2011年4月17日日曜日

昭和16年(1941)4月9日~16日 日ソ中立条約調印  野村・ハル交渉正式開始

昭和16年(1941)
4月9日
・満州、金日成部隊29人、ソ連領内南野営を出発。魏拯民と残留抗日聯軍第一路軍生存者捜索。8月29日に戻る。
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4月9日
・陸軍機甲本部設置
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4月9日
・米、トラウト~ウォーカー郵政長官経由、米ハル国務長官に「日米諒解私案(四月九日案=岩畔案)」提出。
ハル国務長官は、この草案(「私人たる米国人および日本人の個人を通じて米国務省に提出せられたる提案」(「極東国際軍事裁判速記録」第107号)について、3日間、国務省の極東問題専門家と共に検討。
「研究をすすめるにつれてれわれは非常に失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった。
・・・私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれど、そのまま受けいれることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もあるという結論を下した。
私は日本との間に幅の広い交渉を開始するいとぐちになるような機会を見逃してほならないと患思った」(ハル「回想録」)。
16日ハル4原則提示に続く。        
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4月9日
・アメリカ・デンマーク、グリーンランド防衛協定調印。
米、グリーンランドの防衛と引換えに基地使用権を得る。
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4月9日
・アメリカ・プロゴルフ協会、ゴルフ名誉殿堂の設立発表。
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4月9日
・イギリス空軍、ベルリンの中心部を爆撃。
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4月10日
・ユーゴスラビア、ザグレブ陥落、クラグイェヴァッツ陥落。
リュブリャナ、イタリアにより陥落。
12日、ベオグラード陥落。        
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4月10日
・クロアチア政府、ドイツ軍迎え入れる。
ユーゴの枢軸派ウスタシャ運動指導者パヴェリチ、クロアチア民族国家の樹立を宣言。
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4月11日
・ハンガリー、政府、ユーゴ永久友好条約無効宣言。ユーゴ攻撃。
ヒトラーは約束に反しハンガリー要求領土バートナート地方を返還せず。
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4月11日
・イギリス海軍マルタ襲撃隊が編成され、枢軸側輸送船団の被害甚大。
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4月11日
・米海軍は西経26度線まで、英軍は35度線までを担当する事になる。
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4月12日
・アメリカ軍、グリーンランドに上陸。
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4月12日
・松岡洋右外相、チャーチル英首相の書簡(独の戦力評価につき注意喚起)をクリップス駐ソ英大使から受領。モスクワ。
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4月13日
日ソ中立条約調印。モスクワ、スターリン・松岡外相。
蒙古人民共和国・満洲帝国の領土保全と不可侵条約調印。
ソ連の独ソ戦準備・日本の南進政策推進。
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7日、松岡外相はモスクワ着後直ちにモロトフと交渉。
松岡が不可侵条約や北樺太買収を提案、モロトフは南樺太・千島などの「失地」回復を伴わない不可侵条約は無意味との立場から中立条約を提案し、北樺太における日本の石油・石炭利権の解消を要求。
9日、松岡は不可侵条約を撤回し、ソ連にも北樺太利権解消要求を撤回させようとするが失敗。
11日の第3次会談でも妥結せず、松岡は日本の最終案が認められなければ帰国するから、スターリソに別れの挨拶をしたいと申し入れる。
その夜、スターリンから連絡あり、12日に松岡・スターリン会談が行なわれ、北樺太利権解消については数ヶ月内に努力するとの松岡・モロトフ書簡交換を行ならとととし、その他の点についても妥協が成立。  
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①日ソ両国の相互の領土保全及び不可侵の尊重。
②日ソいずれか一方が第3国と戦争となった場合、他方は中立を守る。
付属文書で、外蒙古・満州の領土保全について共同声明。
有効期間5年、期間満了の1年前に廃棄通告をしなければ、さらに5年自動的に延長。
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調印式後の宴会でもスターリンは上機嫌で、松岡の乗る列車の発車時間を遅らせ、さらに駅頭に松岡を送りに来て抱擁し、「これで日本は南進できる」と述べる。
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日ソ中立条約は必ずしも松岡外相の創意による功績ではない。
東郷駐ソ大使・建川大使からも日ソ国交回復は既に提案され、昭和15年8月14日、モロトフ外務人民委員は日本提案の中立条約受諾の代りに北樺太利権解消を要求。
当時の駐ソ大使東郷茂徳によれば、ソ連側は重慶政権非援助の日本からの要求に応じる意向を示し、直ぐにも条約成立の運びとなっていたが、松岡人事による帰国命令が出て、条約成立寸前の状況で東郷は帰国。
