孝ら15名出席。自由党秋季大会(大阪大会)出席人決定。広徳館の維持法も議論。
「・・・党中ニテ費用其七、八分ヲ助力」すると決定(自由党通信事務所の性格を強める)。
出席人は石阪昌孝、佐藤貞幹(都筑郡久保村・自由党幹事)・平野友輔(八王子)・山本与七(高座郡座間村)、鎌田喜三(北多摩郡奈良橋村)など。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued
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10月:蜂起1ヶ月前
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10月(日付なし)
・宮城県柴田郡に借金党蜂起
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・景山英子、上京。「自由燈」記者坂崎斌を頼る。ミッションスクール新栄女学校(築地新栄町、後の女子学院)入学(11月頃~翌18年4、5月)。
*・鹿鳴館、開館。
この月より毎日曜日、日本の高官夫人たちにダンス練習会が始る。外務卿井上馨は、殆ど皆勤で婦人たちの練習につきあう。
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・民権結社、関東6県で303社、東北6県で120社となる。
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・この頃、加波山事件の逃亡者、八王子に潜入。4日、加波山事件により、二子川向こうより先に巡査・憲兵による立番が置かれる(橘樹郡溝ノロ村の「上田日記」)。
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10月2日
・清仏戦争。
西太后、敵は船堅砲利であるが、多数の舢板船(沿岸河川用小型砲艦)で四方から一斉砲撃すれば勝利を得ようと述べる。三元里に始まる「以民以夷」(義民によるゲリラ戦)戦略。12日、朝廷、基隆を攻撃するフランス軍に対し、台湾の富戸・豪士が「忠義の士」を集めて団勇(義勇軍)を組織し、正規軍と協力してフランス軍を撃退せよと命令。
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9月6日開戦。10月以降、クールベ提督率いるフランス海軍は基隆・澎湖島の占領、台湾の淡水・浙江の鎮海の攻撃、台湾・寧波の封鎖などを行う。陸軍もトンキン~広西ルートの要衝ランソンをへて国境の鎮南関まで占領。
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10月2日
・東秩父坂本村、自由党員福島敬三のもとに門松庄右衛門と共に代用教員新井周三郎(のち甲大隊長)が訪問、門松他農民13名の自由党入党志願書の保証人を依頼。福島は文字もかけない農民には党員資格なしと拒否するが、新井の理を尽くした説得で判を押す。
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福島の父は大地主・戸長、自分も戸長役場筆生として村政を牛耳る。
福島は、秩父蜂起には参加せず、児玉町警察と通じる。長い審理ののち無罪放免。旦那自由党員の限界。自由党の体質を変えざるを得ない状況にあるということは、同時に自由党自壊の始りでもある。
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10月2日
・南多摩郡下壱分方村の被差別部落民の自由党員山口重兵衛・山上作太郎(卓樹)・柏木豊次郎・奥田兵助ら,浅川の川原で野外運動会を行ない、鴻武館道場の発会式を祝う。
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10月2日
・中溝昌弘(私立銀行・金貸会社との直接交渉を担当)の細野喜代四郎宛書簡。
諸銀行会社が回答案の提出を先延ばしする姿勢に「不快」。八王子銀行回答案が年賦返済を認める範囲を狭くし、それが他の銀行会社に与える影響を憂慮。
また、東海貯蓄銀行株主総会で、「蓄財専門連中」の「田村・指田抔(など)」が会社規則通りの処置を主張し、八王子銀行と同様に「猶予年賦」を認めることに「不承諾」を決議し、中溝の詰問に対して成内頭取が、役員の任期1年を越えた約束はできないと述べたこと、等を細野に知らせて批判。
因循していては負債主が不幸に陥るばかり、と負債民(困民)側にたった問題解決を模索。
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○石阪昌孝・中溝昌弘・薄井盛恭ら名望家層として仲裁に関与する「天保の老人」たちに共通の不満や憤り:
彼らは幕末から、地域社会の平和や安穏の維持に責任感をもつ保護者として振る舞い、地域の人々の困難の除去を責務と考え、その責務に対する思い入れが強い。
困民党の徒党行動は容認しないが、困民の状況には同情的で、困難の原因を諸銀行会社に見て、原因の除去を求める立場。
石阪・中溝・薄井らの幕末維新期の同志で、リーダー的存在の小野路村(町田市)小島韶斎も、困民への同情と債主非難を日記に書く。
また、この頃の北多摩郡長砂川源右衛門(砂川村、現立川市、明治14年1月結成の多摩で最初の政治結社自治改進党社長)も、東海貯蓄銀行成内頴一郎に対し「不都合ノ営業ヲセズモ妻子扶助ハ差支有之間敷ニ付已来廃業」しろと「厳談」に及ぶ(薄井盛恭の原豊穣南多摩郡長宛書簡、1884年10月24日付)。
