より続く
大正12年(1923)9月4日
〈1100の証言;大田区〉
津田光造〔作家、評論家。蒲田で被災〕
一頃○○の暴動が来るという流説が伝えられて、蒲田の辺でも大した騒ぎだった。〔略〕青年団や自警団は抜き身の日本刀や軍刀やら竹槍を携えて警戒するという殺伐たる無警察の社会状態が出現した。ただ頼むものは自分の持っている暴力腕力(全くこの時ほど腕力の必要が身に泌みた事はない)。皆が生を賭して死と面接するような実に愉快な(全く愉快だった - 僕は近頃こんなに愉快な経験をした事がなかった!)実に活発な生活現象だった。僕は人間の道徳がこれ位に厳粛になる社会が来る事を夢想して、退屈な日を過した事はあったが、いまだかつてそれを現実に見た事がなかった! 僕も日本刀があれば持って出る所だったが、生憎持ち合わせなかったので、近所で鉄の棍棒を借りてきて自警団の一人に加わった。暴動、もしそういうものが押し寄せて来るにしても、こんな貧民窟の裏長屋へ来るとは思えなかったが、全く考えてみれば滑稽で仕方がなかったが、そんな知識階級面をした自分が何となく恥られて、何でもかんでも盲ら減法に祖先伝来の隣保団結の精神で結束して起ったものだ。そこには〇〇〇対日本人という変な国民的対立があって、それだけはどこも面白くなかったが、それも歴史的因果関係の存在する事実について考えると、この場合四の五のと理屈を並べ立てている暇がなかった。そんな事をいっている暇に、そこへ手負になった〇〇〇の暴徒がアバレ込んで来そうな気合いだった。近所近辺到る所の警鐘が、けたたましく乱打された。
4、5日というもの、自警団はほとんど寝ずの番だった。しかし、暴動らしい何ものも来なかったので、いささか張合抜けがした。と同時に疲れが出てきた。睡眠不足で頭が変になった。体の組織までも変わってきたかと思われた。戒厳令が布かれて、軍隊の手が回る頃には、もう全く出る勇気がなくなっていた。しかし、何でもない〇〇〇で殺された者には、全く気の毒でならなかった。うっかり〇〇〇の肩を持って目茶目茶に撲られた日本人もあった。僕も実は弱い○○のために弁護しなくてはならなかったが、自然に皆の中からそういう隣愍の情が沸き立つまで、息をころして待たなければならなかった。
(「大震と芸術 - 震災の感銘と印象」『我観』1923年同月15日号、我観社)
〈1100の証言;北区〉
鶴巻三郎〔当時芝浦製作所勤務〕
「不運鮮人射殺さる 荒川堤で200名」
鮮人との争闘は烈しく行われ、荒川堤では200人からの鮮人が射殺されました。ただ私は4日に東京を出ましたが、その頃は大部分の鮮人は郡部の方に逃げていました。
(『北海タイムス』1923年9月7日)
村田富二郎〔工学者。当時7歳〕
〔4日、赤羽で鉄舟の仮橋を渡る時〕 ここで初めて屍体を見た。土左衛門が荒川を流れてきた。〔略〕だれから聞いたのか忘れたが、荒川の死体は朝鮮人として殺された人だと言われた。「として」に注目していただきたい。実際に、朝鮮人だったか否かは不明で、混乱の中で、朝鮮人と誤られて、多くの日本人が殺された。もちろん、「朝鮮人なら殺されてよい」という意味ではない。〔略〕朝鮮人暴動のデマは、早くも2日に流布され、関東一円で10日程度も続く根強いものであった。暴動の警戒に、日暮里の寺では、中学4年の兄までがかり出されたし、「朝鮮人の女は、妊娠をよそおって、腹に爆弾をかくしているから気をつけろ」などの、微に入った指令までが伝達された。〔略〕日本人と朝鮮人の識別に、10まで数えさせ、つかえると朝鮮人にされてしまった。これで殺してしまうのだからむちゃな話であるが、そのむちやが通る混乱期だったのである。
(『技術と人間』1977年3月号、技術と人間)
山口好恵〔記者〕
前夜〔4日夜、赤羽〕停車場構内で捕えられた2人はあれから工兵隊に引渡され、同夜12時頃に又々暴人が出没するというので駅内客車の床下を隈なく捜索してみると、果して1名の暴人がボギー車の床下に逃げ込み、そこの機械等にしがみついて危険を冒しながらも列車と共に身を逃れんとしている所を突きとめられ、自警団の為に惨々殴られ、遂には荒縄を首にくくりつけて引摺回し寺の前でとうとう撲殺したというのである。
今朝まだ死体がそのままになっているというから記者も現場までいって見ると、そこは交番のすぐわきで成る程寺の門前で死体には菰がかけられてあるのでよくも判らぬが、見物の誰やらが菰をつまみ上げているのを一寸盗み見ると5尺豊の痩男で、だぶだぶのズボンに半袖の夏シャツを纏い頬骨の高い如何にも暴人若しくは不逞人に相違い、右頬は泥にまみれその他は蝋細工の様に色が変り、幾分青味を持ちつめたくなり、投げ出されている左手は虚空をつかみ、右手には赤い護謨靴を手拭に結びつけて放さずにいる。水落しから下腹部がぺっこり凹んで、両足は2本共伸びている。付近にはどす黒い血が土ににじんでいるし太い荒縄が首に結びつけたままになっている・・・。(注:暴人・不逞人は朝鮮人をさす - 編者)
(山口好恵編『地震と内閣』共友社、1924年→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)
〈1100の証言;江東区/大島〉
高梨輝憲〔深川区猿江裏町30番地(現・猿江2丁目2番地)で被災〕
