2011年4月20日水曜日

永井荷風年譜(6) 明治31年(1898)満19歳~明治32年(1899)満20歳 広津柳浪の門に入門 落語家の弟子になる 懸賞小説入選

明治31年(1898)満19歳
2月26日
旅行記「上海紀行」(「桐陰会雑誌」)発表。現存する荷風の処女作とされる。
この年から習作を雑誌に発表。
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8月
この時期の荷風について、叔父阪本釤之助は、上海の久一郎宛に「壮吉君には近来殊に音曲に耽けられ且衣服等之意匠俳優者流の如しとの世評あり」云々と報じる(8月2日付)。
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9月
神田三崎町の某女隠居の紹介状をもち、「簾の月」という作品を携えて、牛込矢来町の広津柳浪を訪問、指導を乞う
親友井上唖々が勧め、また荷風自身も柳浪の作風に敬服していた。
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「そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾(スダレ)の月と題せし未定の草稿一篇を蜂へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。
われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕(マレ)にして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩きたまさか家に在れば小説俳句漢詩狂歌の戯に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。
かくて作る所の小説四五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念漸く押へがたくなりければ遂に何人の紹介をも俟たず一日突然広津先生の寓居を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。
先生が矢来町にありし事を知りしは予め電話にて春陽堂に問合せたるによってなり。
余は其頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。今戸心中、黒蜥蜴、河内屋、亀さん等の諸作は余の愛読して措く能はざりしものにして余は当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遙に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。」(「書かでもの記」)
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「「水井は最初からズバ抜けて才能があった。中村(=吉蔵)は学者に向いたろうが、作家としては永井とは較べものにならなかった」と後年父は私に話したことがある・・・」(広津和郎「年月のあしおと」)
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明治32年(1899)満20歳
1月下旬頃
かねてより人情噺をしたいと思っていて、この頃から、落語家六代目(三遊亭)朝寝坊むらくの弟子となる。
三遊亭夢之助と名のり、市内の席亭をめぐり修業を始める。
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「わたくしは朝寝坊むらくといふ噺家の弟子になって一年あまり、毎夜市中諸処の寄席に通つてゐた事があった。
その年正月の下半月(シモハンツキ)、師匠の取席(トリセキ)になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭であった」
寄席の仕事を終えた夜ふけ、若い女の三味線弾きと二人で帰る。「身を摺り寄せながら」歩くうちには、「手を握る」、「顔が接近して互の頬がすれ合ふやうになる」ことがあり、「二人の間に忽ち人情本の場面が其のまゝ演じ出され」たという(随筆「雪の日」昭和19年)
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「酔ひて心の乱るゝま、路傍の小屋に女を引入れ戯れし事あり。女は年の頃十七八にて橘屋橘之助といひし浮れ節寄席芸人の弟子なりき」(「断腸亭日乗」昭和7年4月11日
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4月
外国語学校の第2学年第2学期(1月8日~4月10日)の試験を受けるが、第3学期(4月11日~7月10日)は学年試験も受けず欠席。
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6月
遊ぶ金欲しさに「萬朝報」の懸賞小説に応じて入賞(2回)。
6月14日、「花籠」が「萬朝報」懸賞小説1等に入選。
賞金10円で洲崎遊廓に繰り込み、廊内最大の大店「八幡楼」に登る
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7月松根東洋城(豊次郎)、中山麦圃(吉典)、松下紫人(英夫)、山田三子(麟太郎)ら一高生の俳句同好会「翠風会」の回覧草紙『翠風集』に井上唖々の関係で俳句を寄せる。
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8月
「かたわれ月」が「萬朝報」懸賞小説2等入選。
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九段下の富士本亭で楽屋から顔を出したところ、出入りの車夫の妻に発見されて落語家修業の件が家に知れて禁足となり、以後、落語家として立つことを諦める。
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10月1日
広津柳浪と合作名義「薄衣」が「文芸倶楽部」に掲載。
同日、「夕せみ」が「伽羅文庫」に掲載る。
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初冬
尺八の友、大山吾童の緑でその友人清国人羅臥雲(蘇山人)と知り、この年初冬、羅の紹介で巌谷小波に会い、その主宰する木曜会に入る
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12月10日
外国語学校を第2学年(原級留年)のままで除籍される。
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2011年4月19日火曜日