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聯合村戸長の立場にある仲裁人(細野喜代四郎・長谷川彦八ら):
末端とはいえ官吏が私的な契約に介入することの論理的な正当性をついに見つけられず、自らの立場は曖昧。
諸銀行会社役員には、契約履行を会社規則に則り強行するのは当然という論理をもつ者があり、政府もそれを保証するとの確信もある。地域社会では少数派だが、時代との一体感は強い。
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自由民権家:
経済的自由、営業の自由、契約の絶対性、財産所有権などに親和的で、中溝昌弘・薄井盛恭らのように同情を機軸に対応できず、銀行側を不誠実・不快なものと非難することも不可能。夫々の地域社会における位置、銀行会社との関係などに引きずられて対応を選択する、論理と状況の板挟み状況。
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石阪昌孝(中溝・薄井ら名望家と発想を共有し、かつ自由民権家):
論理は明確ではないが、地域自由党の最高リーダーとして、共融会社や甲子会社への影響力を行使。また中央自由党幹事で昌孝の同志佐藤貞幹に仲裁活動を要請し、「自由党員」としての関与が目立つ。
昌孝は、仲裁人リーダーで友人の薄井盛恭から、「石坂抔ハ兎角激論ノミ」主張すると見られている(1884年8月29日付、原豊穣南多摩郡長宛書簡)。
数年後、石阪昌孝は、長年の同志・北多摩郡野崎村吉野泰三と多摩を二分する政治的対立に陥るが、そのとき昌孝は吉野派から、「加波山暴挙ニ続テ石坂ハ八王子地方ニ於テ陰ニ貧乏党を煽動ス」「此貧乏党沈静ノ為メ神奈川県知事沖守固ハ石坂をシテ沈静ニ尽力セシメ褒状及物品ヲ賜フ、人皆眉ヲヒソム」と非難される。この文書は、怪文書的なもので信用度は低いが、昌孝の困民よりの姿勢を表すともいえる。
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結局、仲裁活動の成果としての銀行側の回答案(負債額100円以内のものに限り元金3ヶ年賦)では、鎮静化に至らず。
仲裁人が困民党の総代的な役割を担った津久井郡と、細野喜代四郎の管轄下の高ケ坂村・金森村などの困民党は、回答案に沿っての和解交渉に入るが、圧倒的多数の困民集団は、回答案を不満として武相7郡におよぶ大困民党組織「武相困民党」を結成(秩父困民党蜂起潰滅後の11月19日)、嘆願により行政を巻き込み、自力で問題解決を図ろうとする。仲裁団の影響力は10月を境に後退。石阪昌孝も自由党指導者としての活動に追われる時を迎える。
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10月2日
・海南親睦会結成
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10月3日
・下村湖人、誕生。
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10月4日
・秩父困民党、高利貸しとの個別交渉始まる。
鋭い論理で相手を追詰める教員あがりの新井周三郎、それを苦みばしった笑いで見つめる加藤織平(今も古老の語り草)。ひとりの高利貸しも崩せず。
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風布村大野福次郎は、隣村西ノ入村の新井周三郎の組に属し、井戸村の高利貸磯辺浜五郎の邸に押しかける。浜五郎からは、風布の宮下嘉蔵が9円60銭、中川庄蔵が17円を借りていたと云う。
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風布村農民の借金額。
福次郎の記録だけをみても、24人で2,144円、1人平均90円となっている。1戸当りの所有地価は65円であり、家屋敷田畑全て抵当に入れてなお足らぬ額と、村を挙げての身代限りというべき情況。よって、要求も「43ヶ年間据置き、15ヶ年賦」、棒引きに等しいものとなる。
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10月5日
・「自由新聞」、「海外着手」を訴える。
「その形跡のたまたま併呑蚕食に類するあるも、また何ぞこれを意とするに足らんや」と強調。
*
10月10日
・秩父困民党、岩殿沢鉱泉での非合法集会。中堅幹部以上と各村代表に拡大幹部会議。
高利貸との交渉(合法活動)限界となり、再度の警察署への請願を決定(一度も行われず、内部的には一斉蜂起による強願へ方向転換が決議?)。
*
風布村福次郎は、「小鹿野の岩殿鉱泉にあつまれ」との指示ありでかけると、数十名の農民が集まっているが、顔見知りは犬木寿作・落合寅市ぐらいで、あとは新顔ばかりと云う。組織活動の進展を示す。
*
高利貸との個別交渉の総括的検討を行い、激しい個別交渉によっても、1人の高利貸をも崩せなかったことの確認と再度警察署への請願を決める。
●困民党指導部の狙いは、激しい個別交渉後の農民たちの闘志の方向性の測定にある。それ故、再度請願の会議決定は実行されず、2日後(12日)の最高幹部会議では「一斉蜂起」方針が打ち出される。再度請願は、警察権力への撹乱戦術と推測する見方もあり。
*
10月10日
