明治7年(1874)4月
この月
・田中正造、岩手県令島惟精より無罪赦免を言渡される。
5月9日、叔父に伴われ5年ぶりに小中村に帰郷(3月9日、母さき(55)、没)。
隣村赤見村造酒家蛭子屋の番頭となる。
獄中でスマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」熟読。
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・「成島柳北戯著柳橋新誌二編」(奎章閣)出版。
漢文。明治4年の著作。読書階級に大きな反響を呼ぶ。
○成島柳北:
徳川幕府の正史「徳川実紀」の編者成島司直の孫、史書「後鑑」の編者成島稼堂の子。
幼時から神童と云われ、18歳(安政元年)で家督を継ぎ、21歳で将軍家茂の侍講となる。
23歳(安政6年)「柳橋新誌」第一編を著す。
27歳(文久3年)建策が幕府に容れられず風刺詩を発表して免職、閉門処分。
慶応元年、千石で歩兵頭から騎兵頭となる。
慶応3年、2千石で騎兵奉行。
ついで、外国奉行から従五位下大隅守に任じ、俸給3千両で会計副総裁となる。
維新後は下野し隠遁。のち左院議員に勧められるが拒絶。
明治3年、浅草本願寺境内に私学校を開き、「柳橋新誌」第二編を書き始める。
明治6年9月創刊の「朝野新聞」社長。この年、38歳。
柳北は、今の柳橋に遊ぶ者が、この間までは手内職をして生活を維持したという京都の公卿や、人情も風流も理解しない長州や薩摩や土佐の田舎侍であることを、巧妙な筆を駆使して辛辣に描く。
政府は柳北を敵視する。
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・服部誠一(撫松)「東京新繁昌記」(奎章閣)出版。好評。この年中に続編を五編まで出版。
○服部誠一:
奥州二本松丹羽家の旧家臣、明治3年29歳で東京に移住。代々丹羽家に仕えた儒者の家系。
維新により禄を失い、確たる目当てもなく、新しい生活の道を求めて上京。
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4月2日
・この日の閣議。
木戸は、「台湾一条への連印・・・あい辞せり」と閣議決定書面への参議としての押印を断る。
木戸は、18日、「内外緩急の序ますます乱れ」との理由で参議の辞表を提出。
また、5日、伊藤は岩倉に手紙を送り、「木戸不承知・・・私においても・・・おのれを曲げ、心中はなはだ不安」と、政府の台湾方針への危惧の念を伝える。
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4月4日
・西郷従道(陸軍大輔)を陸軍中将に昇格させ台湾蛮地事務都督(遠征軍総司令官)に、陸軍少将谷千城と海軍少将赤松則良を参軍に、陸軍中佐佐久間左馬太・陸軍少佐福島九成を参謀に任命。
リゼンドル推薦のアメリカ軍人カッセルやワッソン参画。
熊本鎮台歩兵・砲兵、「日進」ほか2艦動員。イギリス汽船・アメリカ汽船も用船。
台湾蕃地事務局設置し、5日、参議兼大蔵卿大隈重信を台湾蛮地事務局長官に任命。
8日、リゼンドルを外務省准2等出仕から台湾蕃地事務局准2等出仕(副長官)に配置変え、柳原前光を清国駐剳特命全権公使とする。
9日、西郷従道、軍艦「春日」・「孟春」率い品川発。長崎(遠征根拠地)に向う。隆盛300の部隊・徴集隊派遣同意。
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柳原に与えられた「内勅」:
一、出兵は「討蕃」のためであって清国と戦争する意図がないことを清側に理解させよ。
二、「蕃地」と清国領台湾との境界が複雑であるために派生する問題を処理せよ。
三、琉球藩が日本に服属することを清側に理解させよ。
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西郷都督に与えられた勅命は、
①「我国人を暴殺せし罪を問」うこと、
②「臨機兵力を以てこれを討つ」こと、
③被害が再発しないように「防制の方法を立」てることの三項目で、リゼンドルが献策した「表向きの眼目」通り。
また、同時に全10款の「特諭」が授けられる。
その第二款は、「鎮定後は漸次に土人を誘導開化せしめ、ついにその土人と日本政府との間に有益の事業を興起せしむるを以て目的となすべし」となっている。リゼンドルのいう「真の眼目」実現のための方策がほぼそのまま踏襲されている。
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西郷都督の任務は、表面は「討蕃撫民」だが、実質は「フォルモサ島の一部を日本に併す」ことで、「台湾蕃地処分要略」からは一度削除された「その地を拠有」という目的が事実上復活。
もっとも第二款には、「但し、この場合に於ては支那政府との関係及び後来の利害等を詳明に上奏して命を乞うべき事」との歯止めはかけられている。
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15日付け三条の岩倉宛て書簡:
「台湾殖民一条、実に苦慮に堪えず候、もっとも御委任状は御改めに相成り候えども、実地の運びはすでに殖民の都合に相成り候あいだ、都督の処分は必ず殖民の姿に相成るべくに相違これなくと懸念つかまつり候」と、西郷が台湾領有を期しているからには、「特諭」第二款の歯止めは有名無実であり、必ず「殖民の姿」、つまり領有へと進むにちがいないと告白している。
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4月5日
・司法省佐賀裁判所開設。佐賀城内。裁判長司法権大判事河野敏鎌。
この日、参議文部卿兼内務卿木戸孝允、太政大臣三条に江藤減刑の書簡。
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河野敏鎌が、「将来にわたって不逞のやからが出没横行するおそれがある」として府県裁判所の新設を上申し、佐賀出張中の大久保利通からも、「いそぎ当県へ裁判所を置いて、官員を派遣されたし」と、催促。
