2017年9月25日月曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その5) 10月8日 第1回軍法会議(午後の尋問) 甘粕が子供の殺害を否認する

大正12年(1923)
10月8日 第1回軍法会議
(午後1時15分、審理再開)

- 大杉を殺して野枝のいる部屋に行ったのはどれくらいしてからか。
「四、五十分くらい経ってからでした。私が部屋に入っていくと、野枝は子どもと何事か話していました。私は野枝に向かって、戒厳令を出すとは君らからすれば何と馬鹿なことをするのだろうと思うだろう、軍人の行動が馬鹿馬鹿しく見えるだろうと言いますと、野枝は、でも今日この頃では兵隊さんでなければならぬよう言うではありませんかと、机に頬杖をついて冷笑しながら答えました。
その態度がいかにも人を侮蔑したように見えましたので、私の殺意はここで一段と堅くなりました。私がつづけて、君らは今より一層混乱状態に陥るのを望んでいるのだろう、それを材料にして原稿を書けば、よく売れて結構だろうと申しますと、野枝は、すで二、三の本屋から注文がありました、とにかくあなたたちとはそもそも立場が違うのですからと、むしろ混乱がつづくことを望んでいるようなことを言いました。
これにはもう我慢ができず、子どもをちょっと隣室に連れて行って部屋に戻り、壁に近い椅子に腰かけていた野枝を、大杉とほとんど同様の方法で殺しました。大杉のときより多少骨は折れましたが、やはり十分くらいで絶命しました。野枝は二、三回ウーウーうめき声を発し、私の手をひっかいたように記憶しています」

- 野枝の活動に対する被告の考えはどうだったのか。
「別に深くは考えていませんでしたが、注意すべきだとは思っておりました。すでに検察官に述べた通り、野枝は震災当時、爆弾を所持し、大杉と共に活動する計画だと聞きました。といっても、それ以上の具休的なことについては調べませんでした」

- 野枝を殺害しようとは考えていなかったのか。
「殺害しようとは考えていませんでした。同行したときもまだ決めていませんでした。ただ一緒に来たらもっけの幸いだとは思いました」

- 幸いとは殺すのに幸いということか。
「場合によってはやってもいいと思っていました」

- 場合というのは、簡単に出来ればという意味か。
「単に簡単にできるという意味ではなく、いろいろな意味を含んでいます。野枝が大杉に共鳴した社会主義者であることは承知していますが、連れてくるまでは付和雷同的な女くらいの認識しかありませんでした。しかし、外国の歴史を見ましても、女が導火線になって革命を起こした例はたくさんあります。
大杉を殺害して野枝をそのまま放っておくと、さらに乱暴になりはしまいか。そうだとすれば、むしろ殺した方がよいのではないかと考えました。そして、大杉を殺してから野枝といろいろ話しているうちに殺害の決心を固めたのです」

ー 野枝を殺害するとき、子どもはどうしていた。
「隣室で騒いでいましたが、その部屋に入って無意識に殺しました。その方法は記憶していません。たぶん大杉と野枝をヤッツケたのと同じ方法でやったと思います」
それまで堂々として雄弁だった甘粕は、この質問には伏目がちとなり、声も小さく途切れがちになった。甘粕はひたすら「無意識でやりました」で押し通そうとした。

小川判士はこう質問した。
ー その後分隊に帰って事務をとったということだが、無意識で子どもを殺した者が落ち着いて事務などとれるのか
3人を1時間足らずのうちに殺害し、その後、自分の部屋でふだん通り仕事をしたという甘粕の供述は不自然)

■続いて、共犯とされた森への尋問
森は、憲兵としての経歴から、社会主義に対する感想や、震災後特別高等課長兼務となった甘粕の命令で大杉らの言動に関する調査を行った経過を述べた。甘粕が震災後特別高等課長兼務となったというのは、森のこの供述が始めて(真偽は不明)。森は東京憲兵隊本部特別高等課係員。

大杉殺害計画について甘粕から聞かされていたかという質問
「具体的ではありませんでしたが、大尉殿からこの際、大杉をヤッツケようとは申されました」

大杉らを連行するまでの経過をは甘粕の供述と大同小異。
「隊では私が子どもの手を引き、大杉夫妻はその後に従いました。裏手からわからぬように入ったので、私たちが帰ったことは他の同僚は知らないようでした。私は特別高等室から茶を持ってきて大杉らに与え、夕食も与えましたが、夫妻は既に済んだといって手をつけず、子どもだけ食べました。
大杉は持参の梨をむいて食べたようでしたが、私は梨をむく小刀をとりに司令部の廊下に出たとき、大尉殿は私に何かの暗示を与えたようでした。大杉のいる部屋に戻って、大杉に対し、隊長殿が取り調べるがそれでよいかと聞くと、よろしいとの返事でした。大尉殿も大杉を取り調べるため、応接室に入れたと思ったからです。まさか、その部屋ですぐ殺すとは思っていませんでした」