・高ヶ坂村市川四郎助、共融会社へ出頭、交渉するも手間取る。夜、市川・矢口は、原町田警察分署山本一智宅を訪問、「困民ノ事情」を報告。11日、市川は、細野に銀行へ書面を出してくれるよう依頼。
*
10月11日
・武相自由党会議。広徳館。石阪昌孝ら15名出席。自由党秋季大会(大阪大会)出席人決定。広徳館の維持法も議論。
「・・・党中ニテ費用其七、八分ヲ助力」すると決定(自由党通信事務所の性格を強める)。
出席人は石阪昌孝、佐藤貞幹(都筑郡久保村・自由党幹事)・平野友輔(八王子)・山本与七(高座郡座間村)、鎌田喜三(北多摩郡奈良橋村)など。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued
2009年1月28日水曜日
1871年3月26日 ジャコバンの見果てぬ夢か・・(7) パリコミューン評議会選挙
1871年3月26日
・仏、パリコミューン評議会選挙。
485,566中225,000投票(485,569中229,167という数値もある)、86評議員中労働者26、国民衛兵中央委員会は候補者推薦せず。ブランキ派9、インター派17、インター派に近い社会主義者11。穏健共和派15、急進共和派6。
*
ブルジョア地区でも、民衆地区より熱意に劣るが、多くの投票が行なわれる。
選挙は、ともかく「合法的」権力の代表者である区長の同意を得ており正規のものとされる。
ブルジョア地区ではパリ市議会を選出する為に投票し、民衆地区では、保守的国民議会・裏切者政府に対抗する共和国新政府を合法的なものにする為に投票する。
*
「人民の叫び」(27日付)が伝える26日午後11時のパリの表情。
「選挙各区の一般的表情(午後11時)
第一区:投票に対する熱意が少ない。現在の市当局者の名前のみが壁に張り出されている。・・・
第二区:サン=ドニ地区。選挙人が大勢集まっている。
第三区:棄権は少ない。ビラが多い。・・・
第四区:棄権は少ない。
第五区:投票者が多い。
第六区:投票者が多い。
第七区:熱意が少ない。
第八区:熱意が少ない。
第九区:ドルオー区役所に大勢の選挙人が集まっている。
第一〇区:投票に熱心である。・・・
第一一区:ダングレーム街に人出が多い。
第一二区:熱意が少ない。
第一三区:棄権は少ない。
第一四区:区役所に大勢集まる。
第一五区:区役所に大勢集まる。
第一六区:現在の市当局者に反対の候補者がいない。熱意が少ない。
第一七区:すべての小地区に選挙人が大勢集まっている。・・・
第一八区:プランキ。
第一九区:ウーデ。
第二〇区:プランキ、ベルジュレ、フルーランス、ランヴィエ。すべて平穏である。」
*
ブルジョワがこの選挙実施の中心的な存在。
*
候補者擁立分類
(1)ブルジョワ団体(妥協派と呼ばれ、ヴェルサイユにもコミューン側にも関係を持つ。分権主義をかざしコミューンの政治的プログラムにも十分対応する理由を持つ)。
①「パリの諸権利の共和合同同盟」:コミュ-ンの活動が続く期間ずっと指導的役割を果たす。
②「共和同盟」:唯一・分割不可能な共和国を目指す。
③「和解」:選挙候補者クレマンソー、ヴィクトル・コンシデラン、ジュール・クラルティ、ロシュフォールを送る。
④「ヨーロッパ均衡」。
*
(2)クラブ。
①「医学校クラブ」:候補者レヴィ、ロジュアール、ヴァルランなどを立てる。
②「パリ二十区委員会」:有名なマニフェストを出す。起源としてはプルードン主義に立脚するが、実際にはブランキスト、ジャコバン派、インターナショナル、中央委員会メンバーも擁す。ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルイリエ、ジュール・ヴァレスの他に88名の候補を全区に立て、殆どを当選させる。
③「インターナショナル・パリ地区連合委員会」。
④「労働者組合連合局」。
*
(3)戦闘的な新聞。
①ユージェーヌ・ヴェルメシュの「ペール・デュシェーヌ」:そのリストは全区のトップにプランキを挙げる。
*
派別分類
①保守派:
現職区長・助役、ロシャール、ティアール、ルフェーヴル、ルロワ、マルモンタなど約15名(議会開始後殆ど辞職)。
②プランキストとジャコバン主義者を含む超革命派:
モルティエ、プロト、ウード、フェレ、プランキストのトリドン、デュヴァルなど約20名。
③ジャコバン派:
ブリュネル、ドゥレクリューズ、フォルテュネ、C・デュポン、デカン、ガンボン、グルーセら約40名(ドゥレクリュース、フェリックス・ピアが指導的位置)。
④インターナショナル派:
アシー、アヴリアル、ベスレー、シャレン、クレマンス、クレマン、ドゥリュール、デュヴァル(ブランキスト)、フランケル、ジェラルダン、ランジュヴァン、ルフランセ、マロン、パンディ、ティズ、ヴァイアン、ヴァルランで約15名。
*
[選挙区別]
第1区(ルーヴル)アダム、ロシャール、メリーヌ、バレ。
第2区(プルス)プレレ、ティアール、シェロン、ロワゾー。
第3区(タンブル)ドゥメ、アルノー、パンディ、ミュラ、デュポン。
第4区(市庁舎)ルフランセ、アルテュール・アルノー、クレマンス、アムールー、ジェラルダン。
第5区(パンテオン)ジュールド、レジェール、トリドン、プランシェ、ルドロワ。
第6区(リュクサンプール)ルロワ、グーピル、ロピネ、ペスレー、ヴァルラン。
第7区(パレ・プールボン)パリゼル、ルフェーヴル、ウルベン、プリュネル。
第8区(エリゼ)ラウル・リゴー、ヴァイアン、アルテュール・アルヌー、アリックス。
第9区(オペラ)ランク、U・パラン、デマレ、E・フェリー、ナスト。
