2014年5月28日水曜日

延久4年(1072)12月 後三条天皇(39)譲位。 白河天皇(20、後三条天皇第1皇子の貞仁親王)践祚。後三条の院政はあったのか?(なぜ39歳の若さで譲位したのか?)

江戸城(皇居)東御苑 2014-05-28
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延久4年(1072)12月8日
・後三条天皇(39)譲位。
白河天皇(20、後三条天皇第1皇子の貞仁親王)践祚。
母は閑院権中納言公成の娘、春宮大夫能信の養女とし入内した茂子。
異母弟の実仁(さねひと)親王(2歳)を皇太弟と定めるが、応徳2年(1085)病没により、翌年11月皇子善仁親王(堀河天皇)を皇太子として即日譲位。自らは白河上皇となる。
譲位後も堀河・鳥羽・崇徳の各天皇が幼少で即位するため、以降43年に渡り政治の実権を握り続ける。
また、院の護衛として「北面の武士」を創設。その一方で仏教に傾倒し、永長元年(1096)出家して法皇となる。

後三条が次子の実仁親王を皇太弟としたことは、白河を中継ぎの傍系とし、実仁を皇統を継承すべき直系としたことを意味する。白河の生母茂子(もし)は公季流公成の娘で頼通の異母弟能信の養女で、実仁の生母は小一条院敦明親王の孫源基子(きし)。
白河の外戚である能長(能信の養子)・実季(公成の子)はともに摂関家の傍系で、白河の直系化は摂関家に取って代わる外戚家を生み出す危険性を孕んでいた。摂関家の交替など想定しない後三条は、そのような危険のない実仁を直系に指名した。

重要なのは、後三条が、今後の皇位継承は自分の意思で行うと表明したこと。
院政は、上皇=院が直系子孫である在位の天皇を後見する立場から最高権力を掌握する政治形態で、それを可能にする根拠は、退位して自由な立場にあることにではなく、皇位継承の主導権を握っているところにある。
後三条は、上皇が次の(そのまた次の)天皇を決めるという新しい皇位継承のあり方を作り出しり、摂関家から皇位継承の主導権を奪い取った。
しかし後三条の院政と彼の皇位継承構想は、延久5年(1073)5月の彼の死によって挫折する。

一方、白河は父後三条の死後も皇位にとどまり続け、実仁に譲位しなかった。
応徳2年(1085)、実仁が15歳で死去すると、翌年、中宮賢子所生の8歳になる長子善仁親王を立太子させ、即日譲位(堀河天皇)したが、堀河即位後も皇太子を定めなかった。それは故実仁親王の同母弟、輔仁親王の皇位継承資格を認めず、皇位継承権は将来生まれるはずの堀河の男子にあるということを、貴族たちにわからせるためであった。

こうして傍系として即位した白河は直系皇統の資格を獲得した。
また師実の養女賢子が生んだ堀河を即位させたたことは、白河と摂関家が協調関係にあったことを示す。

関白:藤原教通、左大臣:藤原師実、内大臣:藤原師通(左近衛大将)。
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12月21日
・後三条上皇、院庁(いんのうちょう)を開き、その後3回に分けて院司(いんのつかさ)を任命。

■三条上皇と敦明の小一条院
花山天皇のあと、一条、三条、後一条、後朱雀、後冷泉天皇は、三条天皇を除いて、いずれも在位中に没するか、その直前の譲位なので上皇としての活動はない。
三条は冷泉の第二皇子で、母は藤原兼家の娘超子。つまり母は道長の姉(=道長は三条の外叔父)。道長と三条は前代の一条の場合と同じミウチ関係にあったが、最初から反りがあわず、軋轢を増すばかりで、長和5年(1016)、道長は天皇の眼病を理由に敦成親王(=後一条)への譲位をはかった。
後一条は、一条の皇子であったから、三条上皇はミウチから排除され、翌年、失意のうちに没する。
ただし、道長は三条の譲位を迫るにあたって、後一条のあとは再び三条の皇子に皇統を戻すことを約束し、東宮に三条の皇子敦明親王を充てた。
従って、三条上皇が譲位後1年余で没しなければ、敦明の即位もありえたが、父三条の早すぎた死によって、東宮敦明の立場はいっきに悪化し、父の死の3ヶ月後、敦明は東宮を辞退。新東宮には後一条と同じ道長の外孫敦良親王(のちの後朱雀)が立てられる。
東宮を辞退した敦明に対して、「小一粂院」という院号が与えられた(上皇に準ずる待遇)。また、道長の娘の寛子が小一粂院女御となったので、小一条院は道長の婿ということにもなる。
道長は絶妙なバランス感覚で、三条の子孫の政治的命脈を断った。