東京 江戸城 東御苑の桜 遅桜咲く カンザン(関山) フゲンゾウ(普賢象) ギョイコウ(御衣黄) ウコン(鬱金) センリコウ(千里香) イチヨウ(一葉) アズマニシキ(東錦)

今日は、早朝に雨、出勤時にはその雨もやみ、午前中はくもり空、昼頃から晴天になるものの、退勤時は小雨、というヘンなお天気。
それに少し寒い。
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東御苑では、ソメイヨシノが散って、遅桜たちが咲き始めています。
今日(4月19日)の東御苑の桜です。
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▼カンザン(関山)
まだまだ七分咲きくらいでしょうか。


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▼フゲンゾウ(普賢象)
まだ蕾も多い
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▼ギョイコウ(御衣黄)
桜の中でも珍しい黄色味のかかった桜
こちらはピークを過ぎています。

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▼ウコン(鬱金)
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▼センリコウ(千里香)
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▼イチヨウ(一葉)
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▼アズマニシキ(東錦)
こちらはもう終りかけています。
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2011年4月18日月曜日

東京 国立公文書館 特別展「歴史と物語」 4月21日まで

国立公文書館の春の特別展「歴史と物語」に行きました。
それぞれチラ見せだけですが、なかなか見ごたえあります。
昼休み時間では足りないくらいでした。
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「黙翁年表」でも時々、孫々引きさせて戴いている歴史資料がずらりです。
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「大乗院寺社雑事記」の記事は面白い。
また、「大河ドラマ」にあやかってか、徳川二代将軍秀忠が側室の生んだ子(保科正之)を認知できずに養子に出した逸話が何種類かの資料で紹介されている。
(実は、嫉妬深い正室「お江」のせいで、正之の母は側室でもなかったそうだ)


東京 北の丸公園 科学技術館で科学技術映像祭 4月21、22日 「クニマスは生きていた」など

このすぐ後の記事で、国立公文書館の春の特別展「歴史と物語」のご紹介もしますが、公文書館のすぐ近く、北の丸公園の中にある科学技術館で科学技術映像祭というのが開催されるようだ。
4月21日と22日で入場無料
「クニマス」の話など、これもなかなか面白そうだ。
ウィークデイだけれど、公文書館とハシゴすると、いい一日になりそうだ。
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近くの美術館では「岡本太郎」展も開催中だけど、さすがこちらは有料です。

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夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(5の2) 「吾輩は全体の状況に於て東郷閣下に似て居るのみならず、・・・。」

夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(5の2)
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さて、鼠を捕ろうと決意した吾輩であるが、・・・。
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「先達中から日本は露西亜(ロシア)と大戦争をして居るさうだ。
吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓(びいき)である。出来得ぺくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思ふ位である。
かく迄に元気旺盛(わうせい)な吾輩の事であるから鼠の一疋や二疋はとらうとする意志さへあれば、寝て居ても訳なく捕れる。
昔ある人当時有名な禅師に向つて、どうしたら悟れませうと聞いたら、猫が鼠を覘(ねら)ふ様にさしやれと答へたさうだ。猫が鼠をとる様にとは、かくさへすれば外(は)づれつこは御座らぬと云ふ意味である。
女賢(さかし)うしてと云ふ諺はあるが猫賢うして鼠捕り損ふと云ふ格言はまだ無い筈だ。して見れば如何に賢こい吾輩の如きものでも鼠の捕れん筈はあるまい。」
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「是から作戦計画だ。どこで鼠と戦争するかと云へば無論鼠の出る所でなければならぬ。如何に此方(こつち)に便宜な地形だからと云つて一人で待ち構へて居てはてんで戦争にならん。是に於てか鼠の出口を研究する必要が生ずる。どの方面から来るかなと台所の真中に立つて四方を見廻はす。何だか東郷大将の様な心持がする。・・・

鼠と戦争をするのは覚悟の前だから何疋来ても恐くはないが、出てくる方面が明瞭でないのは不都合である。周密なる観察から得た材料を綜合して見ると鼠賊の退出するのには三つの行路がある。・・・」
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「・・・夫にしても三方から攻撃される懸念(けねん)がある。
一口なら片眼でも退治して見せる。二口ならどうにか、かうにか遣つて退(の)ける自信がある。然し三口となると如何に本能的に鼠を捕るぺく予期せらるゝ吾輩も手の付け様がない。・・・

