2014年5月27日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(99) 「第11章 燃え尽きた幼き民主主義の火-「ピノチェト・オプション」を選択したロシア-」(その7) 「この犯罪的な資本主義の時代に、国民の一〇%が殺されたのです」 

江戸城(皇居)東御苑 2014-05-27
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「資本主義の持つ抗しがたい誘惑やとてつもないインセンティブ」
 ロシアで行なわれた「実験」の性質を考えれば、この種の「自己取引」は不可避だったのかもしれない。
当時ロシアで活動していた西側の著名なエコノミストの一人、アンダース・オスルンドは、ショック療法がうまく行くのは、「資本主義の持つ抗しがたい誘惑やとてつもないインセンティブ」のせいだと指摘する。
したがって、もし強欲がロシア再建の原動力になるのであれば、ハーバードの学者とその妻や恋人、そしてエリツィンのスタッフや親族は、自ら金儲けの熱狂に加わることによってまさしく国民に模範を示していたことになる。

とりわけシカゴ学派の経済学は腐敗を助長しやすいように思われる
 こから浮かび上がるのは、自由市場経済イデオロギーの信奉者たちに関してつきまとう重要な疑問だ。
彼らは、しばしばそう主張されるように、自由市場経済が発展途上国にとっての特効薬になるというイデオロギーや信念に突き動かされた「心底からの信奉者」なのか?それとも理念や理論を巧妙な口実にして、利他的な動機によることを装いつつ無制限の欲望に従って行動しているにすぎないのか?

 言うまでもなく、あらゆるイデオロギーは堕落しやすいものだ(それは共産党政権下のロシアで、党の政治局員がさまざまな特権を行使していたことにも明確に見て取れる)。
また、新自由主義者のなかにも誠実な人間がいる。
だが、とりわけシカゴ学派の経済学は腐敗を助長しやすいように思われる。
収益や欲望を大規模に駆り立てることが、いかなる社会においても可能な限り最大の利益をもたらすという考え方をいったん受け入れると、個人を豊かにするほとんどすべての活動は、それがたとえ自分や仲間だけを利するものであっても、富を生み経済成長を促す創造的な資本主義の活動に貢献するものとして正当化することが可能になってしまうからだ。

慈善家ジョージ・ソロスと投資家ジョージ・ソロス
 東欧でジョージ・ソロスが行なった慈善活動(東欧を駆け回るサックスの個人的費用を提供したことも含めて)にも議論の余地がある。
ソロスが東欧圏における民主化運動に精力的に打ち込んでいたことはたしかだとしても、彼がそうした民主化に伴う経済改革に経済的関心を寄せていたことも明らかだ。
世界一の為替投機家であるソロスであれば、各国が兌換通貨を導入し、資本規制を廃止した際には膨大な利益を手にすることになり、国営企業が競売にかけられた際には買い手となる可能性が十分にあった。

 ソロスが - 慈善家として ー 創設に手を貸していた市場から直接利益を得ることは、法的にはなんら問題はなかったものの、けっして良い印象を与えるものではなかった。
しばらくの聞、ソロスは自らの慈善財団が活動する国に自分の会社が投資するのを禁じることで、利害衝突が生じないように配慮した。
だが、ロシアの国営企業が売りに出されると、もはや誘惑に抗することはできなかった。
1994年、ソロスは自らの方針を修正した理由をこう釈明した。
「この地域では確実に市場が成長しており、私のファンドや株主がここに投資することを拒否したり、これらの国がそうしたファンドを入手することを拒否する道理もなければ権利もない」。

 ソロスは、たとえば民営化されたロシアの電話会社の株式をその年にすでに購入しており(結果的に投資は大失敗だった)、ポーランドの巨大食品企業の一部も取得していた。
共産主義崩壊の初期には、ソロスはサックスを支持することでショック療法による経済改革を背後で強く推進する側にいた。
しかし1990年代後半になると、彼は明らかに心変わりする。
ソロスは先頭に立ってショック療法を批判する立場に回り、自らの財団に対して、民営化の前に適切な不正対策を講じることに取り組むNGOに資金を提供するよう指示している。

