2017年9月24日日曜日

東京国立近代美術館 藤田嗣治《武漢進撃》をじっくり鑑賞した 2017-09-22 / (年表)昭和13年10月27日 日本軍の武漢三鎮占領 ~ 10月30日 蒋介石「全国官民に告ぐるの書」

9月22日、東京国立近代美術館。
藤田嗣治《武漢進撃》1938-40

藤田の戦争画といえば、アッツ島、サイパン島、ハルハ河の大作を連想するが、この武漢進撃はそれらの大作に比べると素っ気ない印象を持っていた。いつも大概は素通りだった。

今回、時間に余裕があったのでじっくり鑑賞させてもらったが、ぱっと見では判別できないけれど、なかなか細かいところまできっちり描かれていることがわかった。

▼よほどじっくり見ないと、揚子江対岸の建物の様子などは識別できない。
(実際にはしっかり描かれている)

▼船の配置が示されている

▼絵の中央部分。
左がヤエヤマ、右(中央)がクリ

▼クリの更に奥の戦艦、対岸の景色までもしっかり描かれている。



▼ヤエヤマの船上

【黙翁年表より】
昭和13年
10月27日
・日本軍、武漢三鎮占領。26日、漢口・武昌、27日、漢陽。
既に日本陸軍は中国戦線に23個師団(70万人)投入。日中戦争は本格的対峙の段階に入る。

漢口攻略参加日本軍30万超、戦死9500・戦傷2万6千損失。
作戦終了時の日本の兵力配置は、中国に24個師団(華北8、華中13、華南3)、満州8、朝鮮1、内地は近衛師団のみ、台湾は軍司令部があるのみで、手持の動員可能師団は皆無。
前年(昭和12年)7月、盧溝橋で戦闘が始まった時、石原参本第1部長は陸軍省に対し、「現在の動員可能師団は三十個師で、そのうち十五個師しか支部方面にあてられないから到底全面戦争は出来ない。然るにこのままでは全面戦争化の危険が大である。その結果は恰もスペイン戦争におけるナポレオン動揺、底なし沼にはまることになる」と訴えたが、事態はまさにその通り、「重慶軍はどんどん奥地へ引き揚げて日本は手のつけようがなくなってしまった」。
対ソ軍事バランスも大きく崩れ、13年末の在極東ソ連軍24個師団に対し、在満鮮日本軍は10個師団。日本にとって安心材料は、張鼓峯で「ソ連が立たないことを確かめる」ことが出来たこと。

漢口への道は苦難の道。
至るところ破壊された悪路を行く第2軍の補給が第1の問題。食糧は、最初から現地徴発の計画で、作戦が秋期に組まれたのは、現地で穀物が実っている収穫期を狙う意味があったという。次に、第2軍には大別山系、南西の第11軍方面には廬山山系があり、南山系が漢口前面の自然の防壁となっている。中国側はこの山中を要塞化して日本軍を迎えうち、日本軍は大きな損害を出す。
10月26日、揚子江北岸の第6師団が漢ロに突入、占領するが、第2軍はまだ大別山系を抜けられなく、漢ロに入った第2軍兵士は、補給のよい第11軍兵士よりみすぼらしい恰好であったという。
大本営はこの作戦で、徐州で逃げられた中国軍主力の撃滅を期したが、その目的は達せられず。
しかし、漢ロを失い、広東を占領され香港への道を塞がれた事は、四川省重慶に移った国民政府にとって、軍事約・経済的な大きな痛手であり、その上に政治的打撃を加えれば国民政府を倒せるであろうというのが、日本側の思惑。

武漢まで進撃した日本陸軍は、そこで進軍を止める
武漢の西270Kmの宜昌以遠に広がる峨峨たる山波と心細く続く「蜀の桟道」の走破は困難。一方、海軍も宜昌より上流の「長江三峡」と云われる揚子江の峡谷地帯、難所の遡航作戦もまた困難。
中支那派遣軍司令官畑俊六大将は、「国民の注意を促したいのは武漢は陥落したが、戦争は断じて終幕を告げたのではないということである。引続き敗敵を追究、残敵を殲滅しなければなら」(「東京日日」10月29日)ず、「事変の前途はなお遼遠にして、これが解決には更に挙国一致堅確なる決意を要することを切に痛感する」(「同」11月4日)と語る。
この大作戦も戦争収拾の展望を開くものではない。
兵站線は延び切り、漢口・広東が日本の軍事力の限界である。これ以降、間欠的な局地的作戦は実施されるが、大規模侵攻作戦は行われなくなる。

