2017年9月29日金曜日

大正12年(1923)9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らの虐殺(その7) 12月8日 判決(甘粕=懲役10年、森=懲役3年、他3人は無罪) 内田魯庵の感想 塚崎直義『辨護三十年』 上砂勝七『憲兵三十一年』

大正12年(1923)
11月24日
■第6回軍法会議。11月24日。結審、論告求刑。
甘粕正彦=懲役15年、森慶治郎=懲役5年、鴨志田安五郎=懲役2年、本多重雄=同、平井利一=懲役1年6月。

12月8日
■判決。12月8日。
甘粕=懲役10年、森=懲役3年、鴨志田以下3被告=無罪。
(宗一殺害に関与したとして自首してきた東京憲兵隊の3人が無罪ということは、宗一少年は誰にも殺されなかったことになる。)

〈主文
被告(甘粕)正彦を懲役十年に処す
被告(森)慶治郎を懲役三年に処す
被告(平井)利一、同(鴨志田)安五郎、同(本多)重雄は各無罪
理由
被告(甘粕)正彦、同(森)慶治郎はさきに現役中、正彦は東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長、また慶治郎は東京憲兵隊本部特別高等課係の職を奉じ、各その勤務に従事しおりところ、正彦はかねて社会主義に関し研究を遂げたる結果、該主義の国家に対し有害なるを認め、殊に無政府主義のごときはすべての権力を否認し、光輝あるわが国体と相容れざる主張にして、これら主義者の言動は到底黙視、放任すべきものにあらずとの信念を抱くにいたれり。
たまたま大正十二年九月一日、関東地方に未曾有の大震火災起こるに際し、不逞鮮人等はこれを好機として放火、暴動の挙に出るとの流言喧伝せられ、同月二日、大正十二年勅令第三百九十九号の布告を見るにいたりともいえども、爾来各所に殺人、放火等の事実頻発し、帝都およびその付近住民の不安、興奮はその極に適して、社会の変異予測しがたきものあり〉

〈しかしてこれらの不逞の徒の背後には社会主義者活動せりとの世評もっぱら行われ、且つ職務上恐怖すべき種々の情報を耳にしたる(甘粕)正彦は、主義者の多くが警察署に検束せられたるに拘わらず、その最も危険視する無政府主義者の巨頭大杉栄の検束せられざることを知るに及び、同人一派が軍隊警備撤去後秩序未だ整わず、糧食等の配給不十分なる時に乗じていかなる不逞行為に出ずるも測りがたしとなして憂慮措くあたわず。
この際、同人を殺害するはすなわち国家の禍根を芟除(せんじょ)するものと信じ、ひそかにその機会をうかがいおりたるに、大杉には尾行巡査の従うありて容易に目的を達しがたきを遺憾となせる折柄、大杉をやっつけたき意嚮淀橋署にありとのことを聞き込みたるより、(森)慶治郎に意中を洩らし、これが事実を確かめたるに、同月十五日朝、慶治郎が同警察の意嚮なりとて復命したるところは、この際、憲兵隊の手にて大杉をやっつけてくれらば、尾行解除その他の援助をなすべく、なお震災後大杉は夕刻小児を伴い戸山ケ原に散歩することありというにありて、これ畢竟殺害を暗示するものと推し、ここに絶好の機を得たりとして断然大杉を殺害すべきことを決意し、慶治郎と共謀の上、右戸山ケ原において大杉を殺害せんと欲し、同日午後五時半頃、正彦、慶治郎の両名は情を告げずして部下たる被告(鴨志田)安五郎、同(本多)重雄の両名を伴いて東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木二百七十二番地なる大杉の居宅付近に張り込みいたるも、同人の外出せざりしため、その目的を達せず〉
*甘粕は流言蜚語に惑わされる単細胞の青年将校として描かれている。
*淀橋署が事件に関与していることが記されている。しかし、淀橋署の松元警部補・滋野巡査部長は無罪となった。

〈次いで翌十六日、午後二時半頃、(甘粕)正彦と(森)慶治郎は前日と同一の目的の下に情を知らざる部下被告(平井)利一および前記(本多)重雄の両名を伴い、再び右大杉の居宅付近に至りし時、淀橋警察署員より大杉は同日午前十時頃内縁の妻伊藤野枝とともに外出せるも、夕刻には帰宅すべき由を聞知せしより、大杉居宅付近の道路上においてその帰来するのを待ち受けたるが、同日午後五時頃、大杉は野枝及び甥橘宗一当七歳とともに前記張り込みの地点に来たれりより、正彦、慶治郎の両名は打ち合わせの上、大杉に向かい取り調べたきことある旨を告げて憲兵隊に同行を求め(後略)〉