ロシアをカジノ資本主義から救うには遅きに失した
 だが、ロシアをカジノ資本主義から救うには遅きに失した。
ショック療法はすでにロシアに、”ホットマネー”、すなわち大きな儲けを求めて短期間で移動する投機や為替取引の資金を流れ込ませていた。
こうした集中的な投機が行なわれたことは、アジアの金融危機が拡大し始めた1998年に、ロシアがまったく無防備だったことを意味する。
すでに危機的状況にあったロシア経済の崩壊は決定的になった。
国民はエリツィンを非難し、支持率は6%という容認しがたい数字にまで落ち込んだ。
オリガルヒの将来はふたたび危うくなった。
経済プログラムを維持し、迫りくる真の民主主義の脅威を食い止めるために、ロシアはさらにもうひとつの大きなショックを利用することになる。

ロシアはさらにもうひとつの大きなショックを利用することになる
 1999年9月、ロシアできわめて残虐な一連のテロ事件が勃発した。
なんの前触れもなく4軒のアパートが深夜に次々と爆弾攻撃を受け、300人近くが犠牲になった。
9・11を緯験したアメリカにとっては聞き慣れた話だが、この事件のおかげで他の問題はことごとく政治地図から吹き飛ばされてしまった。
ロシア人ジャーナリスト、エフゲニア・アルバツはこう話す。
「まさに恐怖そのものという感じだった。事件を境に突然、民主主義とかオリガルヒとかについての議論など、自分のアパートで死ぬ恐怖に比べたらどうでもよくなってしまったのです」"

プーチンの登場
 ”獣”どもを見つけ出してやっつける役目を負ったのは、8月に首相に就任したばかりの、冷酷でどこか陰険さを漂わせるウラジーミル・プーチンだった。
アパート爆破事件直後の9月半ば過ぎ、プーチンはチェチェンへの空爆を開始、民間人居住地域を攻撃した。
新たなテロの恐怖に怯えるロシア国民の多くにとって、プーチンが17年間にもわたって共産主義時代の最大の恐怖のシンボルであるKGBに在籍していた事実は、突如として頼もしく映った。アルコール依存のエリツィン大統領が徐々に機能不全に陥る一方で、国家の守り手たるプーチンは着々と次期大統領の座に就く準備を整えていった。
チェチェン紛争が本格的な議論を阻むなか、1999年12月31日、数人のオリガルヒの画策によってエリツィンからプーチンへの選挙なしでの静かな政権交代が行なわれた。政権を去る前、エリツィンは最後に今一度ピノチェトのやり口を採用し、刑事免責特権を要求する。
プーチンの大統韻としての初仕事は、汚職であれ、エリツィン政権下で起きた軍による民主化運動活動家の殺害であれ、エリツィンが刑事訴追を受けないことを保証する大統領令に署名することだった。
* ロシアの支配層に見られる大胆なまでの犯罪性を考えると、これらの出来事に陰謀説がついて回るのは驚くに値しない。ロシア国民のなかには、チェチェンは一連の爆破事件とは無関係であり、事件はプーチンをエリツィンの後釜に確実に据えるための秘密工作だったとする見方も根強くある。

大飢饉や天災、戦闘もないのに、これほど短期間に、これほど多くの人がこれほど多くのものを失ったことはなかった
 歴史的視点からは、エリツィンは恐ろしい独裁者というより、むしろ堕落した愚か者とみなされている。
しかしエリツィンの経済政策や、それを維持するために行なった戦争は、シカゴ学派の改革運動によって1970年代のチリ以降着実に増え続けてきた死者数を大幅に増やすことになった。エリツィンによる10月クーデターの犠牲者に加え、たび重なるチェチェン紛争では10万人に上る民間人が殺害されたと推定される。
虐殺はこれにとどまらない。エリツィンはもっとゆっくりとした速度で、数のうえではこれらをはるかに上回る大量虐殺 - 言い換えれば、経済的ショック療法の「付随的損害」を引き起こしたのである。

大飢饉や天災、戦闘もないのに、これほど短期間に、これほど多くの人がこれほど多くのものを失ったことはなかった。

ロシアの「経済改革」によって、たった8年間で7200万人が貧困に追いやられた
 1998年にはロシアの農場の8割以上が破産し、およそ7万の国営工場が閉鎖、大量の失業者が生まれた。ショック療法が実施される前の1989年、ロシアでは約200万人が1日当たりの生活費4ドル未満の貧困状態にあったが、世銀の報告によれば、ショック療法の「苦い薬」が投与された90年代半ばには、貧困ラインを下回る生活を送る人は7400万人にも上った。
ロシアの「経済改革」によって、たった8年間で7200万人が貧困に追いやられた。1996年にはロシア人の25%、約3700万人が、貧困のなかでも「極貧」とされるレベルの生活を送っていた。

