2014年5月23日金曜日

1781年(安永10/天明元)4月 モーツアルト、大司教との決別=故郷ザルツブルクからの脱出=父からの自立、を決す (その1) 「ザルツブルクで、青春時代と才能を地に埋めてしまわねばならないのか、それとも自分の幸運を、それが可能な時に作り出すべきなのか - それとももう取り返しがつかなくなるまで待っていなければならないのか」 【モーツアルト25歳】

江戸城(皇居)東御苑 2014-05-20
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1781年(安永10/天明元)
4月2日
・「天明」に改元。
年号を天明と改めたが、「此年号は能(よき)事も天命、悪(あし)き事も天命なれば、頑愚(がんぐ)の人の言葉には、悪さ事の天命と覚(おぼえ)しなれば、文字のひびきあしかりけりと申人(もうすひと)も多かりき。天に口なし人をして謂(いわ)しむるのならひにや」と杉田玄白がその半生の記録『後見草(のちみぐさ)』に記す。
新しい年号も、世上からは不吉なひびさをもつものとしてあまり歓迎されなかった。
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4月2日
・モーツアルト、「ヴァイオリンのためのロンドハ長調」(K.373)、「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタト長調」(K.379(373a))、レチタティーヴォとロンド「この胸に、さあ、いらっしゃって 天があなたを私に返して下さる今」(K.374)、作曲。
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4月3日
・モーツアルト、ケルントナートール劇場で開催されたウィーン音楽芸術家協会の音楽会で演奏。
ヴィーンの宮廷楽長ジュゼッぺ・ボンノ(1710~88)指揮で、『交響曲〔第31番〕ニ長調』(K297=K300a)、すなわち『パリ交響曲』が取り上げられ、素晴らしい演奏で大成功。
この時の編成はヴァイオリン40、ヴィオラ10、チェロ8、コントラバス10、それに管楽器はすべて指示の倍数(オーボエ、ホルン、トランペット各4)、それにファゴットは8本という大編成。
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4月4日
・この日付けモーツアルトの父レオポルト宛て手紙。
「前便でもうお書きしましたが、ぼくにとっては大司教は、当地では大変な邪魔物なのです。というのは、彼はぼくに少なくとも百ドゥカーテン損をさせているからです。これは劇場で演奏会を一つやれば確実に手に入っただろうからです。それに貴婦人たちはもう自分たちで切符の分配にかかっていたのですから。 - 昨日は、ヴィーンの聴衆にぼくはほんとに満足したといっていいと思います。- ぼくはケルントナートール劇場での未亡人の音楽会で弾きました。拍手喝采がいつまでも終らないので、ぼくはもう一度あらためて始めなければなりませんでした。 - もう聴衆の人たちがぼくを知ったのですから、ぼく自身の演奏会をやったらどうお思いですか? なぜぼくにはできないんでしょうか? - ひとえにわれらが大無作法者が許してくれないためです。 - 自分の使用人が儲けるのがいやで、損をさせたいのです。 - でもぼくの場合にはそんなことやらせませんよ。当地でお弟子を二人もとれば、ザルツブルクよりはずっといいですからね - ぼくにはあの男の住居も食事もいりません。」

続いて、ザルツブルク大司教に仕える侍従で軍参議官と賄官を兼ねていたカール・ヨーゼフ・フェーリスク・アルコ伯爵がブルネッティに対して大司教の意向を伝えたのを聞く。大司教は音楽家たちに旅費を支給するから日曜日までに急行馬車でザルツブルクに戻るよう出発せよという。残りたい者は残ってもよいが、独力で残れ、食事も部屋も世話しない、という。ブルネッティは大いにそれを望んでいるし、チェッカレッリもヴィーンに居残りたがっているが、彼の方は帰らざるを得ないだろう。

「ぼくはどうするこころづもりかと聞かれたので、ぼくは答えました。『発たなけりゃならんなんて、今日まで知らなかった。 - それにアルコ伯爵がぼくにそれを自分で言ってくれるまではそんなことは信じない。それにあの男にはなにもかもぶちまけてやるんだ。そうだろう。』」

モーツァルトの決心は固い。
「ああ、ぼくは大司教に一杯喰わせてやりたい、そうすりゃ楽しみでしょう - しかもものすごく慇懃にね。だって彼はぼくを追い出せませんからね。」