- 予審詞書を見ると、両人打ち合わせた上で殺害に及んだようだが。
森は言下に否定。
「打ち合わせてヤッツケると決めたわけではありません。場合によったらやるかもしれぬと想像していただけです。ですから大尉殿が絞殺するときも、ボンヤリそばで見ていたくらいです。大尉殿は先ほど、大杉のもがく足を押さえたかのように申されましたが、私にはそうした記憶がありません。ただ、大尉殿が誰か見ていないかと言われたようでありましたから、廊下に出てあたりの様子は見ました。
それから部屋に戻ると、大尉殿は大杉の首に既に縄を巻いておられました。私がもう生き返りませんかと聞きますと、もう舌をだしているから大丈夫だろうと申されました。大杉はそのときロから血を吐いていました」
(山根倬三は、森の陳述を開く甘粕の顔に苦笑が浮かんだ、と書く。甘粕は自分一人で罪をかぶる覚悟をしていたが、森からそこまで言われるとは思っていなかったのか)。

判士は甘粕に森の陳述との矛盾を質問。
- 森の陳述は被告が申し立てたことと少し異なった点があるようだ。森は大杉のもがく足などは押さえていないといっているが、どちらが本当か。
「私は足を押さえよと申しましたが、森が押さえなかったというなら、或いは押さえなかったのかも知れません

甘粕の官選弁護人、塚崎直義の質問
- 被告が祖先について知っているだけのことを申し述べてもらいたい
「私の祖先は新田義貞から出たものであります。かの川中島の戦いのとき、上杉謙信の部下として戦場に武名をあげた甘粕近江守はその末裔にあたり、歴史上に現れたのはこのときからであります」

- 被告人は日頃からたいへん子どもを愛しているようですが、それはなにゆえですか。
「私は子どもを持った経験はありませんが、性来無邪気な者を愛します。従って子どももよくなついてくれます。それは悪を憎む反動として、邪気なき子どもが自然と好きになったのだと思います」

(弁護人は、誇り高き家名を汚すまいとしてきた甘粕の心情に訴えて、宗一殺しを否定させようとしていた。
塚崎が語るこの質問の狙い。
「甘粕大尉のような柔和仁慈の者が、あの可憐無邪気な少年をすげなく殺害するわけがない。もし大尉が本当に殺害したとなれば、大尉は人道の敵であり、また武士道の賊である。わが国の武士は古来このような惨酷なことをしたことがない。わが国三千年来燦爛と輝いてきた武士道の名誉のため、また日本全陸軍将校の名誉のため、天皇の名で裁かれる法廷で虚偽の証言をするはずはない」)

- 子どもに菓子を与えたとのことだが、それはどんな菓子だったのか。
「隊にあったものを私が食べずに置いてあったものです。かわいそうですから、それを与えました」

ー 誰か子どもを引き取って養育する者はいないかと聞いたことがありますか。
「そう言った事実はあります」

- かくも子どもを愛する被告が、わずか七歳になったばかりの子どもを殺害するとは、いかなる理由か。部下を庇っているのではないか。裁判は陛下の名に於いて行うものであって、神聖でなければなりません。しかも私はあなたの母上から頼まれました。あの子に限って子どもを殺すはずはない。このことだけは絶対に事実を述べるようあなたから伝えてくださいと、涙を流しての切なる御依頼です。

(傍聴席はどよめく。
甘粕はうなだれ、ロを閉ざし、目から涙があふれだした。甘粕はそれをハンカチで拭きとり、弱々しい声で答えた。)
「度々申しあげた通り、私が子どもを殺したのは事実であります。そして無意識でありました」

- 憲兵大尉という高等官にあるものが、罪なき子どもを殺害したとあっては、あなた自身の不名誉であるばかりか、帝国陸軍将校全体の名誉にかかわりますぞ。
(甘粕は佇立したまま答えなかった。弁護人は10分間の休憩を申し出た)

(再開された法廷)
- 何とか考えはついたか。
「私はすでに母を捨てております。自分一己の栄達など念頭にもかけておりません。しかし先ほどからの陛下の御名をもってされては、嘘を申しあげることはできません。大杉栄、伊藤野枝の両人を殺したのは、考えがあったからです。今は申しあげます」

(甘粕はすすり泣いて声をしぼりだした)

「部下の者に罪を負わせるのは忍びませんので、ただいままで偽りを申し立てておりました。実際は私は子どもは殺さんのであります。菰包みになったのを見て、はじめてそれを知ったのであります

(「死因鑑定書」が発見された現在、甘粕は3人の死体が菰包みになったのを見てはじめて殺害の事実を知った可能性も否定できない。)

- 然らば誰が殺したか。
「私は存じません」

- 知らぬはずはない。
「私は存じません。誰がやったか本当に知らんのであります」

判士は、森に起立を命じた。
- お前は知らんのか。
「私もまったく存じません。大尉殿に気の毒でありますが、誰が殺したのか存じないのであります」
(森のこの証言をもって、第1回軍法会議は混迷のうちに閉幕)

この公判を傍聴していた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎と本多重雄、同隊伍長の平井利一の3人が、第1回軍法会議終了後、宗一殺害に関与したとして自首するいう異常事態となった。


つづく




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