ヤマボウシ 江戸城(皇居)東御苑 2014-05-29
*1781年(安永10/天明元)
5月
・北米、大陸会議の発行する大陸札の受け取り拒否運動。
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5月2日
・寺町大雲寺で、織田信長・信忠200年忌法要。
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5月2日
・モーツアルト、ドイッチェ・ハウスよりウェーバー家に移る。再度出発命令が下る。
5月9日、出発日のことがきっかけとなり、コロレド大司教と口論、決裂。ウィーン定住を決意。
5月10日、侍従アルコ伯爵に辞職願いを提出、父親が同意しなければ認められないとして受理されず。夜、体調を崩す。
モーツァルトと大司教の関係が決定的な局面を迎えたことを伝える5月9日付けモーツアルトの父レオポルト宛て手紙。
「親愛なるお父さん! ぼくはまだほんとに腹が立ってなりません! それにぼくの最良で最愛の父上であるあなただって、きっとぼくと同じでしょう。- ぼくの忍耐力はほんとに長いあいだ試されてきました。- でもとうとうそれはだめだったのです。ぼくはもうザルツブルクの宮仕えの不幸者じゃなくなりました。 - 今日はぼくにとって幸福な日でした。まあ、お聞き下さい。
もう二度もあいつ - 彼をなんて呼んだらいいのかまったく分からないのです ー は、この上なく無作法で厚顔無恥なことをぼくに面と向かって言ったのでしたが、こんなことはあなたが心配で手紙でお知らせしようとは思いませんでした。それにいつでもあなたが、最良のお父さん、あなたが目の前にちらついて、すぐその場で仕返しはしませんでした。 - 彼はぼくを小僧だとか、自堕落な奴だとか呼び、 - 出てゆけと言うのです。で、ぼくはなにもかも我慢していましたが - ぼくの名誉ばかりかあなたの名誉もそれで傷つけられていると感じていました。 - でも - あなたがそうお望みだったので、ぼくは黙っていました。 - でもお聞き下さい。 - 一週間前、思いがけずに従僕がやってきて、その場で出発しなけりゃいかんというのです。ほかの人たちはみんな日が決めてありましたが、ぼくだけは違うのです。 - そこでぼくは急いで荷物を全部トランクにまとめましたが、- ヴェーバーの奥さんがたいへん親切に彼女の家を提供してくれました。 - この家に綺麗な部屋をもらいました。世話好きな人たちに取りまかれていますが、この人たちは、しょっちゅう急に必要ができるもの (それに一人でいると持てないようなもの)を、ぼくのために万事取り揃えてくれるのです。
水曜日(つまり今日九日)に普通の便で出発することにしていましたが、ぼくが貰うはずのお金が、そうしている間にもまだ集められないので、それでぼくは旅行を土曜日まで延ばしました。 - 今日あそこに出頭すると、近侍たちが大司教がぼくに小荷物を持っていってもらいたいと望んでおられると言いました。 - それは急用のものかとぼくは聞きました。そうだ、たいへん重要なものだ、と彼らは言いました。 - それだったら、残念ですがお役には立ちかねます。というのは、ぼくは(先に述べた理由で)土曜日以前には出立できないからです。 - ぼくはお邸を引き払っているし、自分の費用で暮さにゃなりません。 - だからぼくがそれよりも前に出発できないのはまったく当然のことです。 - だって誰もぼくが損をするのを望まれはしないでしょうから。 - クラインマイヤー、モル、べーニケ、それに二人の近侍は至極もっともだと言ってくれました。- ぼくが彼〔大司教〕のところに入っていくと - ご注意申し上げますが、あらかじめあなたに言っておかなければならないのは、シュラウカ〔近侍の一人〕がぼくに普通便の駅馬車はもう満員だと言い訳をすべきだ、その方が彼にはいっそう強い理由になるからとすすめてくれたのです。 - さて、彼のところに入っていくと、第一発がこうでした。大司教 - それで、お前はいったいいつ発つんだ、若僧? - ぼく - 今晩発ちたいと存じておりましたが、あいにく座席がもうふさがっておりまして。すると一息でまくしたてるのです。ぼくは見たこともないような不品行者で、ぼくのように奉公の仕方の悪い奴はほかに誰もおらん。 - 自分はお前に今日発つように忠告する、さもないと、国許に手紙を書いて、給料を差し止めてやる。 - 口を差しはさむことなど誰にもできはしませんでした。まるでカンカンになって続けるのですから。ぼくは万事落ち着きはらって傾聴していました。彼はぼくに面と向かって五百フロリーンも給料を払ってると嘘をつくのです。ぼくをごろつき、横着者、低能呼ばわりしました。ああ、あなたに全部はとても書きたくはありません。 - とうとう血が烈しくたぎりたったあまり、ぼくはこう言いました。 - それじゃ猊下はわたしにご不満なのですね? - なんだと、わしをおどかすつもりか、馬鹿野郎、ああ、馬鹿野郎奴が! - そこに扉があるのが見えるだろう、こんなあさましい奴にはわしはもう用はない。 - とうとうぼくは言いました。 - わたしの方だって、もうあなたに用はございません。 - そんなら出てゆけ、 - そしてぼく ー 出て行きがてらに、 - もちろんそうしましょう。明日、書面でお出ししましょぅ。 - こういう次第で、最良のお父さん、こう言うのが早すぎたというよりもむしろ遅すぎたのではないでしょうか? - まあ、聞いて下さい。 - ぼくにとって自分の名誉がすべてにまさるものですし、それはあなたにとってもご同様だと分かっています。
ぼくのことはまったくご心配なさらないで下さい。 - いささかの理由がなくてもぼくは罷めただろうほど、当地での自分の本分を確信しているのです。 - 今ではその理由があり、しかも三度目なのです。 - もうそんなことはいさぎよしとしません。それどころか、ああ、ぼくは二度も卑劣な振舞いをしたのでした。 - 三度目はもう決してそんなことはできません。