第10区(アンクロ・サン・ローラン)フェリックス・ピア、アンリ・フォルテュネ、ガンボン、シャンピー、バピック、ラストゥール。
第11区(ポバンクール)アシー、アヴリアル、ドゥレクリューズ、モルティエ、ウード、プロト、ヴェルデュール。
第12区(ルイイ)ヴァルラン、フリュノー、ジュレーム、ティズ。
第13区(ゴグラン)レオ・メイエ、デュヴァル、シャルドン、フランケル。
第14区(オヴセルヴァトワール)ピリオレ、マルトゥレ、デカン。
第15区(ヴォージラール)クレマン、J・ヴァレス、ランジュヴァン。
第16区(パシー)マルモンタン、ド・プーティエ。
第17区(バティニョル・モンソー)ヴァルラン、クレマン、ジェテルダン、シャレン、マロン。
第18区(ビュット・モンマルトル)プランキ、ニース、ドゥリュール、クレマン、フェレ、ヴェルモレル、P・グルーセ。
第19区(ビュット・ショーモン)ウーデ、ビュジェ、ドゥレクリューズ、オスタン、J・ミオ。
第20区(メニルモンタン)ランヴィエ、ベルジュレ、フルーランス、プランキ。
*
ブルジョア的各区で選ばれた20人以上の大中ブルジョアジーは、革命家や社会主義者が優勢の議会への参加を拒否しコミューンを離れる(3月末と4月初)。4月16日補欠選挙で、新議員16人が選ばれる(うち6人が労働者)。大中ブルジョアジーが辞任した後、コミューンは、プロレタリア革命家と小ブルジョア民主主義者のブロックになる。
*
中央委員会は大部分の地区で多数の候補者を立てるが議員12名を得たのみ。ベルジュレ、ランヴィエ、ビリオレー、フォルチュネ、バピック、ウード、ジュールド、プランシェ、プリュネル、デュポン、モルチエ、ジョルジュ・アルノー。
*
労働者階級の定義を職人・小工業にまで拡大すれば、コミューン議員25名が労働者階級と関係がある。
*
有名な知識人代表:
画家ギュスターヴ・クールベ、作家ジュール・ヴァレス、革命詩人ウジェーヌ・ポティエ、ジャン・パティスト・クレマン、医者・技師エドワール・ヴァイヤン、歴史家・評論家オーギュスト・ヴェルモレルとギュスターヴ・トリドン、人類学者ギュスターヴ・フルーランスなど。
*
コミューン内革命的諸党派間の不一致。
政治の優位を主張するジャコバン派およびプランキ派の潮流と、経済の優位を主張するブルードン的自由連合派の潮流が対立。前者は多数派を形成し、後者は少数派となる。
*
・ル・クルーゾ、「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士の閲兵式。政府軍との衝突。コミューン宣言。~28日。
運動の先頭に立つのは、市長の労働者デュメ。23日、3千人の集会がヴェルサイユ政府不信任を表明し、「あらゆる誠実なフランス人が、コミューンの独立をめざしているパリを支持するように」呼び掛け。27日、赤旗を掲げて行進する労働者デモ隊が、市役所を占領した政府軍に追い払われる。
*
・アルジュリア。国民軍兵士、知事に対し、自治体支配を国民軍に移譲せよと要求。知事は拒絶。知事退職と国民軍再編を要求する集会。フランス軍諸部隊、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を封鎖。
*
26日付けコミューン「官報」、
「市民諸君、アルジェリアの代表者たちは、彼らを選んだ人々の名において、パリ・コミューンに対する絶対的な同意を表明している。全アルジェリアがコミューンの自由を要求する。軍隊と行政機関という二重の中央集権によって四〇年にわたって圧迫されてきた植民地は、久しい以前から、コミューンの完全な確立が植民地の自由と繁栄を実現する唯一の方法であることを理解してきた・・・」との声明発表。
*
・ベルリン(ラサール派の牙城)。全ドイツ労働者同盟べルリン組織の集会(1千人参加)は、パリその他の大都市の社会革命を、「健康な勤労人民の、退廃的ブルジョアジーにたいする」蜂起として歓迎し、「・・・この革命の勝利によって、ヨーロッパに自由、平等、友愛、平和の樹立を」期待すると声明。
*
3月27日
・仏、26~27日の夜半、国民軍中央委員会、1849年選拳法を遵守すると決定。これによると、選挙民の1/8の賛成投票があれば、コミューン議員選出に十分。コミューン選挙の票数の審査。
*
・この日付け「人民の叫び」に発表された全20区共和主義中央委員会の宣言、コミューンの一般的理念を明らかにしようと努める。
*
「全二〇区中央委員会の宣言 パリは、三月一八日の革命によって、国民衛兵の自発的で勇気ある努力によって、パリの自治、すなわちパリの警察力、治安および財政を組織する権利をとり戻した・・・。
われわれが平和的に達成しようと努めている革命とコミューンの思想の勝利を確かなものにするために、その一般的原理を定め、諸君の代理人が実現し擁護すべきプログラムを明文化することが重要である。
家族が社会の萌芽であるように、コミューンはすべての政体の基礎である。
コミューンは自立的(オートノーム)でなければならない。すなわち、それ独自の能力、伝統、欲求に従って自己を統治し自己を管理し、都市における個人のごとく、政治的、国民的、連合的な集団にあって自己の全面的な自由、個性、完全な主権を保持する法人として存在しなければならない。
最も広範な経済的発展、独立、国民的・地域的安全を確保するために、コミューンは国家を構成する他のコミューンの全部あるいはコミューンの連合体と結びつくこと、すなわち連合することができるし、またそうしなければならない。それを決めるものとして、コミューンは人種と言語の類似、地理的状況、主権と相互関係と利害の共通性をもっている。