大杉と野枝の殺害状況は甘粕供述や検察官調書と同じ。

〈これを法律に照らすに、被告(甘粕)正彦、同(森)慶治郎の大杉及び野枝殺害の所為並びに上等兵をして宗一を殺害せしめたる所為は、各刑法第六十条、同第百九十九条、同第五十五条に該当するを以って、各その所定刑範囲内に於いていずれも有期懲役刑を選択し、被告正彦を懲役十年、被告慶治郎を懲役三年に処すべく、被告(鴨志田)安五郎、同(本多)重雄の各所為は罪となるべき事実を知らずして犯したるものにして、すなわち罪を犯すの意なき行為なるを以って、各同法第三十八条第一項前段、陸軍軍法会議法第四百三条に則り処分すべく、被告(平井)利一が野枝及び宗一の殺害せらるるに際し、その情を知りて之が見張りをなしたるとの公訴事実については、被告が現場付近に居合わせたるは明らかなるも、その情を知って見張りをなしたる点に於いてこれを認むべき証憑十分ならざるを以って、陸軍軍法会議法第四百三条により、同被告に対し無罪を言い渡すべきものとす。よって主文のごとく判決す。〉

■内田魯庵の感想(「婦人之友」大正12年11月号)。
〈大杉がドンナ人物であらうと夫は別問題である。兇行の動機がなんであらうとも、人を殺して、剰(あま)つさへ頑是ない無邪気な小児まで殺して、(縦令(たとへ)下手人は別人であつても無言の命令を暗示したのは争はれない)犯跡を隠蔽しやうとした行為を典型的軍人と云へる乎ドウ乎。発覚しなかつたらあのまゝ口を拭いてすずしい顔をしてゐたツモリだったらう乎。且其の直接の動機を作つたのは馬鹿々々しい滑稽な風説を碌に確かめもしないで軽信した為めで話にならない。平生は正直なイゝ人間であったかも知れないが、あのやり方(は)正直で無い。だがそこに法廷に立つてハツキリ有のまゝを平たく告白する事が出来ない気の毒な事情があるといふなら夫は別論だ
*内田の洞察力が鋭い

■塚崎直義(甘粕の弁護人)『辨護三十年』(昭和12年)
〈第二回の公判は十一月十六日に開かれた。先づ甘粕大尉の訊問から開始されたが、甘粕は従前通り大杉及び野枝は自分が手を下して殺したが、子供の殺されたのは知らない、死体も見なかつたと答弁した。それに対して、森曹長以下三被告は、上官の命令で殺したと主張してゐる。
遂に、告森法務官から、「甘粕、お前はどうか、森のいふ事に相違ないか?」と訊問された時、甘粕氏は決心の色を現して答へた。
「双方のいひ分が違つて居れば、どちらかの思ひ違ひでせう。森が命令されたといへば、さうかも知れません
「では、前の申立ては違つてゐるのか」
私は軍人であります。宗一殺しを命じたと思ひます。命じなければならないと思ひます
「他人の言は何うでもよい、被告の記憶はどうか」
「命じました」
遂に甘粕氏は命令したと断然云ひ放ってしまつた〉

■上砂(かみさご)勝七『憲兵三十一年』
甘粕の1期下の陸士25期生、甘粕と同じく歩兵から憲兵に転じ、終戦時は台湾憲兵隊司令官で少将。
「無政府主義者大杉の検束は、憲兵司令官の小泉六一が甘粕大尉に命じたものだった」とはっきり記している。

そもそも、麹町憲兵分隊長の甘粕は、東京憲兵隊に所属する森以下の4人を指揮命令する権限もなければ、立場にもない。彼らに命令できるのは、東京憲兵隊長の小山介蔵か、さらに上の憲兵司令官の小泉六一だけである。しかし、小山も小泉も大杉事件との関わりを全面否定している
小山も小泉も形式上この事件の責任をとって、一時停職処分となった。しかし、その後、小泉は中将に昇進し、支那駐屯軍司令官となった。小山も少将に昇進し、関東憲兵隊司令官に就いている。

つづく
戦後発見された「死因鑑定書」や証言について





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