江戸城(皇居)二の丸雑木林 2014-04-17
*1993年春の国民投票。失敗にも関わらず、エリツィンは勝利宣言を行う
1993年春、厳しい緊縮財政を求めるIMFの条件を無視した予算案を議会が提出すると、衝突はいよいよ時間の問題になった。
マスコミの全体主義的支援のもと、エリツィンは議会を排除するべく、議会の解散と総選挙の実施について賛否を問う国民投票を急遽実施する。
が、エリツィンが望む権能を手にできるだけの票は集まらなかった。
それでもエリツィンは勝利宣言を行ない、この投票でロシア国民が自分を支持していることが証明されたと主張した。
エリツィンは質問表のなかに自分の改革を支援するかという、全く法的拘束力のない問いを紛れ込ませており、イエスの回答がかろうじて過半数を超えていた。
エリツィン、「ピノチェト・オプション」を断行。対抗する議会はエリツィン弾劾決議を可決
ロシア国内では、この国民投票は宣伝活動のひとつであり、しかも失敗に終わったと広く受けとめられていた。
エリツィンもアメリカ政府もいまだに、憲法に定められた権限をもってショック療法による変革を妨害しようとする議会に手をこまぬいていた。
こうして強力な圧力キャンペーンが始まる。
ローレンス・サマーズ米財務次官は、「持続的な多国間支援を確保するために、ロシアの改革の勢いを回復させ、さらに加速させなければならない」と述べた。
IMFも同様の見方に立っていた。
あるIMF職員はマスコミに、約束されていた15億ドルの融資はIMFが「ロシアの改革の逆行に不満」であるため撤回される予定だとリークしている。
エリツィン政権の元閣僚ピョートル・アーヴェンは「IMFが予算や金融政策に神経質すぎるほどこだわる一方で、他のすべてに関してまったく皮相的で形式的な態度を取ったこと、(中略)それがああいう事態を招いた少なからぬ原因だった」と話す。
「ああいう事態」とは、IMF職員のコメントがリークされた翌日(9月21日)、西側諸国の支持を確信したエリツィンが、後戻りできない最初の一歩(公然と「ピノチェト・オプション」と呼ばれていた)を踏み出したことを指す。
彼は大統領令1400号を公布し、憲法を停止したうえで議会の解散を発表した。
2日後、特別議会はこの常軌を逸した行動(アメリカの大統領が一方的に連邦議会を解散するのに匹敵する)に出たエリツィンを弾劾する決議を636対2で可決。
アレクサンドル・ルツコイ副大統領は、ロシアはすでにエリツィンと改革者たちによる政治的冒険の高い代償を払った」と言明した。
米のクリントン大統領はエリツィンを支持し15億ドル援助を可決
エリツィンと議会との間に武力衝突が起きることは、もはや避けられなかった。
憲法裁判所が再度エリツィンの行動に違憲裁定を下したにもかかわらず、クリントン米大統領はエリツィン支持の立場を取り続け、米連邦議会はエリツィン政権に対する15億ドルの援助を可決した。
軍隊がロシア議会を包囲しインフラを切断するが、市民は議会を占拠
勢いづいたエリツィンは軍隊に議会を包囲させ、「ホワイトハウス」と呼ばれる議会ビルの電気や暖房、電話を遮断。
モスクワにあるグローバリゼーション研究所のボリス・カガルリツキー所長によると、民主化を支持する市民が「何千人も押し寄せ、封鎖を破ろうとした。二週間にわたって軍隊や警察とにらみ合う平和的なデモが続き、その結果ホワイトハウスの封鎖が一部破られ、食料や水を中に運び込むことができた。平和的な抵抗に参加する人は日を追うごとに増え、より広い支援を得るようになった」という。
ポーランドでの「連帯」惨敗を見て、エリツィンは強硬策を決意する
膠着状態が続くなか、これを解決するには両者合意のうえで早期に選挙を行なうしか道はないと思われた。