コミューンの自立性は、市民に自由を、都市に秩序を保証し、全コミューンの連合は、それぞれのコミューンが全コミューンのカを利用することによって、相互に、それぞれのカ、富、販路、資源などを増大させる。
これこそ一二世紀いらい追求され、道徳、法健、科学によって確認され、ようやく一八七一年三月一八日に勝利をおさめたコミューンの思想である。
この思想は、政治力としては、自由および人民主権と両立しうる唯一のものである共和政を内包する。
話すこと、書くこと、集会を開くこと、団結することの完全な自由。
個人の尊重と個人の思想の不可侵。
常に自己の管理者であり、たえず召集され、表明されることの可能な普通選挙の至上権。
すべての官吏と司法官に適用される選挙の原理。
代理人の貴任、およびその結果として、代理人を常に解任できること。
強制委任、すなわち代理人の権力と任務を明確に定め制限した上での委任。
バリに関しては、この委任は、以下のように規定されうる---
各地区の工業および商業の状況に応じた都市の区画のすみやかな再組織。
全有権者から成る国民衛兵の自立性、全指揮官および参謀本部の任命、三月一八日革命の勝利をもたらした中央委員会が代表する市民的・連合的組織の保持。
警視庁の廃止。コミューンの直接命令の下に置かれる国民衛兵が実施する都市の巡視。
パリについては、市民の自由にとって危険であり、社会経済にとって負担になる常備軍の廃止。
一般的な支出および公共事業の分担部分は別として、パリ市にその予算をすべて自由に処理することを許し、かつ納税者の負担額を法に従い公正に、受けとる便益に応じて割り当てる財政組織。
宗教、劇場、出版物を援助するあらゆる助成金の廃止。
包括的・職業的・非宗教的教育の普及。子供の信仰の自由、利害、諸権利と、家父の自由と諸権利との調整。
広範な調査を即時開始すること。それによって最近フランスを襲った災難において公人に課せられる責任を明らかにし、市の財政、商業、工業などの状態、市が自由にできる資本および諸力、市が使用できる資源を正確に知り、延滞金の支払と信用の再建に必要な、全体的で和解的な清算の資料を提供する。
失業や破産を含む、あらゆる社会的災亨に対するコミューンの保証制度の組織。
貸金制度や恐るべき貧困状態を永遠に解決するため、また流血を伴なう要求とその致命的な結果である内戦の再来を永遠に避けるために、資本、労働用具、販路、信用などを生産者に提供する最も適当な手段を絶えず、熱心に探求すること。
以上が、われわれがあたえる委託であり、また、市民諸君、諸君が選出する議員にあたえることを希望する委託の内容である・・・
全二〇区委員会代表、ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルーリ工、ジュール・ヴアレス」
*
・マルセイユのコミューン。ガストン・クレミューが運動の中心。自然消滅。
*
27日、群衆約1千の示威運動、県庁を包囲、知事・秘書オリヴィエ将軍を捕縛。ガストン・クレミューが、パリを守れ、パリ政府こそ唯一の正当な政府であると叫び、群衆の喝釆を博す。
クレミュー外5名をからなる委員会が組織され、市会および国民衛兵クラブから各3名の代表がこれに参加し、マルセイユの全権力を掌握。軍隊は撤退し、全市街が完全に民衆の手に帰すが、委員たちは、責任の重大さに恐怖し、それ以上の行動に出る勇気はなく、なかには姿を隠して出てこない者も。躊躇し動揺している間に、大衆の情熱は冷め、運動は自然消滅。
*
・トゥールーズ、政府軍、市役所・県庁を占拠。国民軍兵士は撤退。コミューン崩壊。
*
・ヴェルサイユ。国民議会はパリ・コミューン選挙を無効と宜言。
*
・早朝、ヴェルサイユ軍第109連隊とガリフェ将軍指揮下騎馬大隊、パリ南方のプティ・ビセートル、シャティオン、ソーの周辺をパトロール。意外にも連盟兵はなく、僅かな騎兵で保塁に入る。しかし、連盟軍夜襲を恐れ、ティエールがヴェルサイユに戻るよう命令。
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・アルジェリア。蜂起アルジェリア人に、宗教団体「ラフマニイア会会員」(一種の秘密抵抗団体)も参加。フランスの植民者たちは、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を撤退。フランス軍はこの都市周辺のアルジェリア人村落を焼払う。
to be continued
・仏、パリコミューン評議会選挙。
485,566中225,000投票(485,569中229,167という数値もある)、86評議員中労働者26、国民衛兵中央委員会は候補者推薦せず。ブランキ派9、インター派17、インター派に近い社会主義者11。穏健共和派15、急進共和派6。
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ブルジョア地区でも、民衆地区より熱意に劣るが、多くの投票が行なわれる。
選挙は、ともかく「合法的」権力の代表者である区長の同意を得ており正規のものとされる。
ブルジョア地区ではパリ市議会を選出する為に投票し、民衆地区では、保守的国民議会・裏切者政府に対抗する共和国新政府を合法的なものにする為に投票する。
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「人民の叫び」(27日付)が伝える26日午後11時のパリの表情。
