2019年8月30日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その34)「神田が焼けてしまったので早稲田の高等学校へ移った。そこの先生は公然と「私は朝鮮人狩りやりましたよ」と、別に不思議とも思わずに言っていた。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その33)「.....「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が 「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。....」
から続く

〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉
高山辰三〔文筆家〕
〔2日夕、駒込東片町で〕「朝鮮人が東京の片ッ端から放火して歩く。この大火の大半は彼等の放火だ」という噂が何所からともなく伝わって来た。
私にはそれがどうも、拠り所のない流言蜚語のように直感的に思われたが、何分にも場合が場合なので、一層、私達を不安の底に引きずり落とした。
町会から、早速、自警団に各戸一人ずつ出てくれと伝えて来た。各自皆、思い思いに棍棒やら竹竿やらステッキやらを持ち出してそこここの要所要所に立たなければならなかった。
〔略。3日〕私は更に、私の関係する日本橋本銀町の飲料商報社即ち高木商店の焼跡を見舞うために、大曲へ出て飯田橋の方へ歩いて行った。大曲の角の交番の壁に東京日日新聞の号外が貼ってあった。人だかりを別けて近よって見ると、3段抜きの大見出しで
「不逞鮮人各所に放火し、帝都に戒厳令を布く」という記事がある。それによると、不逞の鮮人200名が抜刀して目黒の競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとか、横浜方面から引きあげて来た鮮人がその途中で十数名の日本男女を殺したとかいう大袈裟なヨタがとばしてある。私はそれを苦々しく思いながら救護自動車や、罹災者の右往左往する河岸通りを飯田橋へ出た。
(「修羅の巷に立つ」田中貢太郎・高山辰三編『叙情日本大震災史』教文社、1924年)

寺田寅彦〔物理学者〕
〔9月2日〕巡査が来て、朝鮮人の放火者が徘徊するから用心しろと言って注意して回る。井戸に毒を投入するとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説がはやって人心が落ち着かない。
〔略。9月3日〕曙町会から招集があって東一を代理にやる。家々より夜警を出すことになったらしい。〔略〕鮮人らしいものがいろいろの姿で入り込んだというような伝令が来るが、事実としてもこれらの警戒はつまり形式的なものである。しかし、警戒の目的だけはこれでも達せられるだろう。ただ捕える事はできそうもない。
(『寺田寅彦全集・第14巻(日記等2)』岩波書店、1961年)

中川愛水〔音楽教育家〕
〔湯島天神女坂で〕2日目の夜私どもの夜警している所へ飯沼という人が来て、この町内も警察の命令で自警団を組織することになり、山口氏が団長になった、という話があった。
(『芸術』1923年11月号、芸術通信社)

咸錫憲〔牧師、思想家、独立運動家。当時高等師範受験準備で渡日。本郷の白山上の肴町に下宿。湯島の親戚の家で被災〕
〔2日、本郷の下宿に戻り〕米屋へ行くと米はすでになく、玄米しかないのでそれを買った。帰ろうとすると、竹槍・日本刀・棒を持った大勢がたかってきて「これが本物だ」と言いながらやってくる。その朝青年会の人達が「支那人が泥棒をしますから気をつけてください」と言いながら触れ回っていたので、直感的に「私の顔を支那人と見違えたのかもしれない。本物って何だ」と言いながら帰ろうとした。その横丁に曲る所に交番があり、顔を知られていたと見えて、そこの巡査が「いや、かまわない、安心だから」と皆を止めてしまった。帰ろうとしたが連れが理屈をこねて「これが本物だ、と言ってきたのにうやむやのうちに帰してしまうなんてことがありますか」と言ったので、「そんなに知りたきゃ行こう」と駒込警察に入れられた。多数の韓国人、誤って入れられた日本人1、2人、支那人1人がいた。そこで初めて真相がわかった。韓国人が何か暴動を起こすという口実で連れてこられていたのだった。そこで一晩を過した。
翌朝〔3日〕になると、自分の受け持ちの刑事(当時韓国の学生は皆、受け持ちの刑事があった)が見回りに来て「あっ君も来たのか」と言った。「これはいったいどうしたのですか」と言うと「いや間違っていたから、かまわないで出て来い」と自分と親戚の2人を引き出し、2階でパンを食べさせて、家に帰れと言った。連れが「僕達出るとすぐ殴り殺されるから行きません」といったが、かまわないから行けとなだめられて帰った。
その翌日〔4日〕の朝早く、下宿のむこうにある小さな教会の富永牧師が来て「君らのことはこの周りの人によく話していくから心配ない。ただ外出は一切するな」と必死で言うので、1週間じっと中にいて、それで無事に過した。
震災後1ヵ月かかなり過ぎた後、韓国の学生達の虐殺真相調査団ができ、講演会などがあって、やっと真相がわかった。東京市街ではそれほどひどくなかったが、ふちの部分に労働者がたくさんいた。亀戸でたくさん殺されたという話だ。
神田が焼けてしまったので早稲田の高等学校へ移った。そこの先生は公然と「私は朝鮮人狩りやりましたよ」と、別に不思議とも思わずに言っていた。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『韓国での聞き書き』1983年)