どうしたら好からうと考へて好い智慧が出ない時は、そんな事は起る気遣はないと決めるのが一番安心を得る近道である
又法のつかない者は起らないと考へたくなるものである。・・・

吾輩の場合でも三面攻撃は必ず起らぬと断言すべき相当の論拠はないのであるが、起らぬとする方が安心を得るに便利である。
安心は万物に必要である。吾輩も安心を欲する。因(よ)つて三面攻撃は起らぬと極める。・・・」
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「東郷大将はパルチック艦隊が対馬(つしま)海峡を通るか、津軽海峡へ出るか、或は遠く宗谷海峡を廻るかに就て大に心配されたさうだが、今吾輩が我輩自身の境遇から想像して見て、御困却の段実に御察し申す。
吾輩は全体の状況に於て東郷閣下に似て居るのみならず、此格段なる地位に於でも亦東郷閣下とよく苦心を同じうする者である。」
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■吾輩が猫を捕る「戦争」を日本海海戦に例え、吾輩を東郷大将に擬している。東郷絶対化(のち神格化に至る)への揶揄ともとれる。
東郷神格化は、その後、海軍の派閥闘争(条約派と艦隊派)と海軍の戦略的堕落に繋がってゆくことを考えれば、ここに吾輩の皮肉の先見性が見えるとも言える。
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その(六)に続く
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2011年4月17日日曜日

東京 北の丸公園 もみじの若葉が萌える

北の丸公園のもみじが若葉となって萌え始めました。
4月15日の状況です。



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昭和16年(1941)4月9日~16日 日ソ中立条約調印  野村・ハル交渉正式開始

