2011年4月20日水曜日

永井荷風年譜(6) 明治31年(1898)満19歳~明治32年(1899)満20歳 広津柳浪の門に入門 落語家の弟子になる 懸賞小説入選

明治31年(1898)満19歳
2月26日
旅行記「上海紀行」(「桐陰会雑誌」)発表。現存する荷風の処女作とされる。
この年から習作を雑誌に発表。
*
8月
この時期の荷風について、叔父阪本釤之助は、上海の久一郎宛に「壮吉君には近来殊に音曲に耽けられ且衣服等之意匠俳優者流の如しとの世評あり」云々と報じる(8月2日付)。
*
9月
神田三崎町の某女隠居の紹介状をもち、「簾の月」という作品を携えて、牛込矢来町の広津柳浪を訪問、指導を乞う
親友井上唖々が勧め、また荷風自身も柳浪の作風に敬服していた。
*
「そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、簾(スダレ)の月と題せし未定の草稿一篇を蜂へ、牛込矢来町なる広津柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものと云ふべし。
われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一ツ橋なる校舎に赴く日とては罕(マレ)にして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席を見歩きたまさか家に在れば小説俳句漢詩狂歌の戯に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。
かくて作る所の小説四五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念漸く押へがたくなりければ遂に何人の紹介をも俟たず一日突然広津先生の寓居を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。
先生が矢来町にありし事を知りしは予め電話にて春陽堂に問合せたるによってなり。
余は其頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。今戸心中、黒蜥蜴、河内屋、亀さん等の諸作は余の愛読して措く能はざりしものにして余は当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも遙に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。」(「書かでもの記」)
*
「「水井は最初からズバ抜けて才能があった。中村(=吉蔵)は学者に向いたろうが、作家としては永井とは較べものにならなかった」と後年父は私に話したことがある・・・」(広津和郎「年月のあしおと」)
*
*
明治32年(1899)満20歳
1月下旬頃
かねてより人情噺をしたいと思っていて、この頃から、落語家六代目(三遊亭)朝寝坊むらくの弟子となる。
三遊亭夢之助と名のり、市内の席亭をめぐり修業を始める。
*
「わたくしは朝寝坊むらくといふ噺家の弟子になって一年あまり、毎夜市中諸処の寄席に通つてゐた事があった。
その年正月の下半月(シモハンツキ)、師匠の取席(トリセキ)になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町の常磐亭であった」
寄席の仕事を終えた夜ふけ、若い女の三味線弾きと二人で帰る。「身を摺り寄せながら」歩くうちには、「手を握る」、「顔が接近して互の頬がすれ合ふやうになる」ことがあり、「二人の間に忽ち人情本の場面が其のまゝ演じ出され」たという(随筆「雪の日」昭和19年)
*
「酔ひて心の乱るゝま、路傍の小屋に女を引入れ戯れし事あり。女は年の頃十七八にて橘屋橘之助といひし浮れ節寄席芸人の弟子なりき」(「断腸亭日乗」昭和7年4月11日
*
4月
外国語学校の第2学年第2学期(1月8日~4月10日)の試験を受けるが、第3学期(4月11日~7月10日)は学年試験も受けず欠席。
*
6月
遊ぶ金欲しさに「萬朝報」の懸賞小説に応じて入賞(2回)。
6月14日、「花籠」が「萬朝報」懸賞小説1等に入選。
賞金10円で洲崎遊廓に繰り込み、廊内最大の大店「八幡楼」に登る
*
7月松根東洋城(豊次郎)、中山麦圃(吉典)、松下紫人(英夫)、山田三子(麟太郎)ら一高生の俳句同好会「翠風会」の回覧草紙『翠風集』に井上唖々の関係で俳句を寄せる。
*
8月
「かたわれ月」が「萬朝報」懸賞小説2等入選。
*

九段下の富士本亭で楽屋から顔を出したところ、出入りの車夫の妻に発見されて落語家修業の件が家に知れて禁足となり、以後、落語家として立つことを諦める。
*
10月1日
広津柳浪と合作名義「薄衣」が「文芸倶楽部」に掲載。
同日、「夕せみ」が「伽羅文庫」に掲載る。
*
初冬
尺八の友、大山吾童の緑でその友人清国人羅臥雲(蘇山人)と知り、この年初冬、羅の紹介で巌谷小波に会い、その主宰する木曜会に入る
*
12月10日
外国語学校を第2学年(原級留年)のままで除籍される。
*
*
「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
*

0 件のコメント: