2009年1月31日土曜日

明治17(1884)年10月1~11日 秩父(10)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 秩父困民党、岩殿沢鉱泉で非合法集会

■明治17(1884)年秩父(10)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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10月:蜂起1ヶ月前
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10月(日付なし)
・宮城県柴田郡に借金党蜂起
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・景山英子、上京。「自由燈」記者坂崎斌を頼る。ミッションスクール新栄女学校(築地新栄町、後の女子学院)入学(11月頃~翌18年4、5月)。

*・鹿鳴館、開館。
この月より毎日曜日、日本の高官夫人たちにダンス練習会が始る。外務卿井上馨は、殆ど皆勤で婦人たちの練習につきあう。
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・民権結社、関東6県で303社、東北6県で120社となる。
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・この頃、加波山事件の逃亡者、八王子に潜入。4日、加波山事件により、二子川向こうより先に巡査・憲兵による立番が置かれる(橘樹郡溝ノロ村の「上田日記」)。
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10月2日
清仏戦争
西太后、敵は船堅砲利であるが、多数の舢板船(沿岸河川用小型砲艦)で四方から一斉砲撃すれば勝利を得ようと述べる。三元里に始まる「以民以夷」(義民によるゲリラ戦)戦略。12日、朝廷、基隆を攻撃するフランス軍に対し、台湾の富戸・豪士が「忠義の士」を集めて団勇(義勇軍)を組織し、正規軍と協力してフランス軍を撃退せよと命令。
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9月6日開戦。10月以降、クールベ提督率いるフランス海軍は基隆・澎湖島の占領、台湾の淡水・浙江の鎮海の攻撃、台湾・寧波の封鎖などを行う。陸軍もトンキン~広西ルートの要衝ランソンをへて国境の鎮南関まで占領。 
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10月2日
・東秩父坂本村、自由党員福島敬三のもとに門松庄右衛門と共に代用教員新井周三郎(のち甲大隊長)が訪問、門松他農民13名の自由党入党志願書の保証人を依頼。福島は文字もかけない農民には党員資格なしと拒否するが、新井の理を尽くした説得で判を押す。
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福島の父は大地主・戸長、自分も戸長役場筆生として村政を牛耳る。
福島は、秩父蜂起には参加せず、児玉町警察と通じる。長い審理ののち無罪放免。旦那自由党員の限界。自由党の体質を変えざるを得ない状況にあるということは、同時に自由党自壊の始りでもある。
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10月2日 
・南多摩郡下壱分方村の被差別部落民の自由党員山口重兵衛・山上作太郎(卓樹)・柏木豊次郎・奥田兵助ら,浅川の川原で野外運動会を行ない、鴻武館道場の発会式を祝う。
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10月2日
・中溝昌弘(私立銀行・金貸会社との直接交渉を担当)の細野喜代四郎宛書簡。
諸銀行会社が回答案の提出を先延ばしする姿勢に「不快」。八王子銀行回答案が年賦返済を認める範囲を狭くし、それが他の銀行会社に与える影響を憂慮。
また、東海貯蓄銀行株主総会で、「蓄財専門連中」の「田村・指田抔(など)」が会社規則通りの処置を主張し、八王子銀行と同様に「猶予年賦」を認めることに「不承諾」を決議し、中溝の詰問に対して成内頭取が、役員の任期1年を越えた約束はできないと述べたこと、等を細野に知らせて批判。
因循していては負債主が不幸に陥るばかり、と負債民(困民)側にたった問題解決を模索。
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○石阪昌孝・中溝昌弘・薄井盛恭ら名望家層として仲裁に関与する「天保の老人」たちに共通の不満や憤り:
彼らは幕末から、地域社会の平和や安穏の維持に責任感をもつ保護者として振る舞い、地域の人々の困難の除去を責務と考え、その責務に対する思い入れが強い。
困民党の徒党行動は容認しないが、困民の状況には同情的で、困難の原因を諸銀行会社に見て、原因の除去を求める立場。
石阪・中溝・薄井らの幕末維新期の同志で、リーダー的存在の小野路村(町田市)小島韶斎も、困民への同情と債主非難を日記に書く。
また、この頃の北多摩郡長砂川源右衛門(砂川村、現立川市、明治14年1月結成の多摩で最初の政治結社自治改進党社長)も、東海貯蓄銀行成内頴一郎に対し「不都合ノ営業ヲセズモ妻子扶助ハ差支有之間敷ニ付已来廃業」しろと「厳談」に及ぶ(薄井盛恭の原豊穣南多摩郡長宛書簡、1884年10月24日付)。
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聯合村戸長の立場にある仲裁人(細野喜代四郎・長谷川彦八ら):
末端とはいえ官吏が私的な契約に介入することの論理的な正当性をついに見つけられず、自らの立場は曖昧。
諸銀行会社役員には、契約履行を会社規則に則り強行するのは当然という論理をもつ者があり、政府もそれを保証するとの確信もある。地域社会では少数派だが、時代との一体感は強い。
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自由民権家:
