鎌倉 英勝寺
明治39年(1906)10月・添田唖蝉坊『喧嘩坊流生記』の口絵写真には、この年の秋頃のもので、唖蝉坊、堺利彦、中里介山、渡辺政之輔、福田英子らと夢二が写っている。
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・漱石(39)、「二百十日」(「中央公論」)
「中央公論」10月号に、夏目漱石「二百十日」、島崎藤村「家畜」、独歩「入郷記」の3編が載り、この月の最も注目を浴びる内容となった。それは年若い編輯者滝田樗陰の着想と努力によるものであった。この時期から、「中央公論」の文芸は少しずつ文壇で特に重視される気配が生れた。
漱石は1906年9月10日付高浜虚子宛の手紙の中に、
今度の中央公論に二百十日と申す珍物をかきましたよみ直して見たら一向つまらない。二度よみ直したら随分面白かつた。どう〔いふ〕ものでせう。君がよんだ〔ら〕何といふだらう。又どうぞよんで下さい。
(『漱石全集』22巻)
と。
虚子は読んで、「論旨に同情がない」、「滑稽が多過ぎる」、「不自然と思ふ」と評したのに漱石は抗弁している(10月9日付虚子宛書簡)。
漱石は「二百十日」に、圭さん碌さんの二人を配し、二人の会話から、当時の社会状況を批判している。滑稽な会話もあるが、華族や金持ちにたいする憤慨を吐露している。社会主義的な意識を貫き、反体制的な作品でもある。二人の次のような会話がある。二人の青年は阿蘇山に登ろうとしてその近くにいる。
「なあに仏国の革命なんてえのも当然の現象さ。あんなに金持ちや貴族が乱暴をすりや、あゝなるのは自然の理窟だからね。ほら、あの轟々鳴って吹き出すのと同じ尊さ」
(中略)
「僕の精神はあれだよ」と圭さんが云ふ。
「革命か」
「うん。文明の革命さ」
「文明の革命とは」
「血を流さないのさ」
平出修は「二百十日」にたいし、同年十一月号「明星」の「文芸彙報」の中で、
中央公論の秋期付録に夏目氏の『二百十日』、島崎氏の『家畜』何れも期待した程のもので無かつた。
(『定本平出修集」)
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・長谷川天渓「幻滅時代の芸術」(「太陽」)10
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・島村抱月の主筆する「早稲田文学」の「彙報」欄が、近時の文壇の新傾向を代表する3冊として、藤村「破戒」、漱石の短篇集「漾虚集(ようきよしゆう)」、独歩「運命」を取り上げて論じた。
それは、
「小説壇の新気運は本年の春に入って、稍発動し始めた観がある。其以前のしばらくの小説壇にはさして著しい現象も見えず、大体に於いて在来既に名を成せる人々の馳駢に任せてゐるの観あり、夫等の人々に在つても、未だ斯壇に生面を開展し来たるといふが如き態度をば取らず、所謂写実小説といひ、家庭小説といふ在来の風潮を追ふに止まってゐた」
と述べ、この頃の新しい傾向を代表する作品は、在来文壇の別方面で名を為していた者又は、未だ小説壇で名声を得なかった作家たちによって書かれたとして、この3冊を代表的に取り上げていた。
独歩「運命」については、その他に「文庫」では小島烏水が、「太陽」では長谷川天渓がこれを取り上げて賞讃した。国木田独歩の作家としての地位は、数え年36歳になって出版したこの「運命」によって確立した。
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・徳田秋声(36)「佐十老爺」(「新小説」)
秋声は前年(明治38年)10月「新潮」に「お俊」を、11月独歩の経営する「新古文林」に「昔の恋人」を、12月「新小説」に「侠美人」を、同月「新声」に「正直もの」をと次々と書いた。
またこの年(明治39年)1月には「時事新報」に「亡母の記念」を連載、2月「文芸界」に「学士の恋」、3月「太陽」に「生死」、4月「中央公論」に「ひとり」、6月「新潮」に「悪徒の娘」、7月「新小説」に「老骨」、10月「新小説」に「佐十老爺」をと書いた。しかも多くは巻頭の小説であった。
彼の作家としての地位は次第によくなっていたが、作品には硯友社風の古い書き方かつきまとっていて、この時の文壇の流行になりかかっていた近代的写実の手法からは遠いものであった。
秋声は、明治39年、数え36歳、2児の父になっていた。この年は師の紅葉が死んでから4年目、秋声は硯友社の末流の1人として、栄えない作家の1人であった。
日露戦争中の明治37年から38年にかけて文壇は沈滞し、秋声は辛くもその生活を支えていた。「文芸倶楽部」「新小説」「文芸界」のような文学雑誌ですら、戦争を描いた作品が多く載せられた。江見永蔭、遅塚麗水、山岸荷葉、田口掬汀などが戦争小説の主な筆者であった。純文学の作品を発表する舞台は狭くなり、生活の前途は暗澹たるものに感じられた。
