アウトラインは写真の説明をご参照下さい。
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この日、特にアテもなく歩いていたら、結果的に鎌倉五山の4つを参拝したことになったのですが、後でネットで知ったところによると、昭和12年2月に中原中也がこのお寺の境内に引っ越して最晩年をすごしたそうです(この年10月に鎌倉の病院で没)。
前にもちょこっと書いたのですが、「帰郷」という彼の詩が好きです。
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「帰郷」
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする
これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦の低い声もする
あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする
これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦の低い声もする
あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ
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頼朝の鎌倉入りの翌日(治承4年(1180)10月7日)の「吾妻鏡」は:
「先ず鶴岡八幡宮を遙拝し奉り給う。次いで故左典厩(さてんきゅう、頼朝の父、左馬頭義朝)の亀谷の御旧跡を監臨し給う。即ち当所を点じ、御亭を建てらるべきの由、その沙汰有りと雖も、地形広きに非ず。また岡崎平四郎義實、彼の没後を訪い奉らんが為一梵宇を建つ。仍ってその儀を停めらると。 」
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(現代語訳)「まず鶴岡八幡宮を遥拝された。その後左典厩の御旧跡である亀谷に行かれた。その場所を定めて邸宅をお建てになろうとしたものの、土地の形が広くなく、そのうえ岡崎四郎義実が義朝の没後を弔うために寺院を建てていたため、お止めになったという。」
とあります。
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頼朝没後(翌年)、政子の夢に頼朝の父義朝が現れ、今は沼間の館(逗子)に居るが鎌倉の館に戻りたいと言ったので、義朝の別邸を管理していた三浦氏に掛け合い、遺品等を亀ヶ谷の館跡に移し寺を建てたというのが由来だそうです。
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鎌倉の五山といっても、大伽藍のあるデーンとしたお寺は建長寺・円覚寺までですね。でも、ひなびた、ひっそりとしたたたずまいが、いいですね。
このお寺、非公開です。
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(新緑の頃の再訪もご覧下さい)
「鎌倉 寿福寺 北条政子の墓 実朝の墓 虚子の墓」
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寿福寺から源氏山公園に上り、化粧坂に出るルートでの散策記事もあります。
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また、中原中也と小林秀雄が和解した場所として妙本寺があります。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
「★鎌倉インデックス」を作りました。
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(新緑の頃の再訪もご覧下さい)
「鎌倉 寿福寺 北条政子の墓 実朝の墓 虚子の墓」
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寿福寺から源氏山公園に上り、化粧坂に出るルートでの散策記事もあります。
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また、中原中也と小林秀雄が和解した場所として妙本寺があります。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
「★鎌倉インデックス」を作りました。
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