より続く
大正12年(1923)9月4日
〈1100の証言;江東区/大島〉 *日付は不記載、場所は大島8丁目
陳崇帆
地震のとき、8丁目にいたが南千住へ逃げて数日たって帰ってみたら8丁目の人はみな殺されていた。垟抗の人も3人殺された。町はいたるところ殺人で歩けない。私は南千住の警察に保護されたが、大島の警察はよくないね、まったく中国人を保護しなかったよ。南千住は中国人宿舎が多くてたいてい1軒に20~30人ずつ住んでいた。
(仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年からの証言抜粋)
戸沢仁三郎〔社会運動家、生協運動家〕
〔八島祐浩より1963年春に聞いた話。大島8丁目に見張りがあって通行止されていた。そこでは〕たくさんの死体が2ヵ所に山と積み重ねられ、それに薪をのせ、石油をぶっかけて焼いたらしく、なにしろ警察で与太もんを集めた、にわかづくりの火葬人夫で、焼き方を知らない。上積みの方は黒こげ、中ほどは生焼け、下の方は表面黒こげでほかはてんで焼けていない。
いやはや酸鼻のきわみ、むごたらしくて目があてられない。さすがの与太もんどもも気味が悪くて、とうとう逃げだしてしまったのです。
(「純労働組合と大震災」『労働運動史研究』1963年7月「震災40周年号」、労働旬報社)
*大島6丁目の状況
田辺貞之助〔フランス文学者。当時中学生〕
〔略〕番小屋につめていたとき、隣の大島6丁目にたくさん殺されているから見に行こうとさそわれた。そこで夜が明け、役目がおわるとすぐに出掛けた。
石炭殻で埋立てた400~500坪の空地だった。東側はふかい水たまりになっていた。その空地に東から西へ、ほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にしてならべてあった。数は250ときいた。
ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と二つの頸動脈がしらじらと見えているのがあった。うしろから首筋を切られて、真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。首のおちているのは1体だけだったが、無理にねじ切ったとみえて、肉と皮と筋がほつれていた。目をあいているのが多かったが、円っこい愚鈍そうな顔には、苦悶のあとは少しも見えなかった。みんな陰毛がうすく、「こいつらは朝鮮じゃなくて、支那だよ」と、誰かがいっていた。
ただひとつあわれだったのは、まだ若いらしい女が - 女の死体はそれだけだったが - 腹をさかれ、6、7ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたの中にころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあるのに気づいたとき、ぼくは愕然として、わきへとびのいた。われわれの同胞が、こんな残酷なことまでしたのだろうか。いかに恐怖心に逆上したとはいえ、こんなことまでしなくてもよかろうにと、ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない。
(田辺貞之助『女木川界隈』実業之日本社、1962年)
陳協豊
9月2日の夜、日本軍人らしき者が、当地の日本人を呼び集め、各自兇器をもって鮮人やわが労働者を惨殺した。その時、協豊らの生命もまた危険であったが、幸にも免れた。
この後毎日惨殺が行なわれ、中国語の助けを求める声がたえずひびきわたった。しかし助けに行く事はできなかった。私たちも1日中びくびくしていたのだから。
〔大島〕6丁目一帯は、軍警がびっしり配置されていて、中国人労働者が殺される場所はすぐ近くでありながら、見て見ぬふりをしたのだから、これは日本の軍警と人民が共謀して中国人労働者を惨殺した証ではないか。
5日になってわれわれ生き残った者たちは、習志野の兵営に押送された。