「選挙各区の一般的表情(午後11時)
第一区:投票に対する熱意が少ない。現在の市当局者の名前のみが壁に張り出されている。・・・
第二区:サン=ドニ地区。選挙人が大勢集まっている。
第三区:棄権は少ない。ビラが多い。・・・
第四区:棄権は少ない。
第五区:投票者が多い。
第六区:投票者が多い。
第七区:熱意が少ない。
第八区:熱意が少ない。
第九区:ドルオー区役所に大勢の選挙人が集まっている。
第一〇区:投票に熱心である。・・・
第一一区:ダングレーム街に人出が多い。
第一二区:熱意が少ない。
第一三区:棄権は少ない。
第一四区:区役所に大勢集まる。
第一五区:区役所に大勢集まる。
第一六区:現在の市当局者に反対の候補者がいない。熱意が少ない。
第一七区:すべての小地区に選挙人が大勢集まっている。・・・
第一八区:プランキ。
第一九区:ウーデ。
第二〇区:プランキ、ベルジュレ、フルーランス、ランヴィエ。すべて平穏である。」
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ブルジョワがこの選挙実施の中心的な存在。
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候補者擁立分類
(1)ブルジョワ団体(妥協派と呼ばれ、ヴェルサイユにもコミューン側にも関係を持つ。分権主義をかざしコミューンの政治的プログラムにも十分対応する理由を持つ)。
①「パリの諸権利の共和合同同盟」:コミュ-ンの活動が続く期間ずっと指導的役割を果たす。
②「共和同盟」:唯一・分割不可能な共和国を目指す。
③「和解」:選挙候補者クレマンソー、ヴィクトル・コンシデラン、ジュール・クラルティ、ロシュフォールを送る。
④「ヨーロッパ均衡」。
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(2)クラブ。
①「医学校クラブ」:候補者レヴィ、ロジュアール、ヴァルランなどを立てる。
②「パリ二十区委員会」:有名なマニフェストを出す。起源としてはプルードン主義に立脚するが、実際にはブランキスト、ジャコバン派、インターナショナル、中央委員会メンバーも擁す。ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルイリエ、ジュール・ヴァレスの他に88名の候補を全区に立て、殆どを当選させる。
③「インターナショナル・パリ地区連合委員会」。
④「労働者組合連合局」。
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(3)戦闘的な新聞。
①ユージェーヌ・ヴェルメシュの「ペール・デュシェーヌ」:そのリストは全区のトップにプランキを挙げる。
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派別分類
①保守派:
現職区長・助役、ロシャール、ティアール、ルフェーヴル、ルロワ、マルモンタなど約15名(議会開始後殆ど辞職)。
②プランキストとジャコバン主義者を含む超革命派:
モルティエ、プロト、ウード、フェレ、プランキストのトリドン、デュヴァルなど約20名。
③ジャコバン派:
ブリュネル、ドゥレクリューズ、フォルテュネ、C・デュポン、デカン、ガンボン、グルーセら約40名(ドゥレクリュース、フェリックス・ピアが指導的位置)。
④インターナショナル派:
アシー、アヴリアル、ベスレー、シャレン、クレマンス、クレマン、ドゥリュール、デュヴァル(ブランキスト)、フランケル、ジェラルダン、ランジュヴァン、ルフランセ、マロン、パンディ、ティズ、ヴァイアン、ヴァルランで約15名。
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[選挙区別]
第1区(ルーヴル)アダム、ロシャール、メリーヌ、バレ。
第2区(プルス)プレレ、ティアール、シェロン、ロワゾー。
第3区(タンブル)ドゥメ、アルノー、パンディ、ミュラ、デュポン。
第4区(市庁舎)ルフランセ、アルテュール・アルノー、クレマンス、アムールー、ジェラルダン。
第5区(パンテオン)ジュールド、レジェール、トリドン、プランシェ、ルドロワ。
第6区(リュクサンプール)ルロワ、グーピル、ロピネ、ペスレー、ヴァルラン。
第7区(パレ・プールボン)パリゼル、ルフェーヴル、ウルベン、プリュネル。
第8区(エリゼ)ラウル・リゴー、ヴァイアン、アルテュール・アルヌー、アリックス。
第9区(オペラ)ランク、U・パラン、デマレ、E・フェリー、ナスト。
第10区(アンクロ・サン・ローラン)フェリックス・ピア、アンリ・フォルテュネ、ガンボン、シャンピー、バピック、ラストゥール。
第11区(ポバンクール)アシー、アヴリアル、ドゥレクリューズ、モルティエ、ウード、プロト、ヴェルデュール。
第12区(ルイイ)ヴァルラン、フリュノー、ジュレーム、ティズ。
第13区(ゴグラン)レオ・メイエ、デュヴァル、シャルドン、フランケル。
第14区(オヴセルヴァトワール)ピリオレ、マルトゥレ、デカン。
第15区(ヴォージラール)クレマン、J・ヴァレス、ランジュヴァン。
第16区(パシー)マルモンタン、ド・プーティエ。
第17区(バティニョル・モンソー)ヴァルラン、クレマン、ジェテルダン、シャレン、マロン。
第18区(ビュット・モンマルトル)プランキ、ニース、ドゥリュール、クレマン、フェレ、ヴェルモレル、P・グルーセ。
第19区(ビュット・ショーモン)ウーデ、ビュジェ、ドゥレクリューズ、オスタン、J・ミオ。