昭和16年(1941)
4月9日
・満州、金日成部隊29人、ソ連領内南野営を出発。魏拯民と残留抗日聯軍第一路軍生存者捜索。8月29日に戻る。
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4月9日
・陸軍機甲本部設置
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4月9日
・米、トラウト~ウォーカー郵政長官経由、米ハル国務長官に「日米諒解私案(四月九日案=岩畔案)」提出。
ハル国務長官は、この草案(「私人たる米国人および日本人の個人を通じて米国務省に提出せられたる提案」(「極東国際軍事裁判速記録」第107号)について、3日間、国務省の極東問題専門家と共に検討。
「研究をすすめるにつれてれわれは非常に失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった。
・・・私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれど、そのまま受けいれることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もあるという結論を下した。
私は日本との間に幅の広い交渉を開始するいとぐちになるような機会を見逃してほならないと患思った」(ハル「回想録」)。
16日ハル4原則提示に続く。        
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4月9日
・アメリカ・デンマーク、グリーンランド防衛協定調印。
米、グリーンランドの防衛と引換えに基地使用権を得る。
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4月9日
・アメリカ・プロゴルフ協会、ゴルフ名誉殿堂の設立発表。
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4月9日
・イギリス空軍、ベルリンの中心部を爆撃。
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4月10日
・ユーゴスラビア、ザグレブ陥落、クラグイェヴァッツ陥落。
リュブリャナ、イタリアにより陥落。
12日、ベオグラード陥落。        
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4月10日
・クロアチア政府、ドイツ軍迎え入れる。
ユーゴの枢軸派ウスタシャ運動指導者パヴェリチ、クロアチア民族国家の樹立を宣言。
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4月11日
・ハンガリー、政府、ユーゴ永久友好条約無効宣言。ユーゴ攻撃。
ヒトラーは約束に反しハンガリー要求領土バートナート地方を返還せず。
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4月11日
・イギリス海軍マルタ襲撃隊が編成され、枢軸側輸送船団の被害甚大。
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4月11日
・米海軍は西経26度線まで、英軍は35度線までを担当する事になる。
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4月12日
・アメリカ軍、グリーンランドに上陸。
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4月12日
・松岡洋右外相、チャーチル英首相の書簡(独の戦力評価につき注意喚起)をクリップス駐ソ英大使から受領。モスクワ。
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4月13日
日ソ中立条約調印。モスクワ、スターリン・松岡外相。
蒙古人民共和国・満洲帝国の領土保全と不可侵条約調印。
ソ連の独ソ戦準備・日本の南進政策推進。
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7日、松岡外相はモスクワ着後直ちにモロトフと交渉。
松岡が不可侵条約や北樺太買収を提案、モロトフは南樺太・千島などの「失地」回復を伴わない不可侵条約は無意味との立場から中立条約を提案し、北樺太における日本の石油・石炭利権の解消を要求。
9日、松岡は不可侵条約を撤回し、ソ連にも北樺太利権解消要求を撤回させようとするが失敗。
11日の第3次会談でも妥結せず、松岡は日本の最終案が認められなければ帰国するから、スターリソに別れの挨拶をしたいと申し入れる。
その夜、スターリンから連絡あり、12日に松岡・スターリン会談が行なわれ、北樺太利権解消については数ヶ月内に努力するとの松岡・モロトフ書簡交換を行ならとととし、その他の点についても妥協が成立。  
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①日ソ両国の相互の領土保全及び不可侵の尊重。
②日ソいずれか一方が第3国と戦争となった場合、他方は中立を守る。
付属文書で、外蒙古・満州の領土保全について共同声明。
有効期間5年、期間満了の1年前に廃棄通告をしなければ、さらに5年自動的に延長。
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調印式後の宴会でもスターリンは上機嫌で、松岡の乗る列車の発車時間を遅らせ、さらに駅頭に松岡を送りに来て抱擁し、「これで日本は南進できる」と述べる。
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日ソ中立条約は必ずしも松岡外相の創意による功績ではない。
東郷駐ソ大使・建川大使からも日ソ国交回復は既に提案され、昭和15年8月14日、モロトフ外務人民委員は日本提案の中立条約受諾の代りに北樺太利権解消を要求。
当時の駐ソ大使東郷茂徳によれば、ソ連側は重慶政権非援助の日本からの要求に応じる意向を示し、直ぐにも条約成立の運びとなっていたが、松岡人事による帰国命令が出て、条約成立寸前の状況で東郷は帰国。
松岡の手に成る中立条約では、重慶政権非援助の項は消滅し、松岡は閣議諒解の下に北樺太利権解消を意味する松岡・モロトフ交換文書を交している。