松岡の手に成る中立条約では、重慶政権非援助の項は消滅し、松岡は閣議諒解の下に北樺太利権解消を意味する松岡・モロトフ交換文書を交している。
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4月13日
・ロンメル軍、トブルクを包囲
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4月13日
・ドイツ軍とイタリア軍、エジプトに侵攻。
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4月14日
・国際会議帝国事務局廃止。
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4月14日
・ユーゴ、独軍に休戦申入れ。
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4月15日
・瓦斯用木炭統制規則公布。
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4月15日
・文部省、「昭和の礼法」を通牒。
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4月15日
・米、ルーズベルト大統領、駐米大使胡適・宋子文に軍用器材貸与を通知
義勇兵許可。クレア・リー・シェンノートの働き。
AVG(アメリカン・ボランティア・グループ);パイロット雇用。
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4月16日
・関東州・南洋群島船舶保護令公布。
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4月16日
・富山県新湊町で大火。漁船30隻と680戸が焼失。
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4月16日
・信濃川発電所の2期工事が落成。
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4月16日
・米、野村・ハル交渉正式開始
ハル国務長官、野村駐米大使に、「4原則」を前提として、民間私案の「日米諒解案」を基礎として予備的交渉開始を提案。
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「そこで私は最近移ったウォードマン・パーク・ホテルの部屋に野村の来訪を求めた。
私は野村に、日米間の問題解決のための非公式の提案を受取ったことを伝え、「大使自身もこの提案に参与しているときいているが」と述べた。
野村はすぐに「あの提案のことは全部自分も知っている。本国政府にはまだ送っていないが、政府もこれには賛成すると思う」といった。
それから二日たって私は、私の部屋で、日米協定の基礎になるべき四つの基本原則を述べたステートメントを手渡した」(ハル「回想録」)。
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ハル国務長官は、4原則の前提の他に、基礎となる民間試案(四月九日案)には、同意できる部分もあるが、修正、拡大、全面削除を必要とする諸条項があることを、野村大便に対して周到に念を押す(ハル「覚書」1941年6月16日の項、「速記録」第107号)。
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○「ハル4原則」
①あらゆる国家の領土保全と主権尊重、
②他国の内政問題に対する不干渉原則、
③通商上の機会均等を含む平等原則、
④平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱。
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野村大使は、この日のハル国務長官との会見を本国に報告。
野村電には、叩き台となる試案が米側から提案されたかのような作為を含み、「4原則」も伝えず、「四月九日案」とは別の「四月十六日案」を請訓。
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野村の請訓電からは、「四月九日案」(岩畔)から2点
①支那事変に関し、「若シモ蒋介石政権ガルーズヴェルト大統領ノ要請ヲ拒否セル場合ニハ米国ハ中国ニ対スル援助ヲ停止スベシ」という条文と、
②太平洋に於ける政治的安定に関して、「日本政府ハ英国ノ東亜ニ対スル是以上ノ政治的侵略ノ為ノ入ロトシテノ香港及ピシンガポールヲ除去スルコトニ対シ米国政府ノ好意的且外交的援助ヲ要請スル」という条文が、
完全に欠落
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野村吉三郎「米国に使して」収録の同請訓電「日米諒解案」(英文)には、欠落のない全文が、ハルが基礎的試案として取り上げた「四月九日案」とある。
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蒋介石援助停止と香港・シンガポール除去を削除すれば、残りは岩畔案といえるほど内容的に日本の主張を多く盛り込んだ日米民間諒解案を、米国政府に採択させることができるであろうとの安易な観測が、野村、岩畔、井川にあり、ウォルシュやトラウトも、これ(甘い情勢判断)を支持していたと推測できる。
「外務省宛の暗号電報は若杉公使によって起案されたが、重要なな一点が故意に改変せられた。それは「日米諒解案」が、米国政府の起案にかかるかのようにした点である。
これは『真実のことを述べるよりもこのように改めるのが、本国政府の意見をまとめるために好都合であろう」との判断に基づいたものであった」(岩畔豪雄「文馨春秋」稿)。
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4月16日
・ドイツ軍部隊を運ぶ輸送船団ケアケンナ島沖で全滅。
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・ドイツ空軍、ロンドンに対して猛烈な無差別爆撃。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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