■尊仁親王(=後三条)の誕生(東宮敦良(=後朱雀)と禎子の間)
小一条院の腹違いの妹に禎子内親王がいた。母は道長の娘の妍子。道長は、三条の中宮とした妍子に男子が誕生することを期待したがその望みは叶わなかった。禎子の誕生は、「不悦の気色甚だ露(あら)は、女を産ましめ給ふによるか」(『小右記』)と道長にとって不本意なもの。
この禎子は、万寿4年(1027)、東宮敦良(のちの後朱雀)の妃となり、長元7年(1034)、尊仁親王(のちの後三条)を生む。
この時の摂関家は道長の嫡子・頼通が継いでいた。
道長はきわめて多産で、多くの娘をもち、それが摂関政治の全盛をもたらした。妍子が三条中宮、彰子が一条中宮、威子が後一条中宮、嬉子が後朱雀女御と、四代にわたる天皇の中宮・女御を輩出し、彰子は後一条と後朱雀を、嬉子は後冷泉を生んだ。
頼通は、父道長のように多産ではなかった。頼通の唯一の娘寛子(小一粂院女御とは別人物)は、後冷泉の皇后に立てられたが、子女を生むことはなかった。
後冷泉にはほかに、後一条の皇女章子内親王が中宮として、頼通の弟教通の娘歓子が女御として入っていた。夭折したとはいえ、永承4年(1049)には歓子が、先に皇子を生む。そのため、同母の兄弟である頼通と教通の間も微妙な関係になった。

■後三条の即位
後朱雀は、第一皇子・東宮親仁(後冷泉)の次には、第二皇子・尊仁を皇位につけるつもりであったらしい。だが、関白頼通は、尊仁の立太子・即位を阻止したかった。
寛徳2年(1045)、天皇は病にかかり、親仁に譲位することになった。このとき、後朱雀の皇后禎子内親王の皇后宮大夫を勤める藤原能信(よしのぶ、頼通の異母弟)が、天皇をせきたてて、尊仁の立太子を実現させた。
能信は、尊仁が東宮になるや東宮大夫となり、その職を20年間もつとめる。能信が治暦元年(1065)没すると、能信の養嗣子能長(兄頬宗の子)が後継の東宮大夫となる。
かつて、小一条院敦明親王が、父の三条上皇没後、孤立無援となり東宮を辞退したのと比較した場合、尊仁親王の場合は庇護者がいた。
まず母禎子内親王、そしてその側近でもあった摂関家傍流の能信。しかも、摂関家当主の頼通は、後冷泉の伯父として外戚ではあったが、外祖父となる足がかりを失っていた。場合によっては弟の教通に外祖父の地位を奪われる可能性もあった。
こうして治暦4年(1068)、兄後冷泉(44歳)のあとをうけて、宇多天皇以来170年ぶりに、藤原氏を外戚としない天皇として尊仁(=後三条天皇)が即位した。
宇多は光孝天皇の第七皇子で、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘班子女王であった。次の醍醐の母は内大臣藤原高藤の娘胤子で、それ以後の天皇の母はすべて藤原氏出身だった。

■後三条の院政はあったのか?(なぜ39歳の若さで譲位したのか?)

①『愚管抄』『神皇正統記』『読史余論』
政務は臣下の摂政・関白が行い、天皇は宮中深くあるかなきかのようにしているという摂関政治のあり方に批判的な後三条は、退位ののちも上皇として政治を行うのがよいと考えた。しかし、退位翌年の急死によってそれが果たせなかった、という見方。
明治以降、黒板勝美・三浦周行などの歴史家もこれを支持。
近代歴史学で重視されたのは、譲位後ただちに院庁が設置され、公卿5人を含む7人の別当、主典代、公文などの院司が任命され、院蔵人所などの組織ももうけられたことなどであった。

②和田英松
譲位の理由を、
①在位中災害異変があいついだ、
②後三条の病気、
③藤原氏の娘が後宮にある貞仁親王(白河天皇)の子孫に天皇を継がせたくなく、異母弟の実仁親王(母は源基子)を東宮の地位につけておくため、という三点に求めた。
院庁は、それ以前の円融上皇の院庁などと本質的違いがなく、上皇としての治政とは直接関係がないとした。

③平泉澄
後三条の譲位は病気を原因とするもので、院政開始の意志や目的などはないとする。
「院政」は天皇制本来のあり方からすると変則的で、後三条のような政治に意欲的な「聖帝」が、そのような誤った政治形態を望むはずはない(あってはならない)。
平泉に代表される皇国史観では、政治はあくまでも天皇中心になされなければならないわけで、その点で摂関政治も院政も堕落した政治形態ということになる。
その二つにはさまれた、束の間の後三条による治世=後三条親政こそまさに「新政」というにふさわしい理想的な政治の姿であった。後三条親政こそ、鎌倉幕府と室町幕府の政治の間にぽっかりと生まれた理想的な後醍醐親政=「建武中興」と共通する性格をもっていると考えられた。

④吉村茂樹
後三条在位中の災害異変が譲位の原因になるほど突出したものでなかったこと、病気も譲位以前にさしたる重病は確認されず、死を早めた糖尿病も没年3月半ば以降(譲位後)であったと主張。
その上で、後三条譲位の目的は、藤原氏出身の茂子を母にもつ皇太子貞仁(白河天皇)即位のあとに、藤原氏ではない源基子が生んだ実仁を東宮とし、白河のあとに即位させる。その計画を確実にするために、早々に譲位して、実仁を東宮にしたのだという。
つまり譲位は王権の拡大という後三条親政の目的の延長線上にあり、摂関政治への回帰を阻止する目的をもっているのであって、院政開始の意図はないとした。
この説は、和田説の三つ目の論点(実仁即位という皇位継承)が目的であるという考え方を一歩進め、院政開始の意図を否定したという面で、『愚管抄』以来の説を否定したととらえられるかもしれない。しかし、摂関政治否定という意図のもとに、白河天皇よりも実仁を選択するということでは、『愚管抄』の記述をもとに主張されている。
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