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4月13日
・ロンメル軍、トブルクを包囲
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4月13日
・ドイツ軍とイタリア軍、エジプトに侵攻。
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4月14日
・国際会議帝国事務局廃止。
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4月14日
・ユーゴ、独軍に休戦申入れ。
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4月15日
・瓦斯用木炭統制規則公布。
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4月15日
・文部省、「昭和の礼法」を通牒。
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4月15日
・米、ルーズベルト大統領、駐米大使胡適・宋子文に軍用器材貸与を通知
義勇兵許可。クレア・リー・シェンノートの働き。
AVG(アメリカン・ボランティア・グループ);パイロット雇用。
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4月16日
・関東州・南洋群島船舶保護令公布。
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4月16日
・富山県新湊町で大火。漁船30隻と680戸が焼失。
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4月16日
・信濃川発電所の2期工事が落成。
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4月16日
・米、野村・ハル交渉正式開始
ハル国務長官、野村駐米大使に、「4原則」を前提として、民間私案の「日米諒解案」を基礎として予備的交渉開始を提案。
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「そこで私は最近移ったウォードマン・パーク・ホテルの部屋に野村の来訪を求めた。
私は野村に、日米間の問題解決のための非公式の提案を受取ったことを伝え、「大使自身もこの提案に参与しているときいているが」と述べた。
野村はすぐに「あの提案のことは全部自分も知っている。本国政府にはまだ送っていないが、政府もこれには賛成すると思う」といった。
それから二日たって私は、私の部屋で、日米協定の基礎になるべき四つの基本原則を述べたステートメントを手渡した」(ハル「回想録」)。
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ハル国務長官は、4原則の前提の他に、基礎となる民間試案(四月九日案)には、同意できる部分もあるが、修正、拡大、全面削除を必要とする諸条項があることを、野村大便に対して周到に念を押す(ハル「覚書」1941年6月16日の項、「速記録」第107号)。
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○「ハル4原則」
①あらゆる国家の領土保全と主権尊重、
②他国の内政問題に対する不干渉原則、
③通商上の機会均等を含む平等原則、
④平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱。
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野村大使は、この日のハル国務長官との会見を本国に報告。
野村電には、叩き台となる試案が米側から提案されたかのような作為を含み、「4原則」も伝えず、「四月九日案」とは別の「四月十六日案」を請訓。
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野村の請訓電からは、「四月九日案」(岩畔)から2点
①支那事変に関し、「若シモ蒋介石政権ガルーズヴェルト大統領ノ要請ヲ拒否セル場合ニハ米国ハ中国ニ対スル援助ヲ停止スベシ」という条文と、
②太平洋に於ける政治的安定に関して、「日本政府ハ英国ノ東亜ニ対スル是以上ノ政治的侵略ノ為ノ入ロトシテノ香港及ピシンガポールヲ除去スルコトニ対シ米国政府ノ好意的且外交的援助ヲ要請スル」という条文が、
完全に欠落
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野村吉三郎「米国に使して」収録の同請訓電「日米諒解案」(英文)には、欠落のない全文が、ハルが基礎的試案として取り上げた「四月九日案」とある。
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蒋介石援助停止と香港・シンガポール除去を削除すれば、残りは岩畔案といえるほど内容的に日本の主張を多く盛り込んだ日米民間諒解案を、米国政府に採択させることができるであろうとの安易な観測が、野村、岩畔、井川にあり、ウォルシュやトラウトも、これ(甘い情勢判断)を支持していたと推測できる。
「外務省宛の暗号電報は若杉公使によって起案されたが、重要なな一点が故意に改変せられた。それは「日米諒解案」が、米国政府の起案にかかるかのようにした点である。
これは『真実のことを述べるよりもこのように改めるのが、本国政府の意見をまとめるために好都合であろう」との判断に基づいたものであった」(岩畔豪雄「文馨春秋」稿)。
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4月16日
・ドイツ軍部隊を運ぶ輸送船団ケアケンナ島沖で全滅。
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・ドイツ空軍、ロンドンに対して猛烈な無差別爆撃。
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明治7年(1874)4月1日~9日 台湾遠征軍総司令官西郷従道、品川進発  江藤新平ら処刑  [一葉2歳]

明治7年(1874)4月
この月
・田中正造、岩手県令島惟精より無罪赦免を言渡される。
5月9日、叔父に伴われ5年ぶりに小中村に帰郷(3月9日、母さき(55)、没)。
隣村赤見村造酒家蛭子屋の番頭となる。
獄中でスマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」熟読。
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「成島柳北戯著柳橋新誌二編」(奎章閣)出版。
漢文。明治4年の著作。読書階級に大きな反響を呼ぶ。
○成島柳北:
徳川幕府の正史「徳川実紀」の編者成島司直の孫、史書「後鑑」の編者成島稼堂の子。
幼時から神童と云われ、18歳(安政元年)で家督を継ぎ、21歳で将軍家茂の侍講となる。
23歳(安政6年)「柳橋新誌」第一編を著す。
27歳(文久3年)建策が幕府に容れられず風刺詩を発表して免職、閉門処分。
慶応元年、千石で歩兵頭から騎兵頭となる。
慶応3年、2千石で騎兵奉行。
ついで、外国奉行から従五位下大隅守に任じ、俸給3千両で会計副総裁となる。
維新後は下野し隠遁。のち左院議員に勧められるが拒絶。
明治3年、浅草本願寺境内に私学校を開き、「柳橋新誌」第二編を書き始める。
明治6年9月創刊の「朝野新聞」社長。この年、38歳。
柳北は、今の柳橋に遊ぶ者が、この間までは手内職をして生活を維持したという京都の公卿や、人情も風流も理解しない長州や薩摩や土佐の田舎侍であることを、巧妙な筆を駆使して辛辣に描く。
政府は柳北を敵視する。
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・服部誠一(撫松)「東京新繁昌記」(奎章閣)出版。好評。この年中に続編を五編まで出版。
○服部誠一:
奥州二本松丹羽家の旧家臣、明治3年29歳で東京に移住。代々丹羽家に仕えた儒者の家系。
維新により禄を失い、確たる目当てもなく、新しい生活の道を求めて上京。
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4月2日
・この日の閣議。
木戸は、「台湾一条への連印・・・あい辞せり」と閣議決定書面への参議としての押印を断る。
木戸は、18日、「内外緩急の序ますます乱れ」との理由で参議の辞表を提出。
また、5日、伊藤は岩倉に手紙を送り、「木戸不承知・・・私においても・・・おのれを曲げ、心中はなはだ不安」と、政府の台湾方針への危惧の念を伝える。
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4月4日
・西郷従道(陸軍大輔)を陸軍中将に昇格させ台湾蛮地事務都督(遠征軍総司令官)に、陸軍少将谷千城と海軍少将赤松則良を参軍に、陸軍中佐佐久間左馬太・陸軍少佐福島九成を参謀に任命。
リゼンドル推薦のアメリカ軍人カッセルやワッソン参画。
熊本鎮台歩兵・砲兵、「日進」ほか2艦動員。イギリス汽船・アメリカ汽船も用船。
台湾蕃地事務局設置し、5日、参議兼大蔵卿大隈重信を台湾蛮地事務局長官に任命。
8日、リゼンドルを外務省准2等出仕から台湾蕃地事務局准2等出仕(副長官)に配置変え、柳原前光を清国駐剳特命全権公使とする。
9日、西郷従道、軍艦「春日」・「孟春」率い品川発。長崎(遠征根拠地)に向う。隆盛300の部隊・徴集隊派遣同意。
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柳原に与えられた「内勅」:
一、出兵は「討蕃」のためであって清国と戦争する意図がないことを清側に理解させよ。
二、「蕃地」と清国領台湾との境界が複雑であるために派生する問題を処理せよ。
三、琉球藩が日本に服属することを清側に理解させよ。
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西郷都督に与えられた勅命は、
①「我国人を暴殺せし罪を問」うこと、
②「臨機兵力を以てこれを討つ」こと、
③被害が再発しないように「防制の方法を立」てることの三項目で、リゼンドルが献策した「表向きの眼目」通り。
また、同時に全10款の「特諭」が授けられる。
その第二款は、「鎮定後は漸次に土人を誘導開化せしめ、ついにその土人と日本政府との間に有益の事業を興起せしむるを以て目的となすべし」となっている。リゼンドルのいう「真の眼目」実現のための方策がほぼそのまま踏襲されている。
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西郷都督の任務は、表面は「討蕃撫民」だが、実質は「フォルモサ島の一部を日本に併す」ことで、「台湾蕃地処分要略」からは一度削除された「その地を拠有」という目的が事実上復活。
もっとも第二款には、「但し、この場合に於ては支那政府との関係及び後来の利害等を詳明に上奏して命を乞うべき事」との歯止めはかけられている。  
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15日付け三条の岩倉宛て書簡:
「台湾殖民一条、実に苦慮に堪えず候、もっとも御委任状は御改めに相成り候えども、実地の運びはすでに殖民の都合に相成り候あいだ、都督の処分は必ず殖民の姿に相成るべくに相違これなくと懸念つかまつり候」と、西郷が台湾領有を期しているからには、「特諭」第二款の歯止めは有名無実であり、必ず「殖民の姿」、つまり領有へと進むにちがいないと告白している。
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4月5日
・司法省佐賀裁判所開設。佐賀城内。裁判長司法権大判事河野敏鎌
この日、参議文部卿兼内務卿木戸孝允、太政大臣三条に江藤減刑の書簡。
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河野敏鎌が、「将来にわたって不逞のやからが出没横行するおそれがある」として府県裁判所の新設を上申し、佐賀出張中の大久保利通からも、「いそぎ当県へ裁判所を置いて、官員を派遣されたし」と、催促。
