花菖蒲 江戸城(皇居)二の丸庭園 2014-06-04
*明治37年(1904)
8月11日
・第3軍司令官乃木希典大将、「旅順要塞攻撃計画」を示達。
右翼より第1師団、東北正面を第9・11師団が突破。
乃木は「遅クトモ八月末ニ攻略ヲ期ス」と言明。但し、旅順要塞の状況、兵力の知識なし。
旅順ロの防備線は、清国時代とは一変し、強固にかつ近代的に整備されている。
3線の防備線には、永久・半永久型の堡塁・砲台がひしめき、在旅順口ロシア軍約4万7千のうち約3万3700が配置され、火砲488門、機銃43挺が配備。
陣地前の鉄条網は3m~4mの縦探を持ち、その鉄条網には電流を通じ、付近には地雷原も敷設。
要塞間の連絡には、被弾による切断をさけるために地下電線がはりめぐらされ、銃砲弾の備蓄も十分。
食糧は4万人が8ヶ月間持久できる量が用意され、食肉用として「牛二百八十八頭、山羊二千四十六頭、豚二百三十七頭、鶏多数」を確保し、清国密輸船を利用して食糧を買い入れた。
野戦病院も拡張され、「日露戦争」開幕当時は約千人を収容する設備しかなかったのを、合計3千400ベッドの規模に増やした。
これに対し、日本側第3軍司令部は、旅順口守備勢力を「守兵約一万五千人、火砲約二百門」と、実際の約1/3に見積っていた。
このロシア軍に対し、第3軍は、第1、第9、第11師団を基幹とする「兵力五万七百六十五人、火砲三百八十門」をぶつける。
乃木希典はこのとき56歳、陸軍大将になったばかり。
長州出身の職業軍人で、山県有朋に引き立てられ、明治4年軍制が出来るとすぐ23歳で陸軍少佐に任ぜられた。
明治10年の西南戦争では聯隊長心得として熊本県で戦い、植木坂で敗れて聯隊旗を失った。
38歳で少将になったとき、2年あまりドイツに留学し、鴎外森林太郎と交際した。
乃木は軍政の中枢に地位を占めるような第一級の軍人とは評価されていなく、43歳のとき少将で休職になった。
明治27年、日清戦争が近づくと、彼は起用されて、第1旅団長になり、旅順攻撃に参加した。
その年11月21日、彼の属する山路元治中将の第1師団は旅順港の背後の要塞を急襲し、1日の攻撃で旅順を陥落させた。
翌年4月、中将となり第2師団長に補せられ、台湾占領に赴き、台南に入城。
戦後、仙台に在任中に台湾総督に任命された。
その後、第11師団長となったが53歳のときに休職になった。
だが、この年(明治37年)、再度現役に戻され、日清戦争における旅順港占領の体験を買われて、旅順攻撃を目的とする第3軍司令官に任命された。
6月6日、乃木は塩太澳に到着。
その10日前の5月26日、第1師団歩兵第1聯隊の陸軍少尉であった長男勝典は、南山の戦闘で戦死していた。
乃木は上陸の翌日(6月7日)、南山の戦蹟を部下とともに視察した。
第3軍は6月初めから、左翼に第11師団、中央に第9師団、右翼に第1師団をおいて、南山の戦争のあと遼東半島の尖端にある旅順に向って進んだ。
途上、商港であった大連は簡単に占領したが、そのあと、勃海湾へ南西に伸びている遼東半島には、峻しい丘陵が幾つも続き、その一つ一つにロシア軍が拠って抵抗した。
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8月11日
・天皇、参謀総長山縣有朋元帥に対し、旅順総攻撃開始前に旅順ロの非戦闘が避難できる措置をとるよう、指示。
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8月11日
・堺利彦(32)、小田原に行き、6月末から加藤病院に入院中の妻を見舞い、1泊。14日、16日にも1泊。妻は18日に没。
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8月12日
・駐韓林権助公使、皇帝謁見。先の外部大臣承諾事項の許可を得る。
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8月12日
・黄海海戦後、芝罘港内に遁走したロシア駆逐艦「レシテリヌイ」を捕獲、日本海軍艦籍に入り「暁」を名乗る。国際問題となる。
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8月12日
・イエッセン少将指揮ウラジオ艦隊の第7回出撃。
午前6時、巡洋艦3。第2艦隊第2戦隊は蔚山沖、第4戦隊は山口県各島沖に布陣。
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8月12日
・川村純義、病没。
皇子迪宮(3)・淳宮(2)養育係。皇子は皇孫御殿に移る。東宮侍従長木戸孝正(孝允養子・幸一父)が養育担当。侍女足立たか(22、のち鈴木貫太郎後妻)。
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8月13日