多くの人がこの方法を強く勧め、エリツィンの気持ちも選挙に傾いたとき、ポーランドから「連帯」敗北の報が届く。
ショック療法によって裏切られたと感じた有権者が、選挙で「連帯」に厳しい審判を下したという。
「連帯」が選挙で惨敗したのを知ったエリツィンと西側の顧問たちにとって、早期の選挙実施はリスクが大き過ぎると思われた。
ロシア国内には、巨大な富が未決の状態のまま宙に浮いていた。兵器工場やかつて共産党が民衆を支配するのに利用していた国営メディア、膨大な油田、世界の埋蔵量の約30%を占める天然ガス、世界の生産量の20%を占めるニッケルなどである。
10月3日、エリツィンの軍隊がデモ市民に発砲。市民100人、兵士1人が犠牲に
エリツィンは交渉を放棄して戦闘態勢に入った。
軍人の給料を倍増した直後だったため、陸軍の大半がエリツィン側についた。
「数千人規模の内務省軍、それに有刺鉄線や放水砲が議会を包囲し、水も漏らさぬ警戒網が敷かれた」と、『ワシントン・ポスト』紙は書く。
議会でのエリツィンの最大のライバルであるルツコイ副大統領は、この時点で警護隊を武装させ、筋金入りファシストとも言うべき国家主義者たちを自らの陣営に迎え入れていた。
また支持者に向けては、エリツィンの「独裁政権」に「一瞬たりとも平和を与えてはならない」と訴えた。
抗議行動に参加し、その顚末を記した著書もあるカガルリツキーは、こう話した。
10月3日、議会を支持する群衆が「国営オスタンキノ・テレビ局に向かって行進し、ニュースを流すよう求めました。なかには武装した者もいたけれどほとんどは丸腰で、子どももいた。彼らに向かってエリツィンの部隊は機関銃を発射したのです」。
この騒乱で、デモ参加者約100人と兵士1人が犠牲になった。
エリツィン、全土の市議会と地方議会すべてを解散
エリツィンは次に、ロシア全土の市議会と地方議会すべてを解散する。
こうして誕生して間もないロシアの民主主義は、少しずつ破壊されていった。
議員のなかには、群衆を扇動する平和的解決では手ぬるいと息巻く者もいるにはいたが、元米国務省高官レスリー・ゲルブも書いているように、議会は「過激な右派が多数を占めていたわけではなかった」。
危機の引き金となったのは、エリツィンが違法に議会を解散し、最高裁判所を軽視したことであり、手にしたばかりの民主主義をけっして手放そうとしないこの国で、非常措置が取られるのは必然のなりゆきだった。
*きわだってセンセーショナルな報道のひとつに、『ワシントン・ポスト』紙の記事がある。
「デモ隊のうち約一〇〇人が国防省に押し寄せたが、ここにはロシアの核管理部門が置かれ、その幹部らが会議を開いていた」と、まるで民主主義を守ろうとする群衆が核戦争を勃発させる可能性があるかのような書きぶりである。「国防省はドアに鍵をかけ、群衆を締め出したため何事も起きなかった」と記事は続けている。
1993年10月4日朝、エリツイン、国会を襲撃
アメリカ政府や欧州連合(EU)が明確なストップのサインを送っていれば、エリツィンは議会と交渉せざるをえなかったが、彼が欧米各国政府から受け取ったのは激励だけだった。
1993年10月4日朝、ついにエリツィンはロシア版ピノチェトとして、ロシア国民に三つ目の外傷性ショックを与える。
彼は躊躇する陸軍にホワイトハウス襲撃を命じ、2年前にそれを守り抜くことで自らの名声を築いた、まさにそのビルに火を放ち、黒焦げにした。
共産主義は一発の発砲もなく崩壊したが、シカゴ学派流の資本主義は自らを守るのに大量の発砲を必要とした。
エリツィンが投入した兵士5千人や戦車数十台、装甲車、ヘリコプター、自動小銃で武装したエリート突撃部隊・・・、これらはすべて、ロシアの新しい資本主義経済を民主主義という名のゆゆしき脅威から守るためのものだった。