この佐賀裁判所は、府県裁判所であって臨時裁判所ではない。
司法省職制章程には、「府県裁判所は、『流刑』以下を処断して、『死罪および疑獄』は司法省の裁可を受ける」とあり、佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所で死刑判決を受けても、司法卿大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿木戸孝允(文部卿兼務)へ取り計らうべきであり、ただちに執行されることはない。
また、3月20日には、大久保利通が得た2月10日に三条実美からの委任状「死刑といえども、臨機に処分のこと」(第1項但書)は取り消されている
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4月5日
・ヨハン・シュトラウス2世、オペレッタ「こうもり」、アン・デア・ウィーン劇場で初演
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4月7日
・江藤新平護送の軍艦「猶竜」、佐賀入り。江藤ら9人収監。
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4月8日
・佐賀裁判所(設置されたばかり)裁判長河野敏鎌(権大判事)・直班検事岸良兼養(大判事)、江藤梟首の「擬律伺」を大久保に上申。
佐賀裁判所審理開始。~9日。
13日、江藤・島ら11人死刑判決、即日処刑。政府軍戦死190、江藤軍戦死167。
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河野敏鎌(元土佐藩士)は、明治5年5月から、司法卿江藤新平の推挙でヨーロッパへ派遣された。
その後、司法大丞(四等官)に昇進し、明治7年1月15日付で司法権大判事。
大検事(四等官)岸良兼養も、河野と共にヨーロッパへ派遣されている。
共に江藤のかつての部下。
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8日の大久保日記:
「河野大検事(ママ)ヨり擬律伺コレアリ評決」とある。
結審前に判決案(擬律)が固まっていたことを示す
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13日の判決。
「其ノ方儀、朝憲ヲ憚(ハバカラ)ズ、名ヲ征韓ニ托シ、党与ヲ募り、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウスル科ニテ、除族ノ上、梟首申シ付ル」。
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佐賀裁判所は府県裁判所であるから、その権限は司法職務定制第58条により「流以下ノ刑ヲ裁断スル事ヲ得ベシ、死罪及ビ疑獄ハ本省ニ伺イ出テ、其ノ処分ヲ受ケ」と定められおり、単独で死刑判決はできないことになっている。それを敢て強行した。
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判決。梟首2、斬首11、懲役10年6、懲役7年17、懲役5年18、懲役3年62、懲役2年47、懲役100日1、禁錮100日2、禁錮70日3、禁錮40日2、免罪11,237。  
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○福沢諭吉の江藤裁判批判
「佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之れを疑わず、加うるに、此の犯罪の巨魁を補えて更に公然裁判もなく、其の場所に於て、刑に処したるは、之れを刑と云うべからす。其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し
鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云うべし」(「丁丑公論」)。
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4月9日
・イギリス公使パークス、西郷都督の東京出発と同じこの日(9日)、日本政府が兵員や物資を台湾へ輸送するために各国船舶を雇用しているとの風聞があるが、船名と行き先を教えて欲しいと寺島外務卿に問い合わせ。
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4月9日
・ボアソナアド、司法省法学校で講義を始める。既にブスケの講義を聴講していた者を中心に15名。
後に「フランス法派」の中核を形成。
明治9年入学の第2期生には原敬、松室致、末弘巌石。明治17年の第4期生(最後)には若槻礼次郎ら。
また、ボワソナアドは、法学校の講義の他に司法省の官吏を対象とするフランス実定法の解説も開始。これは、日本民法編纂への準備として行われたもの。  
ボワソナアドの「開講の辞」:
「私は(政府に対して)なかんずく、日本政府の立法改革事業は、その司法官および行政官の一新と不可分であることを指摘しました。・・したがって、新たな諸法律を準備しているあいだにも、貴重な時間を一刻も無駄に失うことのないように、(新たに作られる)法律の条文を理解する学力を備えた若い司法官の育成所を作らなければならない、と進言しました」と述べる。
かれは、自らの講義を「自然法の講義」と名づける。
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原敬は、明治12年、賄(マカナイ)征伐事件(寮の食事内容に対する抗議事件)に関連して退学処分となる。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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2011年4月16日土曜日