第20区(メニルモンタン)ランヴィエ、ベルジュレ、フルーランス、プランキ。
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ブルジョア的各区で選ばれた20人以上の大中ブルジョアジーは、革命家や社会主義者が優勢の議会への参加を拒否しコミューンを離れる(3月末と4月初)。4月16日補欠選挙で、新議員16人が選ばれる(うち6人が労働者)。大中ブルジョアジーが辞任した後、コミューンは、プロレタリア革命家と小ブルジョア民主主義者のブロックになる。
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中央委員会は大部分の地区で多数の候補者を立てるが議員12名を得たのみ。ベルジュレ、ランヴィエ、ビリオレー、フォルチュネ、バピック、ウード、ジュールド、プランシェ、プリュネル、デュポン、モルチエ、ジョルジュ・アルノー。
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労働者階級の定義を職人・小工業にまで拡大すれば、コミューン議員25名が労働者階級と関係がある。
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有名な知識人代表:
画家ギュスターヴ・クールベ、作家ジュール・ヴァレス、革命詩人ウジェーヌ・ポティエ、ジャン・パティスト・クレマン、医者・技師エドワール・ヴァイヤン、歴史家・評論家オーギュスト・ヴェルモレルとギュスターヴ・トリドン、人類学者ギュスターヴ・フルーランスなど。
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コミューン内革命的諸党派間の不一致。
政治の優位を主張するジャコバン派およびプランキ派の潮流と、経済の優位を主張するブルードン的自由連合派の潮流が対立。前者は多数派を形成し、後者は少数派となる。
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・ル・クルーゾ、「コミューン万歳!」のスローガンの下に、国民軍兵士の閲兵式。政府軍との衝突。コミューン宣言。~28日。
運動の先頭に立つのは、市長の労働者デュメ。23日、3千人の集会がヴェルサイユ政府不信任を表明し、「あらゆる誠実なフランス人が、コミューンの独立をめざしているパリを支持するように」呼び掛け。27日、赤旗を掲げて行進する労働者デモ隊が、市役所を占領した政府軍に追い払われる。
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・アルジュリア。国民軍兵士、知事に対し、自治体支配を国民軍に移譲せよと要求。知事は拒絶。知事退職と国民軍再編を要求する集会。フランス軍諸部隊、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を封鎖。
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26日付けコミューン「官報」、
「市民諸君、アルジェリアの代表者たちは、彼らを選んだ人々の名において、パリ・コミューンに対する絶対的な同意を表明している。全アルジェリアがコミューンの自由を要求する。軍隊と行政機関という二重の中央集権によって四〇年にわたって圧迫されてきた植民地は、久しい以前から、コミューンの完全な確立が植民地の自由と繁栄を実現する唯一の方法であることを理解してきた・・・」との声明発表。
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・ベルリン(ラサール派の牙城)。全ドイツ労働者同盟べルリン組織の集会(1千人参加)は、パリその他の大都市の社会革命を、「健康な勤労人民の、退廃的ブルジョアジーにたいする」蜂起として歓迎し、「・・・この革命の勝利によって、ヨーロッパに自由、平等、友愛、平和の樹立を」期待すると声明。
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3月27日
・仏、26~27日の夜半、国民軍中央委員会、1849年選拳法を遵守すると決定。これによると、選挙民の1/8の賛成投票があれば、コミューン議員選出に十分。コミューン選挙の票数の審査。
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・この日付け「人民の叫び」に発表された全20区共和主義中央委員会の宣言、コミューンの一般的理念を明らかにしようと努める。
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「全二〇区中央委員会の宣言 パリは、三月一八日の革命によって、国民衛兵の自発的で勇気ある努力によって、パリの自治、すなわちパリの警察力、治安および財政を組織する権利をとり戻した・・・。
われわれが平和的に達成しようと努めている革命とコミューンの思想の勝利を確かなものにするために、その一般的原理を定め、諸君の代理人が実現し擁護すべきプログラムを明文化することが重要である。
家族が社会の萌芽であるように、コミューンはすべての政体の基礎である。
コミューンは自立的(オートノーム)でなければならない。すなわち、それ独自の能力、伝統、欲求に従って自己を統治し自己を管理し、都市における個人のごとく、政治的、国民的、連合的な集団にあって自己の全面的な自由、個性、完全な主権を保持する法人として存在しなければならない。
