2014年5月26日月曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(69) 「三十六 「門松も世をはばかかりし小枝かな」 - 戦時下の物資窮乏」 (その2) 「日米戦争は畢竟軍人の腹を肥すに過ぎず。その敗北に帰するや自業自得と謂ふ可しと。これも世の噂なり」 

江戸城(皇居)東御苑 2014-05-20
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昭和16年12月7日、日米開戦(真珠湾攻撃)の前日
荷風は物置きから、長らく使わなかった火鉢あんか置火燵(コタツ)を出してきて冬仕度をする。この冬からガスの供給もままならずガスストーヴが使えなくなったからである。これらの器具は20余年前に築地、柳橋で暮していたころに使っていたもの。
覚えず浅からぬ感慨にとらわれ、荷風は一句よむ。
「ながらへてまた見る火桶二十年」
不自由な暮しのなかのささやかな風流である。モノのない殺風景な暮しのなかでせめて俳句でも作って時局の厳しさを忘れたかったのだろう。この時期、「日乗」に自作の句がよく出てくる。

昭和16年12月30日
「午後掃塵。燈刻芝口の金兵衛に至りて夕飯を食す。おかみさん色紙を持来りて来春の句を乞ふ。左馬をかきて   門松も世をはばかりし小枝かな」

昭和17年1月27日
「ひとり居も馴れゝばたのしかぶら汁」

2月3日(節分の夜)
物不足を他人事のように笑い飛ばしている余裕を感じさせて面白い。
「立まきといヘど豆なき家の内 福は来らず鬼は追はれず」。当時の日本の国のようだ。

昭和16年以降、敗戦まで、荷風は一時の浮世離れを楽しむかのように実によく俳句を作っている。佗しさのなかの風雅である。

昭和17年12月1日
「吹きおこす炭火わびしや膝の灰」
「立消の粉炭うらむ日暮かな」

昭和18年6月4日
「雨の日や花なき庭のわか楓」
「捨てし世も時には恋し若楓」

昭和18年8月15日
「炭の香やしぐれ降る夜のさしむかひ」

”憂き世”を少しでも住み心地よくするための文人としての工夫であり、殺伐とした世に対するささやかな抵抗である。

昭和19年9月、知人と手紙で川柳のやりとりも楽しんでいる。
「秋高くもんぺの尻の大なり」
「亡國の調せはしき秋の蝉」
「秋蝉のあしたを知らぬ調かな」

軍人の闊歩する世の中への皮肉をユーモラスにうたっている。

この川柳を作った日(昭和19年9月7日)、
近ごろ軍人が民間人に缶詰を売りつけて利益を得ていることに憤慨して、激越な軍人批判を書き記している。
「日米戦争は畢竟軍人の腹を肥すに過ぎず。その敗北に帰するや自業自得と謂ふ可しと。これも世の噂なり」
「世の噂」とぼかしているが、軍人嫌いの荷風の率直な思いだろう。

昭和16年12月9日(日米開戦の翌日)
「開戦の号外出でゝより近鄰物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり」と記し、戦争に対しあえて距離を取ろうとする。紅旗征戎わがことにあらずの構えである。

昭和18年5月13日
「市兵衛二丁目長與男爵邸塀外に配給所の炭俵積重ねられたり。毎夜人定りて後俵を破り炭少しづゝ盗み来る。この夜は警戒警報發令中にて街路寂寥通行人杜絶え勝なれば大に収獲あり。明朝はガスを用ずして朝飯を炊ぎ得べし」
町内の配給所から、警戒警報発令中にひそかに炭を盗んでいる。

昭和19年6月29日にも同じような記述
「昨夜むし暑くして寐られぬ故むかし紐育にて讀み耽りたるラマルチンの詩巻などひらき見る中短夜はいつか薄明くなりぬ。表通の塀際に配給の炭俵昨日より積置かれたれば夜明の人通りなきを窺ひ盗み来りて後眠につきぬ」
炭泥棒とはけしからん、非国民だと目尻をたてることはあるまい。老荷風の茶目っ気たっぷりの遊びであり、ささやかな時局への抗いである。盗んだうえに、嬉々としてそのことを日記に書き留めている荷風はまるでいたずらっ子のようでもある。

昭和14年6月30日、
荷風はお上の金品供出令に抵抗して、「金品」というにはあまりにわずかな煙管や煙草入れをわざわざ浅草まで出かけ、吾妻橋から隅田川に投げ捨てている。
「むざむざ役人の手に渡して些少の銭を獲んよりはむしろ捨去るに若かず」(7月1日)と大見得を切るのだが、この行為も抵抗というにはあまりにいたずらっ子っぼくて微苦笑を誘われる。

とはいえ、こういう軍部批判を日々書き記している日記が万一、当局の手に没収されたら容易ならぬ事態になることも考えられる。したがって、荷風は用心に用心を重ね、ある夜、「日乗」を自己検閲し、また、家を留守にするときには、下駄箱に隠すように心がけるようになった。

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