東京 江戸城平川濠 桜吹雪舞う

昨日(4月15日)の朝、地下鉄「竹橋」駅出口を出たところで、すごい桜吹雪に遭遇。
贅沢な桜の花びらのシャワーでした。

昭和16年(1941)4月26日 「世情混沌五里霧中に在るが如し。」(永井荷風「断腸亭日乗」) 

永井荷風「断腸亭日乗」の昭和16年4月後半分です。
適宜改行を施しています。
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昭和16年(1941)4月16日
四月十六日。陰。南鏓庵來書。
正午銀座洋服屋来る。洋服羅紗地この後はいよいよ悪くなる由。羊毛ますます少く絹糸多くなる故洋服着るよりは和服の方冬は暖になるべく、將來は洋服屋行立ちがたくなるぺしと語れり。
この日活版摺の手紙にて上野清水堂のほとりに秋色さくらの發句をはりたる石を建る由。自ら披露し來れるものあり。發起人の名前は公爵某大將某博士某某などなり。先年蜀山人の狂歌をも上野に建てし由。
賣名者の為すところ滑稽至極といふべし。
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4月17日
四月十七日。晴。木の芽日に日に舒び庭の眺全く夏めきたり。胡蝶花(しやが)さきはじむ。午後浅草に至り公園の米作に飰す。木の芽あへ味佳し。この店新政により晝飯は貮圓五拾錢かぎり其以上は出来ぬと云ふ。
歸途地下鐡にて新橋を過るにこの邊依然として酔漢多し
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4月19日
四月十九日。くもりて風冷なり。哺下土州橋病院に至る。
・・・歸途電車にて歌舞伎座前を過るに恰も開場間際と見え観客入口の階段に押合ひ雑沓するさま物凄きばかりなり。劇場の混雑は数寄屋橋日本劇場のみにてはあらずと見ゆ。近年歌舞伎座の大入つゞき斯くの如き有様にては役人が嫉視の眼もおのづから鋭くなるわけなり。
近き中に必制裁の令下るなるべし
観客の風袋容貌の醜陋なること淺草六区と大差なきが如し。
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4月20日
四月二十日。晴。冬の洋服にては暑をおぼゆるほどなり。薄暮淺草に行きオペラ館踊子と共に森永に夕餉を食す。この日日曜日の人出淺草は銀座よりも少し
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4月23日
四月念三。半は晴れ半はくもる。常磐木の落葉をはきて焚く。新千載和歌集をよむ。晩間出でゝ銀座に飰す。
去月來食料品店のみならず菓子屋果物屋の店頭に鑵詰壜詰物おびたゞしく並べられたり。今まで見しことなき鑵詰もあり。
大西洋航路閉止となり輸出すること能はざるが為なりと云。
葡萄酒も戦前佛蘭西輸出の品にて上海神戸邊に滞荷せしもの日本製ガラス壜に詰替へたるものには値段の割に品好きものありと三浦屋店員のはなしなり。試に一本購歸りて味ひ見るに果して其言ふが如し。
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4月24日
四月念四。谷町通の靴屋にて靴の直しをたのみしに皮も配給になり來月半頃まで皮なしと言へり。黄昏淺草に行きオペラ館踊子等と森永に夕餉を食す。この日晴れたる空夕方より曇る。
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4月25日
・四月念五。あつからず寒からずよく晴れて風もなし。山吹ちりて躑躅の花さき初めぬ。
夜煮豆を買はむとて淺草仲店の三樂に行く。幕間に散歩する踊子に逢ひ森永に入りて茶を喫す。・・・
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4月26日
四月念六。晴れて風あり。夜芝口の金兵衛に夕飯を喫す。
ある人の談をきくに官吏にて赤化の疑あるもの数十名捕へられたり。其中に高等官多しとなり
政府はこの程魯國と和親條約を結びし時突然この疑獄起る。
世情混沌五里霧中に在るが如し
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4月8日に企画院事件あり。このことを指していると思われる。
昭和14年暮、芝寛がその「思想的前歴」から日本共産党との関係を疑われて検挙。
15年秋、正木千冬・小沢清元、
16年1月に稲葉秀三、
同4月に和田博雄(企画院調査官)・佐多忠隆・勝間田清一・和田耕作が検挙。
4月8日のこの日、和田博雄(企画院調査官)が経済新体制企画院案に関し治安維持法違反の容疑で検挙され、引き続き関係者が検挙される。
和田は「尾崎秀実とはどういう関係か」を執拗に尋ねられる。
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4月13日には「日ソ中立条約」調印。
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4月29日
四月廿九日。朝の中より雨しとしとと降りて靜なり。西澤一鳳の傳奇作書をよむ。燈刻銀座鳩居堂に至り白扇を購むとするに品切なり。美濃屋にて問へば僅に四五本殘れりと云ふ。偶然歌川氏に逢ひフロリダ茶店に憩ふ。
田舎の婆小娘三四十人ばかり隊をなし濡鼠となり入り來るを見る。
この人々コーヒーを飲み西洋菓子を貪り喰ふなり。現代の世態人情は最早論外なり。目を掩ひて見ざるに若かず。
(以下、「噂のきゝ書」と題し、「出征軍人の妻また戦死軍人の未亡人に関する醜聞」について書かれている。)
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「木の芽あへ」(17日)、「煮豆」(25日)に荷風の食の好みが出ている。質素だ。
「鑵詰壜詰物おびたゞしく」(23日)の理由や、試しにワインを買って飲んだが店員の言う通り良かったという件が面白い。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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