大司教が当地にとどまっているかぎり、ぼくは音楽会はやらないでしょう。ぼくが貴族たちや皇帝ご自身に信用されないのではないかとお考えの点は根本的に間違っています。 - 大司教は当地では嫌われており、とりわけ皇帝から嫌われています。 - 皇帝が彼をラクセンブルク〔ヴィーン南方にある別荘〕に招待しなかったのに彼は腹を立てているのです。 - 次の郵便馬車で、なにがしかのお金をあなた宛に送りましょう。そうすれば、ぼくが当地で困っていないとあなたは納得なさることでしょう。
加えてどうかお元気でいらっしゃって下さい。 - なぜなら、今こそぼくの幸福が始まったわけですし、ぼくの幸福はまたあなたのものであってほしいと思っています。 - あなたもこれにご満足だとそっとぼくにお書き下さい。実際そうであっていいのです。 - しかしおもてでは、そのことでぼくと大いに喧嘩をしているんだとして下さい。そうすれば誰もあなたのせいにはしないでしょうから。 - でも大司教がそれにもかかわらずちょっとでも無礼なことをしたら、さっそくお姉さんと一緒にヴィーンにやってきて下さい。 - ぼくたちは三人で暮せます。これは名誉にかけて断言いたします。 - でももう一年辛抱して下されば、ぼくにはいっそう望ましいことです。 - もうドイッチェス・ハウス宛には手紙を出さないで下さい。小荷物もです。 - ぼくはもうザルツブルクのことは知りたくありません - ぼくは大司教が気が狂わんばかりに憎いのです。さようなら - あなたの御手に千回キスをし、大好きなお姉さんを心から抱擁します。永遠にあなたの忠実な息子。
宛名はベーター広場アウグ・ゴッテス三階です。
あなたがご満足だとはやくお認め下さるように、それだけが今のぼくの幸福には欠けているからです。さようなら。」
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5月2日
・米、独立戦争。イギリスのコーンウォリス将軍、ピーターズバーグに進出。ヴァージニアでラファイエットを追撃。
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5月12日
・モーツアルトの父への手紙。遂に独立宣言。
アルコ伯爵に退職願を大司教に渡すよう頼むが受け取ってもらえず、父レオポルトの同意が必要であると言われたこと、そして独立を宣言。
9日以来の体調不良のせいか、精神的に興奮し逆上している様子も見える。
「僕の不動の決心を打ち明けます。これは世界中の人に聞こえてもいいのです。ザルツブルクの大司教のもとで2000フロリンの俸給が得られ、他の地では1000フロリンしか得られないとしても、僕は他の地へ行きます。」
父レオポルトの手紙は全て失われているが、モーツアルトの父宛書簡を見る限り、レオボルトは執拗にモーツァルトに翻意を求めているように見える。
レオボルトはモーツァルトがこうした決心をかためたのには、ウェーバー家が絡んでいると推測し、それを責めたようだ。
モーツァルトは、5月16日付の手紙でレオボルトがこの家庭について述べたことはまったく当たっていないと反駁し、かつてアロイジアに夢中になった自分のことについては反省していると語る。
5月19日付けモーツアルトの父宛の手紙。
「まずなにをお書きしたらよいのかも分かりません。最愛のお父さん、ぼくはびっくりしてしまって自分が取り戻せないからですし、またあなたがこれからもそんなふうにお考えになり、そんなふうにお書きになるのでしたら、今後もだめでしよう。白状しますと、あなたのお手紙のどの行からも、自分のお父さんが認められないのです! - 確かに父親はいるでしょう。でも、自分の名誉と自分の息子の名誉とを案じている最良の、この上なく愛情の深い父親 - 要するにぼくのお父さんは認められないのです。」
5月26日付けモーツアルトの父宛の手紙。
「あなたのおっしゃることはまったくもってごもっともです。ぼくの言うこともまったく正しいように。最愛のお父さん!」
彼は父親を説得するのを放棄した。そして父親の気持とは無関係にヴィーンでの自分の計画を積極的に語る。
「ぼくは事態を自分が望むようにじっくりと考えてみたいのです。そうすれば、ぼくがヴィーンに残るのが、ぼくにとっても、あなたがた、最上のお父さんにも、また愛するお姉さんにも万事一番よい手助けになると思うのです。当地で幸福がぼくを迎えてくれるつもりのように思われます。 - ぼくは当地に留まらなければならないみたいです。」
この手紙で彼は具体的な活動の計画について積極的に語っていく。
弟子はあまり数を多くしないで、報酬を多くすること。予約出版(ヴァイオリン・ソナタ6曲の刊行)もうまく進んでいること。オペラ創作のこと。
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5月18日
・ペルー先住民の反乱の指導者トゥパック・アマルー、処刑。
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閏5月
・一橋治済(はるずみ)の長男豊千代、将軍家治の世子となる(のちの11代将軍家斉)。
田沼意次は、前年の家基の急死後、自分のの弟意誠(おきのぶ)が一橋家の家老であった関係で、治済と緊密に連絡しつつことを運んだ。
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尚、モーツアルトの手紙は
海老沢敏『モーツアルトの生涯』
(白水社Uブックス)よりの引用
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