経済的自由、営業の自由、契約の絶対性、財産所有権などに親和的で、中溝昌弘・薄井盛恭らのように同情を機軸に対応できず、銀行側を不誠実・不快なものと非難することも不可能。夫々の地域社会における位置、銀行会社との関係などに引きずられて対応を選択する、論理と状況の板挟み状況。
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石阪昌孝(中溝・薄井ら名望家と発想を共有し、かつ自由民権家):
論理は明確ではないが、地域自由党の最高リーダーとして、共融会社や甲子会社への影響力を行使。また中央自由党幹事で昌孝の同志佐藤貞幹に仲裁活動を要請し、「自由党員」としての関与が目立つ。
昌孝は、仲裁人リーダーで友人の薄井盛恭から、「石坂抔ハ兎角激論ノミ」主張すると見られている(1884年8月29日付、原豊穣南多摩郡長宛書簡)。
数年後、石阪昌孝は、長年の同志・北多摩郡野崎村吉野泰三と多摩を二分する政治的対立に陥るが、そのとき昌孝は吉野派から、「加波山暴挙ニ続テ石坂ハ八王子地方ニ於テ陰ニ貧乏党を煽動ス」「此貧乏党沈静ノ為メ神奈川県知事沖守固ハ石坂をシテ沈静ニ尽力セシメ褒状及物品ヲ賜フ、人皆眉ヲヒソム」と非難される。この文書は、怪文書的なもので信用度は低いが、昌孝の困民よりの姿勢を表すともいえる。
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結局、仲裁活動の成果としての銀行側の回答案(負債額100円以内のものに限り元金3ヶ年賦)では、鎮静化に至らず。
仲裁人が困民党の総代的な役割を担った津久井郡と、細野喜代四郎の管轄下の高ケ坂村・金森村などの困民党は、回答案に沿っての和解交渉に入るが、圧倒的多数の困民集団は、回答案を不満として武相7郡におよぶ大困民党組織「武相困民党」を結成(秩父困民党蜂起潰滅後の11月19日)、嘆願により行政を巻き込み、自力で問題解決を図ろうとする。仲裁団の影響力は10月を境に後退。石阪昌孝も自由党指導者としての活動に追われる時を迎える。
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10月2日
・海南親睦会結成
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10月3日
・下村湖人、誕生。
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10月4日
・秩父困民党、高利貸しとの個別交渉始まる。
鋭い論理で相手を追詰める教員あがりの新井周三郎、それを苦みばしった笑いで見つめる加藤織平(今も古老の語り草)。ひとりの高利貸しも崩せず
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風布村大野福次郎は、隣村西ノ入村の新井周三郎の組に属し、井戸村の高利貸磯辺浜五郎の邸に押しかける。浜五郎からは、風布の宮下嘉蔵が9円60銭、中川庄蔵が17円を借りていたと云う。
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風布村農民の借金額。
福次郎の記録だけをみても、24人で2,144円、1人平均90円となっている。1戸当りの所有地価は65円であり、家屋敷田畑全て抵当に入れてなお足らぬ額と、村を挙げての身代限りというべき情況。よって、要求も「43ヶ年間据置き、15ヶ年賦」、棒引きに等しいものとなる。
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10月5日
・「自由新聞」、「海外着手」を訴える。
「その形跡のたまたま併呑蚕食に類するあるも、また何ぞこれを意とするに足らんや」と強調。 
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10月10日
・秩父困民党、岩殿沢鉱泉での非合法集会。中堅幹部以上と各村代表に拡大幹部会議。
高利貸との交渉(合法活動)限界となり、再度の警察署への請願を決定(一度も行われず、内部的には一斉蜂起による強願へ方向転換が決議?)。
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風布村福次郎は、「小鹿野の岩殿鉱泉にあつまれ」との指示ありでかけると、数十名の農民が集まっているが、顔見知りは犬木寿作・落合寅市ぐらいで、あとは新顔ばかりと云う。組織活動の進展を示す
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高利貸との個別交渉の総括的検討を行い、激しい個別交渉によっても、1人の高利貸をも崩せなかったことの確認と再度警察署への請願を決める。
●困民党指導部の狙いは、激しい個別交渉後の農民たちの闘志の方向性の測定にある。それ故、再度請願の会議決定は実行されず、2日後(12日)の最高幹部会議では「一斉蜂起」方針が打ち出される。再度請願は、警察権力への撹乱戦術と推測する見方もあり。
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10月10日
・高ヶ坂村市川四郎助、共融会社へ出頭、交渉するも手間取る。夜、市川・矢口は、原町田警察分署山本一智宅を訪問、「困民ノ事情」を報告。11日、市川は、細野に銀行へ書面を出してくれるよう依頼。
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10月11日
・武相自由党会議。広徳館。石阪昌孝ら15名出席。自由党秋季大会(大阪大会)出席人決定。広徳館の維持法も議論。
「・・・党中ニテ費用其七、八分ヲ助力」すると決定(自由党通信事務所の性格を強める)。
出席人は石阪昌孝、佐藤貞幹(都筑郡久保村・自由党幹事)・平野友輔(八王子)・山本与七(高座郡座間村)、鎌田喜三(北多摩郡奈良橋村)など。 
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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to be continued

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