この佐賀裁判所は、府県裁判所であって臨時裁判所ではない。
司法省職制章程には、「府県裁判所は、『流刑』以下を処断して、『死罪および疑獄』は司法省の裁可を受ける」とあり、佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所で死刑判決を受けても、司法卿大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿木戸孝允(文部卿兼務)へ取り計らうべきであり、ただちに執行されることはない。
また、3月20日には、大久保利通が得た2月10日に三条実美からの委任状「死刑といえども、臨機に処分のこと」(第1項但書)は取り消されている。
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4月5日
・ヨハン・シュトラウス2世、オペレッタ「こうもり」、アン・デア・ウィーン劇場で初演
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4月7日
・江藤新平護送の軍艦「猶竜」、佐賀入り。江藤ら9人収監。
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4月8日
・佐賀裁判所(設置されたばかり)裁判長河野敏鎌(権大判事)・直班検事岸良兼養(大判事)、江藤梟首の「擬律伺」を大久保に上申。
佐賀裁判所審理開始。~9日。
13日、江藤・島ら11人死刑判決、即日処刑。政府軍戦死190、江藤軍戦死167。
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河野敏鎌(元土佐藩士)は、明治5年5月から、司法卿江藤新平の推挙でヨーロッパへ派遣された。
その後、司法大丞(四等官)に昇進し、明治7年1月15日付で司法権大判事。
大検事(四等官)岸良兼養も、河野と共にヨーロッパへ派遣されている。
共に江藤のかつての部下。
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8日の大久保日記:
「河野大検事(ママ)ヨり擬律伺コレアリ評決」とある。
結審前に判決案(擬律)が固まっていたことを示す。
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13日の判決。
「其ノ方儀、朝憲ヲ憚(ハバカラ)ズ、名ヲ征韓ニ托シ、党与ヲ募り、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウスル科ニテ、除族ノ上、梟首申シ付ル」。
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佐賀裁判所は府県裁判所であるから、その権限は司法職務定制第58条により「流以下ノ刑ヲ裁断スル事ヲ得ベシ、死罪及ビ疑獄ハ本省ニ伺イ出テ、其ノ処分ヲ受ケ」と定められおり、単独で死刑判決はできないことになっている。それを敢て強行した。
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判決。梟首2、斬首11、懲役10年6、懲役7年17、懲役5年18、懲役3年62、懲役2年47、懲役100日1、禁錮100日2、禁錮70日3、禁錮40日2、免罪11,237。
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○福沢諭吉の江藤裁判批判。
「佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之れを疑わず、加うるに、此の犯罪の巨魁を補えて更に公然裁判もなく、其の場所に於て、刑に処したるは、之れを刑と云うべからす。其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し。
鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云うべし」(「丁丑公論」)。
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4月9日
・イギリス公使パークス、西郷都督の東京出発と同じこの日(9日)、日本政府が兵員や物資を台湾へ輸送するために各国船舶を雇用しているとの風聞があるが、船名と行き先を教えて欲しいと寺島外務卿に問い合わせ。
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4月9日
・ボアソナアド、司法省法学校で講義を始める。既にブスケの講義を聴講していた者を中心に15名。
後に「フランス法派」の中核を形成。
明治9年入学の第2期生には原敬、松室致、末弘巌石。明治17年の第4期生(最後)には若槻礼次郎ら。
また、ボワソナアドは、法学校の講義の他に司法省の官吏を対象とするフランス実定法の解説も開始。これは、日本民法編纂への準備として行われたもの。
ボワソナアドの「開講の辞」:
「私は(政府に対して)なかんずく、日本政府の立法改革事業は、その司法官および行政官の一新と不可分であることを指摘しました。・・したがって、新たな諸法律を準備しているあいだにも、貴重な時間を一刻も無駄に失うことのないように、(新たに作られる)法律の条文を理解する学力を備えた若い司法官の育成所を作らなければならない、と進言しました」と述べる。
かれは、自らの講義を「自然法の講義」と名づける。
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原敬は、明治12年、賄(マカナイ)征伐事件(寮の食事内容に対する抗議事件)に関連して退学処分となる。
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「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
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