・桂田富士郎、山梨県で猫の体内から風土病の病原中を発見、日本住血吸虫と命名。
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8月14日
・蔚山沖海戦
午前5時23分、第2艦隊(上村彦之丞中将)第2戦隊「出雲」、ウラジオ艦隊「リューリク」を砲撃。戦闘開始。日本側優勢。ロシア艦火災。
午前6時35分頃、第4戦隊(瓜生少将)「浪速」も戦場到着。
午前10時30分「リューリク」沈没。乗員620を収容。「ロシア」「グロモボイ」は辛うじて戦場離脱。
16日ウラジオ帰港(両艦とも将校半数・下士官25%が死傷。上村は追撃せず)。
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8月14日
・遼東守備軍編成。天皇直属司令官西寛二郎大将。遼東以南の兵站、守備、軍政担当。
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8月14日
・週刊『平民新聞』第40号発行
・幸徳秋水「トルストイ翁の日露戦争論を評す」。
社会主義の見地から批判、戦争防止策でのキリスト教との見解の相違点を示す。
この77翁の筆に成る「露国一億三千万人、日本四千五百万人の曽て言ふこと能はざるところを直言し、決して写す能はざるところを直写して寸毫の忌悍なき」勁健流麗の文、「……万丈の光彩陸離として……人をして起舞せしめずんは已まざるの概」を激賞。
だが、『平民新聞』記者はトルストイ翁の所論に全幅的に同意するものではない。
翁が戦争の罪悪、害毒、人心の頽廃、民生の悲惨を切言するのを読んで、もとより感歎崇敬を禁じないけれども、しかし将来この罪悪、害毒、頽廃、悲惨を救治防止する問題については翁と所見を異にした。翁の立言はキリスト教にもとづき、記者は社会主義の立場にあるからである。
記者は評していう。
翁が戦争の起因を説き、その政治の方法を述ぶるや滔々数千言、議論の巧、措辞の妙を極めるが、要するに人間が真の宗教を失ったからで、自ら悔改めて神意に従い隣人を愛し己れの欲するところを他に施せというにある。
だが、これはあたかも「いかにして富むべきか」という問題に対して「金を得るにあり」と答えるにひとしい。現時の問題を解決し得る答弁ではなくして、ただ問題に答えるだけである。
「吾人はこの点において、翁が一関いまだ透し得ざるを惜む。」
人はパンのみで生くるものではないが、聖書のみで生くるものでもない。一飯にだも飽くこと能わざる者が、どうして道を聞くに遑(いとま)あろうや。単に「悔改めよ」と叫ぶこと幾千万年に及ぼうとも、もしその生活状態を変じて衣食を足らしめるのでなかったら、その同胞相搏(う)ち人類相食むの状は依然として今日のごとくであろう。
吾人の所見によれば、今の国際戦争はトルストイ翁のいうように単に人々がヤソの教義を忘却したためではなく、実に列国の経済的競争が激甚なるためである。
そして列国の経済的競争が激甚なのは、現時の社会組織が資本主義制度を以てその基礎となすがために外ならない(本紙第21号社説「列国紛争の真相」参照)。
ゆえに将来国際間の戦争を絶滅してその惨害を避けようと思えば、現在の資本主義制度を変革して社会主義制度を以てこれに代えなければならぬ。
社会主義制度一たび確立して万民平等にその生を営むようになれば、人類は何を苦しんでか悲惨な戦争をおこす必要があろうや。トルストイ翁は戦争の原因を以て個人の堕落に帰するがゆえに、「爾曹(なんじら)悔改めよ」と教えてこれを救おうとするのである。吾人社会主義者は戦争の原因を以て経済的競争に帰するがゆえに、その競争を廃してこれを防遏(ぼうあつ)しようとするのである。
「吾人の翁と所見を異にする此の如し、しかも翁の言々実に肺腑に出で句々みな心血、直言忌まず党議悍からず、露国皇帝もまた一指を加ふる能はずして、その所論は直ちに電報を以て万国に報道せらる、翁もまた一代の偉人高士なる哉。」
英文欄「日本におけるトルストイの影響」
彼は初め大文学者として日本に紹介された。その最近作品の一なる「復活」の翻訳は、昨年わが国の新聞に掲載された。だが、文学者としての彼の影響は宗教的思想家たる、もっと偉大深遠な彼の影響に及ばない。
文学者もしくは宗教家としてのトルストイの使命は、しかし、恐らく彼の反軍国主義者としての使命ほどに顕著ではない。今や彼のイメージは日本人の眼に、時処を意に介せず大胆勇敢にその主義を声明する、無抵抗の権化として映っている。彼にとってはロシア人と日本人との区別なく、従って彼はこの残酷な戦争の責任に対して日露両国を非難糾弾するのである。
ロシアはトルストイのごとき偉人を有することを誇るであろう。ただし彼は一国家よりも、むしろ全世界の誇りとするところである。
ギリシャ教会は彼を迫害するを得ず、ツァーリ(霹国皇帝)もまた彼を国外に放逐するを得ない。