共産主義の時代には少なくとも住む場所はあったが・・・
 近年、おもに石油と天然ガスの価格が急騰したおかげで、数百万人のロシア人が貧困から脱した。だが極端に貧しい底辺層は、社会から切り捨てられたゆえにさまざまな病を抱え、いつまでも貧困から抜け出せずにいる。共産主義時代には、暖房のないアパートに一家がすし詰めで暮らすという悲惨な状況ではあったものの、少なくとも住む場所はあった。2006年、ロシア政府はホームレスの子どもが71万5000人いることを認めたが、ユニセフの推定では350万人にも達する可能性があるという。

アルコール依存、薬物依存、自殺
 冷戦期には、ロシアにアルコール依存症が蔓延するのは、共産主義国家の生活があまりに陰うつで大量のウォッカなしには日々を過ごすことができないことの証だと、西側では考えられていた。
ところが資本主義に転換後、ロシア人のアルコール摂取量はかつての2倍に増えた。そのうえ彼らはもっと強い薬物にも手を伸ばしている。
ロシアの麻薬問題担当長官アレクサンドル・ミハイロフによれば、1994年~2004年、麻薬使用者の数は9倍に増えて400万人を超え、ヘロイン中毒も少なくないという。また、1995年、ロシアのHIV感染昔は5万人だったが、わずか2年間でその数は倍増し、国連合同エイズ計画(UNAIDS)によれば、2007七年にはほぼ100万人に達した。

 1992年にショック療法が実施されるや、すでに高かったロシアの自殺率は上昇し始め、エリツィンの「改革」がピークを迎えた1994年には、8年前に比べてほぼ倍になった。
殺人の件数も急増し、1994年の暴力犯罪の件数は改革前の4倍以上に膨れ上がった。

「この犯罪的な資本主義の時代に、国民の一〇%が殺されたのです」
 「私たちの祖国と国民は、犯罪に満ちたこの一五年間でいったい何を得たのでしょうか?」。
2006年に行なわれた民主化要求デモで、モスクワ在住の研究者ウラジーミル・グセフはこう叫んだ。「この犯罪的な資本主義の時代に、国民の一〇%が殺されたのです」。
実際、ロシアの人口は毎年約70万人という劇的な勢いで減少している。
ショック療法が年間通じて行なわれた最初の年である1992年から2006六年の間に660万人の人口が減少した。
30年前、シカゴ・ボーイズの一人でありながらフリードマンに反旗を翻した経済学者アンドレ・グンダー・フランクは彼に書簡を送り、「経済的ジェノサイド」の罪を犯したとしてフリードマンを糾弾した。今日、仲間の市民が少しずつ姿を消していく様子を同じような言葉で語るロシア人は少なくない。

富の階層化が進む今日のロシアでは、まるで富裕層と貧困層が別の国どころか、別々の時代に生きているようにさえ見える
 この企まれた悲劇をいっそうおぞましいものにしているのは、モスクワのエリートたち - 自らが蓄えた富を、ごく一部の石油産出国にしか見られないような形で誇示している人々だ。
富の階層化が進む今日のロシアでは、まるで富裕層と貧困層が別の国どころか、別々の時代に生きているようにさえ見える。
一方のタイムゾーンは、未来的な21世紀の歓楽都市へと急速に変貌したモスクワの中心街。オリガルヒたちが最精鋭のガードマンに守られて黒塗りのベンツを乗り回す一方、欧米の投資家は日中は投資話に浮かれ、夜には無料であてがわれた娼婦にうつつを抜かす。
片やもう一方のタイムゾーンである農村では、17歳の少女に将来の夢はと尋ねると、こんな答えが返ってくる。「ロウソクの灯りで本を読んでる私に二一世紀のことなんて話せるわけがない。二一世紀なんて私には関係ない。ここはまだ一九世紀なんだから」

議会への放火からチェチェン侵攻に至るまで過激なテロ行為が必要だった
 ロシアほどの資産に恵まれた国を略奪するには、議会への放火からチェチェン侵攻に至るまで過激なテロ行為が必要だった。
エリツィンの当初の経済顧問で、その後冷遇された一人、ゲオルギ・アルバトフは、「貧困と犯罪を生む政策は(中略)民主主義が抑圧された場合にのみ存続できる」と書く。
これは南米南部地域や非常事態下のボリビア、天安門事件の際の中国でも起きたことだった。そしてイラクでも、それがくり返されることになる。
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