「警備員や議会議員、議会スタッフら約三〇〇人が両手を上げ、一列になってビルから出てきた」
『ボストン・グローブ』紙はエリツィンの議会包囲攻撃について次のように報じた。
「昨日一〇時間にわたって、約三〇台の陸軍戦車と装甲車がモスクワ市内のホワイトハウスと呼ばれる最高会議ビルを包囲して砲撃を加え、歩兵隊が機関銃を乱射した。午後四時一五分、警備員や議会議員、議会スタッフら約三〇〇人が両手を上げ、一列になってビルから出てきた」
「一九七三年、チリのクーデター後にピノチェト政権が取った措置を思い起こさせた」
日付が変わるまでに軍の総力攻撃による死者は約500人、負傷者は1千人近くに上り、1917年以来モスクワで起きたもっとも暴力的な事件になった。
ピーター・レダウェイとドミトリ・グリンスキーは、エリツィン政権を総括した決定版とも言うべき著書『ロシア改革の悲劇 - 民主主義対市場ボルシェビズム』のなかで、こう書く。
「ホワイトハウス内や周辺での掃討作戦で一七〇〇人が逮捕され、武器一一点が押収された。逮捕者の何人かは競技場に拘留され、一九七三年、チリのクーデター後にピノチェト政権が取った措置を思い起こさせた」。警察へ連行され、ひどい暴行を受けた者も少なくない。
カガルリツキーは警官に「民主主義が望みなのか、このクソ野郎。これが民主主義だ」と大声で怒鳴りつけられ、頭を殴打されたという。
だが、ロシアはチリと順序が逆だった。
ピノチェトはクーデターを起こし、民主主義制度を崩壊させたあとにショック療法を強行した。
エリツィンは、まず民主主義制度のなかでショック療法を強行し、その後民主主義を崩壊させ、クーデターを起こすことでショック療法を守った。
共通するのは、西側諸国からの熱心な支援があったことだ。
クーデター翌日の『ワシントン・ポスト』紙には「エリツィンの強攻作戦に幅広い支持」「民主主義にとっての勝利との見方」、『ボストン・グローブ』紙には「ロシア、かつての地下牢への逆戻りを回避」との見出しが躍った。
ウォレン・クリストファー米国務長官はモスクワへ飛び、エリツィンとガイダルと肩を並べてこう言い切った。「アメリカはそう簡単に議会の一時停止を支持したりはしない。今は非常事態なのです」
だがロシア国民の受けとめ方はそれとは違っていた。
議会を守ることによって権力の座に就いたエリッィンが、文字どおり議会に火を放ち、ホワイトハウスを〝ブラックハウス〞にしてしまった。
ある中年のモスクワ市民は、外国の報道記者にこう語った。
「国民が(エリツィンを)支持したのは、彼が民主主義を約束したからです。それなのに彼は、その民主主義を銃殺してしまった。エリツィンは民主主義を侵害したばかりか、銃殺したのです」。
1991年のクーデターの際、ホワイトハウスの入口を警備していたヴィタリー・ネイマンは、この裏切りに怒りをぶつける。「今あるのは僕たちが夢見ていたことと正反対のものだ。あの連中のために命がけでバリケードに参加したのに、約束は守られなかった」
急激な自由市場改革が民主主義と両立することを証明したとして称賛を受けていたジェフリー・サックスは、議会砲撃後もエリツィンを公然と支持し続け、反対勢力を「権力中毒にかかった旧共産主義者の一団」と一蹴した。
サックスは著書『貧困の終焉』のなかでロシアとの自身の関わりを明らかにしているが、ボリビアで彼のショック療法プログラムが招いた非常事態や労働組合幹部への攻撃について述べていないのと同様、この劇的な出来事についてはただの一度も触れずに通している。
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