漢口W基地の建設。
大武漢とも武漢三鎮とも称される3地区(漢ロ、武昌、漢陽)の内、揚子江沿い漢口に現地司令部や需品供給所が次々に開設。陸海軍航空隊所属の爆撃機、戦闘機、輸送機が集まって来る。
揚子江に面した日本軍の接収地「軍事区」に倉庫群の建設が急がれ飛行場整備から慰安所づくりまで慌ただしく進む。中国人は「特区」又は「日本区」と呼ばれる軍事区に住めず、背後の難民地区に押し込められ、「安居証」なしには外へ出ることは許されない。
日本側は、武漢攻略後の戦争指導に関し、これ以遠の地上進攻は考慮外という一点では、政府・軍中央・派遣軍3者の認識は一致。行く手には大巴山脈の連峰が立ちはだかり、武漢より上流の揚子江に艦隊を進ませるのは不可能。また、陸軍はこの時迄に手持ち兵力のほぼ全力を投入し、日本本土に近衛師団を残すのみという状態で、補給線も伸びきり、新戦線を設定する弾力性はなく、武漢をもって地上部隊の攻勢終末点とする案を受け入れる。
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10月27日
・仏、【フランス人民戦線崩壊】急進社会党マルセイユ大会、共産党との絶縁決定。ダラディエ仏首相、人民戦線離脱を宣言。11月10日、人民戦線全国委に通告。人民戦線崩壊。
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10月28日
・第1期2次国民参政会。~11月6日迄、重慶。徹底抗戦強調。
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10月28日
・天皇、初めて白馬「白雪」に乗り、二重橋の正門鉄橋に現れる。
「御馬上御颯爽たる大元帥陛下の御英姿を拝し奉った民草はこの恩ひがけぬ光栄に感激その極に達し、一斉に最敬礼申上げ感泣して万歳を奉唱したのであった」(「東京朝日」29日)。
侍従の入江相政はこの模様を、「お上は御乗馬で二重橋の鉄橋へ御出ましになる。民草の旗行列を御覧になる。非常に御満足げに拝した」と記す。
この日夜、天皇は香淳皇后と共に再び提灯をもち30分間、再び正門鉄橋に現れる。
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10月28日
・近衛首相、仏印経由援蒋物資に対仏警告
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10月28日
・商工省、木炭ガスの国策乗用車5種を発表。
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10月28日
・ドイツ国内のユダヤ系ポーランド国籍所有者1万5千人に国外退去命令。ドイツ・ポーランド国境に強制移送。
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10月29日
・外相有田八郎任命(9月30日に宇垣が辞任し、近衛が兼任していた)。八田嘉明、拓務大臣に就任。
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10月29日
・大島浩駐在武官、駐独大使就任
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10月30日
・蒋介石、「全国官民に告ぐるの書」。
「わが国の抗戦の根拠は広大深長の内地にあり・・・勝敗の鍵は持久抗戦力の保持にある。保衝武漢の任務は終り、目的はすでに達せられた」<抗戦第一期の終り>

「わが抗戦根拠は、狭小な沿江、沿岸地帯ではなく広大深遠な奥地にある。武漢保衛戦の意義は、敵の西進を阻滞させ、敵の実力を消耗し、わが後方交通を準備して必要な武器を輸送し、わが南東と中部の工業を奥地に移転させ、北西、南西の交通経済の建設を進行させることであった。今や戦局の転換と長期政策の必要から武漢を放棄した。これをもって戦勢の不利とか退却と考えてはならぬ。軍事的には守勢から攻勢への転換を画するものである」

「敵は一時武漢を占領したがそれは十一カ月の月日を費やし、数十万にのぼる死傷者の犠牲を払わせられた結果なのだ。しかも敵が手に入れたのは焦土と空っぽの都市であった。敵は武漢で我が主力を撃滅して短期決戦に勝つという重要目的に失敗した。今後我々は全面的抵抗を展開するであろう。我が軍の移動は退却であろうと前進であろうと制限されない自由なものとなるであろう。主導権は我々とともにあるだろう。これに反し敵は何一つ得るところがない。敵は泥沼に深く沈んでますます増大する困難に遭遇し、ついには破滅するであろう」(董顕光「蒋介石」)

抗戦首都・重慶。
武漢陥落~重慶の根拠地建設の間、沿海・沿岸地方から1千万近くの人口が、戦火に追われ、また抗日の意気に燃え、西南・西北地方に移る。
うち700万は四川省に入り、100万以上が四川省第2の都市・重慶(武漢から、江の流れで1370Km、飛行距離780Km、人口33万9204人)とその周辺に居を定める。

①北平(北京)の故官博物院の文物2万箱は「満州事変」直後、南京博物館に移され、ここで3群に分散、うち1群が武漢~重慶に持ち込まれ、後に峨眉山のふもと楽山の村に隠される。
②日中戦争開始時の108大学・4万余の学生のうち52校が四川省などの後方地区に移り、19校が重慶に移る。抗戦前の重慶大学・四川省立教育学院2校が、中央大学(南京)・復且大学(上海)・交通大学(同)など総合大学、国立音楽学院(南京)・国立芸術専科学校(杭州)・国立江蘇医学院(鎮江)など専科大学のほか、陸軍大学・兵工学校もま移設。これら大学は、重慶の「二大文化区」と呼ばれる、市内の沙磁区と郊外の白砂鎮に集まる(沙磁区はやがて日本軍機の集中爆撃を受ける)。周恩来の学んだ天津の南開中学校も校長張伯苓と共に移って来る。
③重慶を発行地とする主要紙は、朝刊10紙・夕刊3紙で、通信社は国民党統制下の中央通訊社(中央社)に代表されるが、「大公報」(上海)、「中央日報」(南京)、「掃蕩報」(武漢)など有力紙は移入組に占められる。これら新聞のなかには中国共産党が国民党地区で発行する唯一の日刊紙「新華日報」も含まれる(1938年1月11日武漢で創刊され、同10月25日付より重慶に移転、47年2月28日、国民政府によって強制停刊させられるまで3231号、9年1ヶ月18日に亘る)。「新華日報」を指導したのは「八路軍重慶代表」「中共中央南方局書記」周恩来で、周自身たびたび社説の筆をとり蒋介石の反共政策を激しく非難、発禁措置に抗議。
④商務印書館、中華書房、生活書店など出版社も、重慶に本拠を移す。上海で抗日救国の論陣を張っていた鄒韜奮は、武漢~重慶に移り「全民抗戦」(週刊)を発行し、生活書店の支店網を全国50余ヶ所に拡大、国民党の弾圧と戦いながら、進歩的言論活動の第一線に立つ。
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10月30日
・米、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』をラジオ用に脚色した「火星人襲来」をオーソン・ウェルズが放送。あまりに真に迫っていたためパニック。
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