速水滉〔心理学者。当時本郷駒込在住。震災時は東北旅行中〕
2日の晩には鮮人の数百名が今にも押寄せて来るというので市中も郊外も大騒をした。後から家族のものから聴いたことであるが、警察官の中にも鮮人が襲撃するから警戒しろといって戸毎に触れ回ったものもあった。自分の会った近所の某女教師は早く支度して避難せよと警官に注意されて高輪御殿の方面に向ったところ、御殿はすでに鮮人の占領する所となったと聞いて、途中から引返して他の方面に逃げた、ということである。かような騒ぎは独り東京に止まらず、鎌倉でも横浜でも同様であったそうである。市中到る所、自警団とか自衛団とか名づくるものが組織され、竹槍とか、刀剣銃器の類が持出され、中には抜刀で行人を誰何した。後には放火窃盗に対する警戒の意味にもなったが、最初の間は専ら鮮人に対する防衛であった。否防衛というような消極的のものであるよりも、進んで積極的の手段を取るものが少なくなかったことは、この頃に至って暴挙を働いた自警団員や、青年団員の続々検挙されているのを見ても、明白を事実である。〔略〕(1923年10月1日)
(「流言蜚語の心理」『思想』1923年10月号、岩波書店)

渡辺初吉〔宇都宮市扇町新聞販売業宇陽舎主〕
「焦土の東京を一巡り 日本橋区内は大平原の様 竹槍鉄棒で青年団の警護」
本郷の焼残りの地で〔2日〕午後4時頃〔略〕鮮人1名青年団に発見され柱へ縛り付けられ「放火人」と札を立てて置かれたが間もなく群衆のために叩き殺されるのを見た。
〔略〕2日夜に入ると不逞鮮人が押しかけるというので、もしも狼籍するなら青年団も正当防禦で臨機の処置を執ってもよいとまで警官に言われたが、2日夜までには鮮人の徒党らしきものは出現しなかった。数名の鮮人が捕えられたのは事実であった。薩摩原では1名の鮮人が電車線路内に竹槍で突き殺されているのも見た。
(「いはらき新聞』1923年9月4日)

本郷駒込警察署
9月2日午後2時頃に至りて流言あり、曰く「今回の大火災は概ね不逞鮮人の放火に原因せるものにして、赤坂青山・深川の諸方面に於てはその現行を取押えたる者多し」と。人心これが為に稍々(やや)動ける折しも、幾もなく「鮮人は毒薬を井戸に投じたり」との風説さえ伝わりて、鮮人に対する迫害漸く行われ、早くもこれを捕えて本署に同行するものあり、就きてこれを検するに爆弾なりとせるものはパイナップルの缶詰にして、毒薬なりとせるものは砂糖の袋なりき。然るに夜に入るに及び、「下谷池之端七軒町は既に猛火の襲う所となり、今や将に根津八重垣町に於てその威を揮(ふる)えり、管内は到底全焼を免れざるべし」との流言起り万一を慮りて避難の用意に着手するもの少なからず、混乱の状益々甚し、然れども延焼の流言は下谷方面の鎮火に依りて自ら消滅したれども、鮮人に関するものに至りては漸次拡大せられ「鮮人等は左袖裏に赤布を纏い、或は赤線を描けり。警察官は軍人に変装せり。鮮人の婦人は妊婦を装い、腹部に爆弾を隠匿せり」など言える蜚語頻に行わるると共に、自警団の粗暴なる行動相ついで演出せられ、同3日午後2時頃駒込追分町に於て通行人4名に重傷を負わしめ、5日には公務を帯びたる輜重中尉を嫌疑者として本署に拉致せるなどの事ありしのみならず、戒厳令を誤解して、警察権はすべて軍隊に移れりと為し、眼中また警察なきに至る。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

本郷本富士警察署
9月2日午後2時頃、鮮人暴挙の流言伝わりて、人心漸く険悪となるや、戎・凶器を執りて鮮人を迫害するもの多し、これに於て本署は鮮人等を保護検束すると共に、自警団に警告する所ありしが、彼等は容易に耳を傾けず、3日以後に至りては狂暴特に甚しく、同胞にしてその危害を受くるもの亦頻々たり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『報知新聞』(1923年10月15日)
「13の少年まで検挙された ○○に暴行を加えて押収された兇器に村田銃」
本郷駒込署管内でも去月2日夜の混乱の際多数の○○に暴行を加えた悪自警団があるので、警視庁及検事局等から係官出張し昨14日までに同地自警団員山崎政七(13)、青木源治(41)外14名を駒込署に引致し、証拠品として押収した着剣の村田銃を突きつけ厳重取調べ中である。

つづく




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