〔3日、猿江町の自宅の焼跡へ行き、立退先へ帰ろうと〕小名木川の方向へ歩き出すと、反対方向から来た年輩の巡査が私を呼びとめ「君は青年団員だろう、今日不逞鮮人が京浜方面から押し寄せて来るという情報がはいっているから、団員に連絡をとって警備にあたるよう手配してくれまいか」というのである。それは私が1日以来ずうっと青年団の制服を着ていたから、巡査は私を青年団員と知り、そう依頼したのだろう。しかし災後やっと3日目のその日に、団員に連絡をとれといわれても、団員は現在どこにいるやら皆目その所在も判らないので、連絡をつけようにもつける手段がない。そこで私は無責任のようだがその巡査の言葉をただ聞くだけで適当に返事をした。この時の巡査の言葉では、不逞鮮人来襲の情報は警察の上部から伝えられたものであるといっていたから、あの時点では朝鮮人暴動説は治安当局も事実として信じていたものであろう。
〔4日〕この日の朝方、私の立退先の近所に思わぬ惨劇がおこなわれた。それは義兄の家の直ぐ近くに一人の朝鮮人が住んでいた。細君は日本人である。夫の朝鮮人は附近の工場に勤めていて、近所の評判では真面目な人であったという。この朝もいつもの通り工場へ出勤しようとして、朝食の膳に向っていた。その時である。数名の日本人が急にその朝鮮人の家を襲い、一人の日本人が物も言あずに食事中の朝鮮人を殴りつけた。するともう一人の日本人は鳶口をもって脳天深く打ちこんだ。朝鮮人は悲鳴とともに血しぶきを吹いて倒れた。これは「あっ」という間もない一瞬の出来ごとである。細君は何が何やら判らない表情で、目の前で行われた凄惨な出来ごとに恐怖を感じてか、ただおろおろしているばかりであった。鳶口を持った男は倒れた朝鮮人の顎に鳶口をひっかけ、ずるずると戸外へ引きずり出した。これを見ていた人びとの中には可愛想なことをするものだと、つぶやいていた人もあったが、また中には当り前のことだという表情でそれをながめている者もあった。私は偶然にそこを通りかかって、この惨劇を一部始終目撃したのである。
この事件は朝方起ったのであるが、その日から軍隊によって自警団や一般人の凶器携帯者に対する取締りが厳重に行われた。それはそのころ一般人でも護身用と称して日本刀などを持ち歩く者がおり、反って治安維持の妨げとなっていたから、戒厳司令部ではこの処置を執ることになったのである。また同時に朝鮮人暴動説がこの時点になって、はじめて事実無根であったということが判明したからでもあろう。しかし朝鮮人に関する流言はなかなか止まなかった。
義兄の家からややはなれた所に大きな広場があった。今の江東区大島8丁目、富士急行バス営業所のあるあたりである。その広場へ3日の午後になってから、どこからともなく沢山の死体が運びこまれてきた。いずれも惨殺された男女の遺体である。私は4日の朝、その場所へ行って見ておどろいた。屍山血河という形容詞がそのまま当てはまるような鬼気迫る情景であった。ある人は300体くらいあるだろうといい、またある人は300体ではきかないといっていた。もとより数えて正確な数字をいっているのではないから、その実数はどれだけあるのか判らないが、兎に角無数という表現を用いても、敢えて過言ではないほど多くの死体が横たわり、その酸鼻きわまること、まことに目を覆うものがあった。この日の朝方私の目撃した朝鮮人の死体もこの広場へ運ばれたのである。
中国の史書を読むと、殷の紂王は生きた妊婦の腹を割いて、中の胎児を見たという記事がある。またわが国でも戦国時代の文献には、罪人や敵の虜を殺すにかなり残虐な方法を用いたことがしるされている。この時広場にころがっていた死体はまさにその残虐を方法で殺されたものばかりであった。紂王が腹を割いたというが、この広場にも腹を割かれた妊婦の死体があった。そのほかにも女性の死体の陰部へ竹の棒を突き差したままのものもあった。首がなかば落ちかかっている死体、撲殺で全身紫色に腫れあがっている死体等々、平時なら到底正視出来ないほどの惨忍さであったが、あの当時は私自身も異状に神経が昂ぶっていたものか、それらの死体一つ一つを見てまわっても、左程嫌悪感や恐怖感を覚えることはなかった。〔その後渋谷西原の友人を見舞う〕
〔5日〕朝、西原を立って大島8丁目にかえり着いたのは夕方ちかくであった。ところがこの日暗くなってから、義兄の家の横道に巡査が立番して、人びとの通行を制止していた。この横道はさきに述べた惨殺死体のある広場に通ずる道路である。私は不審に思いその理由を巡査に聞いたら、今夜、広場にある死体に石油をかけて焼くのだと教えてくれた。その時、巡査は私に向って「あの死体の中には支那人も沢山交っているが、あんなに多くの支那人を殺して、これが後になってから国際問題にでもならなければよいが」と、さも憂い気に語った。果せるかなそれから数ヵ月後、中国政府からわが国に対し、同胞虐殺に関して抗議があった。併し、その頃の中国は軍閥割拠の時代で統一国家としての機能がなく、わずかに北京政府がその代表政権と見られるような弱体国家であったから、日本政府はその抗議に強圧を感ずることはなかったので、抗議に対しては適当な外交措置を執ったことを新聞で知った。
(高梨輝憲『関東大震災体験記』私家版、1974年。都立公文書館所蔵)"
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