最も広範な経済的発展、独立、国民的・地域的安全を確保するために、コミューンは国家を構成する他のコミューンの全部あるいはコミューンの連合体と結びつくこと、すなわち連合することができるし、またそうしなければならない。それを決めるものとして、コミューンは人種と言語の類似、地理的状況、主権と相互関係と利害の共通性をもっている。
コミューンの自立性は、市民に自由を、都市に秩序を保証し、全コミューンの連合は、それぞれのコミューンが全コミューンのカを利用することによって、相互に、それぞれのカ、富、販路、資源などを増大させる。
これこそ一二世紀いらい追求され、道徳、法健、科学によって確認され、ようやく一八七一年三月一八日に勝利をおさめたコミューンの思想である。
この思想は、政治力としては、自由および人民主権と両立しうる唯一のものである共和政を内包する。
話すこと、書くこと、集会を開くこと、団結することの完全な自由。
個人の尊重と個人の思想の不可侵。
常に自己の管理者であり、たえず召集され、表明されることの可能な普通選挙の至上権。
すべての官吏と司法官に適用される選挙の原理。
代理人の貴任、およびその結果として、代理人を常に解任できること。
強制委任、すなわち代理人の権力と任務を明確に定め制限した上での委任。
バリに関しては、この委任は、以下のように規定されうる---
各地区の工業および商業の状況に応じた都市の区画のすみやかな再組織。
全有権者から成る国民衛兵の自立性、全指揮官および参謀本部の任命、三月一八日革命の勝利をもたらした中央委員会が代表する市民的・連合的組織の保持。
警視庁の廃止。コミューンの直接命令の下に置かれる国民衛兵が実施する都市の巡視。
パリについては、市民の自由にとって危険であり、社会経済にとって負担になる常備軍の廃止。
一般的な支出および公共事業の分担部分は別として、パリ市にその予算をすべて自由に処理することを許し、かつ納税者の負担額を法に従い公正に、受けとる便益に応じて割り当てる財政組織。
宗教、劇場、出版物を援助するあらゆる助成金の廃止。
包括的・職業的・非宗教的教育の普及。子供の信仰の自由、利害、諸権利と、家父の自由と諸権利との調整。
広範な調査を即時開始すること。それによって最近フランスを襲った災難において公人に課せられる責任を明らかにし、市の財政、商業、工業などの状態、市が自由にできる資本および諸力、市が使用できる資源を正確に知り、延滞金の支払と信用の再建に必要な、全体的で和解的な清算の資料を提供する。
失業や破産を含む、あらゆる社会的災亨に対するコミューンの保証制度の組織。
貸金制度や恐るべき貧困状態を永遠に解決するため、また流血を伴なう要求とその致命的な結果である内戦の再来を永遠に避けるために、資本、労働用具、販路、信用などを生産者に提供する最も適当な手段を絶えず、熱心に探求すること。
以上が、われわれがあたえる委託であり、また、市民諸君、諸君が選出する議員にあたえることを希望する委託の内容である・・・
全二〇区委員会代表、ピエール・ドニ、デュパ、ルフランセ、エドゥアール・ルーリ工、ジュール・ヴアレス」
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・マルセイユのコミューン。ガストン・クレミューが運動の中心。自然消滅。
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27日、群衆約1千の示威運動、県庁を包囲、知事・秘書オリヴィエ将軍を捕縛。ガストン・クレミューが、パリを守れ、パリ政府こそ唯一の正当な政府であると叫び、群衆の喝釆を博す。
クレミュー外5名をからなる委員会が組織され、市会および国民衛兵クラブから各3名の代表がこれに参加し、マルセイユの全権力を掌握。軍隊は撤退し、全市街が完全に民衆の手に帰すが、委員たちは、責任の重大さに恐怖し、それ以上の行動に出る勇気はなく、なかには姿を隠して出てこない者も。躊躇し動揺している間に、大衆の情熱は冷め、運動は自然消滅。
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・トゥールーズ、政府軍、市役所・県庁を占拠。国民軍兵士は撤退。コミューン崩壊。
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・ヴェルサイユ。国民議会はパリ・コミューン選挙を無効と宜言。
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・早朝、ヴェルサイユ軍第109連隊とガリフェ将軍指揮下騎馬大隊、パリ南方のプティ・ビセートル、シャティオン、ソーの周辺をパトロール。意外にも連盟兵はなく、僅かな騎兵で保塁に入る。しかし、連盟軍夜襲を恐れ、ティエールがヴェルサイユに戻るよう命令。
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・アルジェリア。蜂起アルジェリア人に、宗教団体「ラフマニイア会会員」(一種の秘密抵抗団体)も参加。フランスの植民者たちは、ボルジ・プ・アレリジ堡塁を撤退。フランス軍はこの都市周辺のアルジェリア人村落を焼払う。
to be continued
2009年1月27日火曜日
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