モーツァルトはヴィーンをすっかり気に入ってしまった。
「断言しますが、当地は素晴らしい土地ですし、それにぼくの仕事にとってはこの世で最上の場所です。 - このことは誰も彼もがあなたに申すことでしょう。 - ぼくも当地が好きだし、もちろんそれを力の限り利用してみます。ぼくができるかぎりお金を儲けようと狙っていることを信じて下さい。それこそ健康の次に一番良いことですから。」

続く4月中に書かれた4通の手紙は、こうしたヴィーン定住の決意がしだいに固まっていく有様を伝え、この決意が大司教の意志や命令と厳しく対立するものであることを語る。

これらの手紙は、モーツァルトの決意を支えるに充分なほど、ヴィーンでの音楽会活動が前途有望であることを窺わせるものである。
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4月8日
・モーツアルト、ドイチェス・ハウスの音楽会で、自ら新作を紹介。
「ヴァイオリンのためのロンドハ長調」(K.373)、
「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ変ホ長調」(K.380(374f))、
レチタティーヴォとロンド「この胸に、ああ、いとしい人よ来て。天が私にあなたを返して下さるとき」 (K.374)を演奏。大成功。

同日、父へ手紙。
「ウィーンにいれば、大きな演奏会を開き、4人の弟子をとり、少なくとも年に千ターラーも取れる」と自信を示し、「自分の幸福をこんな風に二の次にしておかなければならないことが、ひどく憂欝になる。 若い年月を無為に過ごすのはとても悲しい」と書き、父の理解を求める。

モーツァルトは、自分がヴィーンに残ることができれば、いくらでも金を稼ぐことができるものと信じていた。せめてヴィーンを去る前に千フロリーンは手にしたいのに「意地悪な領主」はなんともけちな四百グルデン〔フロリーン〕だけで毎日毎日自分を冷たくあしらい、千グルデンを足でけとばしてしまう。
最初の演奏会で手にしたのは三人の音楽家がいずれも四ドゥカーテン〔十八フロリーン〕だけだったし、最後のコンサートでは、三曲も新曲を書いたのに、なんとタダだった。しかもこんな「糞音楽会」をやった同じ晩に、自分はトゥーン伯爵夫人から招待を受けていたし、しかもそこには「皇帝」もおいでだった。アーダムベルガーその他の音楽家たちはそこに招かれて、一人五十ドゥカーテン〔二百二十五フロリーン〕も貰っている。モーツァルトはこうして大司教を「人間の敵」とさえ呼んでいる。
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4月11日
・この日付けモーツアルトの父レオポルト宛て手紙。
これからもなお、自分が「ザルツブルクで、青春時代と才能を地に埋めてしまわねばならないのか、それとも自分の幸運を、それが可能な時に作り出すべきなのか - それとももう取り返しがつかなくなるまで待っていなければならないのか」

年に千グルデンがいいのか、それとも四百グルデンがいいのか、ヴィーンに留まれば、このほかに作曲から入る金がある。そればかりではない。

「ボンノが死ねば、サリエーリが楽長です。次にサリエーリの代わりには、シュタルツァーがあとを継ぐでしょう。シュタルツアーの代わりには、まだ誰になるかは分かりません」
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4月中旬
・モーツァルトは、ゴットリーブ・シュテファニーから新作の台本を書いてもらう約束をする。
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4月22日
・コロレド大司教、モーツアルトとチェッカレッリにザルツブルクに戻るよう命令。
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4月25日
・米、独立戦争、ホブカークス・ヒルの戦い。
イギリス軍の拠点が次々奪われる中、ロードン卿がグリーンの植民地軍を撃退。
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4月25日
・米、独立戦争。イギリス軍フィリップス将軍とアーノルド将軍(前年、寝返る)の軍勢2500、シティー・ポイントに上陸、アポマトックス川南岸をピーターズバーグ(植民地軍1千が守備)に向けて西進開始。植民地軍は後退。
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4月27日
・モーツアルト、ドイチェス・ハウスで音楽会開催。
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4月28日
・モーツアルトより父への手紙。
「僕を喜んで待っていてくれますね。ただそれだけが僕にウィーンを去る決心をさせるのです。昨日こちらで、おそらく最後の大発表会があり、最高の出来でした。大司教の妨害がありましたが、ブルネッティよりもましなオーケストラになりました。それだけ整えるには、大変いやな思いをしました。 シュテファニーからドイツ・オペラの注文を受けると思います。」。
ジングシュピール「後宮からの誘拐」(K.384)のこと。父はその作曲を差し控えるようにと命じるが、モーツァルトは従わず。
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4月29日
・フランス、ドバコを占領
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