彼はロシア社会の不安定な地層の上に不動の山岳のごとく立つ。
ロシア人はトルストイがロシアから放逐されるよりも、むしろ満洲を失う方を選ぶであろう。
ロシア政府がトルストイに、言論の比較的な自由を与えている事実は、絶えず戦争に抗議している日本の社会主義者に間接の影響を与える。
もしロシアのごとき圧制的な政府にして、なおかつトルストイに爾(しか)く寛容であるとしたら、もっと文明で立憲的だと誇負している日本政府が、社会主義者に対して寛大な態度をとったとしても怪しむに足らぬであろう。
トルストイは完全に無害な人間である、ゆえにもし彼がロシア社会にとって危険視されるならば、それは彼の罪ではなくしてその社会に固有の欠陥のためである。
それと同じく、反軍国主義を抱懐する人々を迫害する政府はただ、それ自身に弱点を有することを立証するに過ぎぬ。
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8月14日
・第2インターナショナル第6回大会(アムステルダム)。~20日。片山潜出席、露社会民主党プレハーノフと交歓。共に副議長に選出。戦争反対決議。ヴェーラ・ザスリッチ、クララ・ツェトキン、ローザ・ルクセンブルク、インドのD・ナオロージー、参加(25ヶ国483人)。
委員は次の通り。
△イギリス ー ハインドマン、クエルチ
△北米合衆国 - へロン
△ドイツ ー アウエル、ジンゲル、カウツキー
△オーストリーー アドラー、スカレット
△ハンガリー ー ウェルトナー、ガラニ
△ベルギーー ヴァンダエルト、アンシール
△フラソス ー ヴァイヤン、プレッセン
△イタリー ー フェリ、チュラチ
△スイス -フュールホルツ
△ノルウェー ー クリンゲン、イェップセン
△スウェーデン ー プランチング、ウイックマン
△ポーランド - イエドルチェウスキー、ウォイナロウスカヤ(女性)
△フィンランド ー カリ
△ポへミヤ ー ネメーク、スークープ
△セルヴィア ー ストヤノリッチ
△アルゼンチン共和国 - カムビエー、ウガルテ
△スペイン ー イグレシア、クエジド
△日本 - 片山潜
△ロシア ー プレハーノフ、クリチェウスキー
△オランダ ー トロールストラ、ファン・コール
8月14日。
会議は、ファン・コール議長(主催国オラソダの社会党首)の左右に副議長に選ばれたロシアのプレハーノフと日本の片山清が着席して始まる。組織委員会を代表するトルーストラの開会演説ののち、フアン・コールが、各国代表、なかんずく自国政府が戦争しているとき普遍的平和を主張する勇気をもつロシアと日本の代表に歓迎の言葉を送ると述べると、満堂の拍手の中で、片山潜とプレハーノフは立ち上ってかたく握手をかわした。
ファン・コールの演説のあと、片山は各国の出席者を前に、英語で演説し、クララ・ツェトキンがドイツ語に翻訳し、ローザ・ルクセンブルクがフランス語に翻訳した。
「私はここでロシアの社会主義者、勤労者を代表する人々と同席することがなによりもうれしい。行なわれている戦争は資本主義の最大の幸と最大の利益のために進められている恥ずべき戦争である」。
次いで、片山は1894年以来の日本の社会主義運動の発展を紹介。
これに対し、プレハーノフは、「日本のプロレタリアートに戦争をしかけているのはロシア人民ではなく、ロシア人民の最悪の敵、ロシア政府である。ロシアが勝てば、敗けるのはロシア人民だということであろう。・・・
ロシア政府は外見でのみ強そうなだけで、実は粘土足の巨人である。日本はいまこの巨人の片足を折っている。日本は圧迫された諸民族に代って復讐しているのであり、ロシア政府は自国人民の隷属によって敗北を償っているのだ。ロシア政府は文明の敵である。」と述べて拍手をうけた。
片山は、ここで日本社会主義者の反戦提案を紹介。
「日露戦争は畢竟両国における資本家政府の行動に過ぎずして、為に両国の労働社会は至大の損害を受けざる可らず、故に吾人日本の社会主義者は茲に来る八月アムステルダムに開かるべき万国社会主義大会の各員に向って、彼等が自国の政府を督励し、速かに日露戦争の終局を告げんが為めに、全力を尽すべき決議の通過せられんことを求む」
この提案にこたえ、フランス代議員の提議によって以下の決議案を満場一致で可決。
「万国の労働者と社会主義者の合意と連帯活動は国際平和の本質的な保証であることに注目しつつ、ツァーリズムを戦争と革命が同時に脅かしつつあるまさにこのときにあたり、大会は、資本主義と自国政府の犯罪により殺戮されている日本とロシアのプロレタリアに兄弟の挨拶を送る。大会は国際平和の守り手、万国の社会主義者と労働者に一切の戦争拡大に全力をあげて抵抗するようよびかけるものである。」
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