(「温処災僑駁日外務省文温州同郷会」『時報』1923年10月24日→仁木ふみ子『関東大震災中国人大虐殺』(岩波ブックレットNo217)岩波書店、1991年)
八島京一
4日の朝3、4人の巡査が荷車に石油と薪を積み引き行くに逢い、その中の一人の顔馴染の某清一という巡査にその薪及石油は何にするかとききたる所、外国人が亀戸管内に視察に来るので、その死骸320人を焼くので昨夜は徹夜した、鮮人ばかりでなく主義者も8人殺されたといっておりました。
〔略〕自分が4日に清一巡査に会った時は巡査3、4人の外、人夫が2人ばかりおったように記憶します。清一巡査はその時「巡査は実に厭になった」などの話もし、又死骸は何処で焼いたかと聞いたら、小松川へ行く方だと指しながら話しましたから、その方面へ行きました。すると大島町8丁目の大島鋳物工場の横で蓮田を埋立てた地所に200~300人位の死骸がありました。中には白かすりを着た誰れが見ても日本人としか思えぬものもありました。また平澤さん〔平沢計七〕の靴のあった所はそこから約50間位離れた所でありました。右200~300の死骸を4日に見たのは私一人ばかりではなく近所の者は皆見ています。
(亀戸事件建碑記念会編『亀戸事件の記録』日本国民救援会、1972年)
〈1100の証言;江東区/亀戸〉
杉浦文太郎
〔4日〕友人の義理の姉が亀戸小で被服厳でのやけどの治療を受ける。陸軍の衛戌病院へ運んでくれた宇都宮歩兵連隊の下士軍曹ぐらいの人が「社会主義者と朝鮮人がいっしょになって東京で暴動を起こしている。これを鎮圧しなければいけないから出動しろといって実弾を与えられてきているのだ」と言っていた。亀戸にははじめは騎兵が飛び込んできた。その後交替したのが宇都宮の軍隊だった。
(「純労・南葛労働会および亀戸事件旧友会聞き取り(4)」『労働運動史研究』1963年5月号、労働旬報社)
〈1100の証言;江東区/旧羅漢寺〉
藤沼栄四郎〔社会運動家、南葛労働会創設者〕
この頃〔4日〕朝鮮人虐殺事件が盛んであったので、大島町のラカン寺の蓮池に行ってみたら池の中に20~50名位の朝鮮の人が竹槍で突かれたのか臓腑が飛出している者もあり、橋の下に殺されている者もあり、目も当てられない有様だった。
また同志遠山君が見たことだが、大島町には朝鮮・中国の人がたくさんいたので、これを警官が皆連れて行き十間川のほとりに立たせ、それを川の中に突き落として軍隊が銃殺したのだった。
(「亀戸事件の犠牲者」『労働運動史研究』1963年7月号、労働旬報社)
〈1100の証言;江東区/丸八橋・新開橋〉
田辺貞之助〔フランス文学者。当時中学生〕
4日目ぐらいになると、朝鮮人狩りが本格的になった。
〔略。大島の自分の家が軍の屯所になり〕裏の庭で、兵隊さんが牛蒡(ごぼう)剣をみがいていた。縄をひろってきて、それへ砂をつけてこするのだが刃金にしみこんだ血のしみがなかなかおちない。
ぼくがぼんやりそばに立ってみていたら、「アンチャン、磨き砂はねえかな」ときいたので、台所から磨き砂をもっていってやった。それでもしみはおちなかった。磨き砂の入物をもとのところへもどしに行くと、母が「兵隊さん、磨き砂をなんにつかったんだい?」ときくから、これこれだと話すと、母は「まあ、いやだ!」といって、その箱を外へ放りなげだ。日ごろお鉢や食器をあらうときにつかう磨き砂だったのである。
〔略〕物情騒然とは、あの時分のことをいうのだろう。
どこそこでは何人殺された、誰それは朝鮮人と間違えられて半殺しの目にあった、山といわれたら、そくざに川といわないとやられる、そんな話ばかりだった。
小名木川には、血だらけの死骸が、断末魔のもがきそのままの形で、腕を水のうえへ突きだして流れていた。この死骸は引き潮で海まで行くと、また上げ潮でのぼってくると見えてぼくは3度も見た。
(田辺真之助『女木川界隈』実業之日本社、1962年)
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