紅葉の死と前後して、硯友社に反旗をひるかえすような写実主義の新風が小杉天外や田山花袋の作品によって興った。また戦争の終り頃の明治38年からこの年、明治39年にかけて、夏目漱石や島崎藤村の新作が世評のまとになっていた。
秋声はゾライズムには関心を寄せていたが、そういう新しい作風を要領よく取り入れることはできなかった。35歳という相当の年齢となりながら、文壇から浮き上った存在になっていた。
戦争中、彼は生活に困って、多少戦争に関係のありそうな題材の小説「通訳官」を書いて春陽堂へ売りに行ったことがあり、「新潮」には「召集令」という短篇を書いた。また明治37年12月から「万朝報」に「少華族」という長篇小説を連載し糊口の資を得ていた。それを書き出した頃、秋声は結婚以来住んでいた小石川表町の、友人の田中千里の借家を出て、本郷森川町の借家に移った。「少華族」は完結して、明治38年夏、2冊本に分けた上巻が春陽堂から刊行された。
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・三木露風、「雨ふる日」「古径」「鑓鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表。
「芸苑」は、明治35年2月上田敏が文友館から出し、1冊で廃刊にしたものであるが、明治39年1月から、馬場孤蝶、生田長江、森田白楊等とともに再興して左久良書房から刊行していた。三木露風は明治38年10月に出た上田敏「海潮音」の影響を受けたが、上田敏も露風の才能を認めて、明治40年に入ると、毎月のようにその作品を「芸苑」に載せた。
露風は「芸苑」に作品を発表するとともに、尾上柴舟の事前草社から離れて、詩作に専念するようになった。
明治40年4月、露風は、早稲田系統の雨情野口英吉、御風相馬昌治、介春加藤寿太郎、東明人見円吉等とともに、早稲田詩社を組織した。このとき、露風は数え年19歳、野口雨情26歳、相馬御風25歳、加藤介春23歳、人見東明25歳であった。露風以外の4人は、人見束明が明治38年11月から麻生茂という醸造家の出資で出していた詩の雑誌「白鳩」に執筆していたメンバーであった。だがその「白鳩」は、明治39年4月で廃刊になっていた。
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・堺利彦、月初めに淀橋町柏木343番地(現・新宿区北新宿1丁目)へ引っ越し(その後、柏木314番地、柏木104番地と住所変更)。
同時に、由分社を解散して『家庭雑誌』は大杉栄・堀保子夫妻の手に譲渡。
『家庭雑誌』(1906年11月号)には、「俄かに色々の都合から由分社が解散されることになり」「其等の片の付くまで一時本誌を休刊せねはならぬ次第に立至った」とのみ書かれているが、これは第2次『平民新聞』発刊が決まって、堺はその準備に専念する必要があったから。
以後、『家庭雑誌』は大杉夫妻が発行していたが、1907年6月に大杉が新聞紙条例違反で入獄したため、発行人を平民書房主人の熊谷千代三郎に委ねることになった。
その後、同誌が終刊すると、赤旗事件で大杉が入獄中、生活に窮した妻の堀保子が1909年4月に復刊を図る。しかし、第4号が発行停止になり、ついに幕を閉じる。
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・与謝野鉄幹、北原白秋、茅野蕭々、吉井勇ら紀伊に遊ぶ(伊勢・紀伊・和泉・摂津・大和・山城などを旅行)。この時、佐藤春夫は14歳新宮中学3年。
紀州は鈴木夕雨(歌人、木本町紀南新聞社長)の招請。
8日、大石誠之助は与謝野らを歓迎し、新宮林泉閣で歓迎会を開き、翌9日、談話会をもっている。与謝野らは大石の甥の西村伊作の家にも泊った。こうして与謝野と大石は知り合った。牧師沖野岩三郎が新宮キリスト教会へ赴任したのは教師試補として翌年6月であるから与謝野はこの時は沖野に面会しなかった。
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・ハーグの国際仲裁裁判所、米・加間の漁業権問題を調停し、解決。
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・モディリャーニ(22)、パリ、モンマルトルのコランクール街に住み、未来派画家ジノ・セヴェリーニと友達になる。ユトリロと飲みあかしたりする。
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