2019年8月31日土曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その35)「暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2、3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、〔略〕彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっているまえを通り過ぎて行きました。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その33)「.....「鮮人が火をつけたというのは、真実の事ですか」とたずねる者があった。すると一人の人が 「真実ですとも、下町の方では彼地でも、此方でも鮮人を縛り上げて大騒ぎです」と答えて、眼を見張って大変だという顔色をして見せた。....」
から続く

大正12年(1923)9月2日
〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町〉
倉富勇三郎〔枢密院護長〕
〔2日夜、赤坂丹後坂の自宅で、近隣に住む安藤則光から不穏な噂を聞く〕
朝鮮人千人ばかり、横浜の方より東京に侵入せんとし、大森区にて警察官がこれを禦ぎたるも、人少く力及ばず、遂に朝鮮人500人ばかり、東京に侵入せる趣につき、これを防ぐ為、丹後町にても自警団を組織する企てありという。少時の後、数十人団を為し、夜警に当たりたり。
〔略〕夜半頃、報あり。「朝鮮人200人ばかり、青山御所に侵入せる旨、赤坂見付上の警察官より通知あり。婦人には朝鮮人が暴行を為すにつき、男子と婦人とを識別すべからざるように為すため、婦人は手巾を以て頭を包みいるようにすべし」と。下婢等はこれを聞き大に恐れたり。流言の人を惑わすまた甚だし。
(倉富勇三郎日記研究会編『倉富勇三郎日記・第三巻』国書刊行会、2015年)

島崎藤村〔作家〕
〔2日、飯倉片町で〕「放火をするものがあるから、気をつけるように」。その警告がこんな混乱した町の空気の中へ伝わって来た。
私たちが集っていた場所は片町の電車通りからもよく見える位置にあったので、他からの避難者で疲れた足を休めに立寄るものも少くなかった。〔略〕そこへ見慣れぬ35、6ばかりの洋服を着た男が来て立った。この町の人達が眼にも見えない恐ろしい敵の来襲を聞いたのは、その男からであった。〔略〕物ずきか、悪戯か、それとも親切か、いずれとも分らないようなその男の残して置いて行ったものが、かえって皆を不安にした。
〔略〕 こんな時に耳の早いのは子供等だ。婦女子供はなるべく町の外へ避難せよ。夕方にはそんな声さえ私達の耳へ入った。大震、大火、旋風、海嘯(つなみ) - ありとあらゆる天変地異の襲いかかって来たようなこの非常時に、些細な風聞にも動かされ易くなっていたのは、子供等ばかりでもなかった。休まず眠らずにいた大人までが、みんな子供のようになっていた。
兎も角も、私達は他からの人の入込み易いこんな門前の位置から、婦女子供を隠したかった。・・・そこで私は竹沢さんと連立って、相良さんの邸内をこの町の人達のために開放するよう、その交渉に出掛けた。〔略〕「井戸に毒を入れる者があるそうですから気をつけて下さい」。こんな警告が、そこに集っていたものの不安を増させた。みんな提灯のあかりを消して沈まり返っていた。
〔略。相良邸で〕「敵が来る、敵が来る・・・」お伽噺でもない限りは信じられないような2千人もの敵が襲って来るという風聞はその翌日〔3日〕になっても続いた。敵は既に六郷川〔六郷橋付近の多摩川下流部〕の付近で撃退せられたから安心せよというものがあり、いや、その残党がもぐり込んで来ないとも限らないというものがあった。〔略〕「いずれ、こんなことを言い触らして歩く奴があるんでさ - こういう時には、馬鹿や狂人がよく飛出しますからね」といって憤慨するものがあった。こんなに多くの人が苦しみを重ねているのを見たら、敵でも私達を救う気になるだろう。〔略〕この町の人達が各自に互いを護ろうとするようになったのは、それからであった。北隣の鈴木さん、小原さんなぞについてお前の弟達も思い思いに用心の棒を携え、日の暮れるころから町を護りに出るようになった。夜の12時には、また大きな地震が来るという流言の伝わったのも、その3日目の晩であった。
(「飯倉だより(子に送る手紙)」『編年体大正文学全集・第12巻 - 大正12(1923)年』ゆまに書房、2002年) 

関かねじ
〔青山南町4丁目で〕翌日の夕方から朝鮮人の暴動があるから外に出ないようにと大声でふれ歩いていた。何が何だか解らないので落ち着かない思いで家の中にこもった。〔略〕2日の午後3時頃流言蜚語が町を流れ出した。朝鮮人が青山辺にも放火して歩くから気をつけるようにとふれ歩いて走って回る。水は使えないし電気はつかないし、流言蜚語は恐ろしいし、一人住いの私はどうして良いか分らなかった。落ち着かない気持をハラハラさせながら、流言蜚語を聞きながら、下町はどんどん焼けているという話を聞きながら、3日3晩本当に生きた心地なく過した。
(世田谷区老人大学編『世田谷区老人大学修了記念論文集・第1期修了生』世田谷区老人大学事務局、1919年)

多賀義勝
〔2日〕朝鮮人暴動の噂が流れはじめた。なんとなく町が騒然としはじめた。井戸に毒が投げこまれるというので、町内のすべての井戸に番人が見張りに立った。父は軍刀を持ち出した。私と弟は、従姉が日の丸の腕章を作ってくれたのを着けて、鉄棒を持って寺の門前に歩哨に立った。
そのうち暴徒の一隊が六本木で掠奪をはじめたと、見てきたようなことを言う人も出てきた。みんな流言だったのだが、うっかりすると信じかねないような情況だった。交替の合い間に谷町の通りに出ると、避難して来る人の群れが切れることなく続いていた。
(多賀義勝『大正の銀座赤坂』青蛙房、1917年)

林正夫
当時、渋谷常盤松にあった農大に籍があった私が被災したのは、霞町のほうによった高樹館という下宿の一部屋。
不安のうちに明けた翌2日、町内に住んでいた某予備役の陸軍少将が、早朝から仲間といた私たちのほうへやってきて、「きみら若い連中は、さあ、これをぶら下げてそのへんを警戒し、朝鮮人とみれば片っ端からたたき切ってしまえ!」と数本のドス、日本刀を指すのでした。
〔略。2日夜〕暗くなりかかった霞町の角を、私が二ノ橋のほうに渡ろうとした途端、いきなり2、3メートル先の路地からふたつの黒い影が飛び出してきた。夜目にも、それとわかる労働者風の朝鮮人たちです。はっと身構えようとした私の目前で、〔略〕彼らの背後をつけてきた2名の兵士が、グサリ、背中から銃剣を突き刺したのでした。兵士たちは、なにひとつなかったような表情で私の立ち止まっているまえを通り過ぎて行きました。(談)
(「目の前の惨劇」『湖』1971年6月号、潮出版社)

赤坂青山警察署
9月2日午後4時頃、「鮮人の放火団体は、青山方面に襲来すべし」或は、「再び強震あるべし」等の流言いずこよりともなく宣伝せられて、人心頓(ひたぶる)に不安に陥るや、所謂自警団の成立を促し、同日の夕刻、帝大教授某理学博士を鮮人と誤認し、明治神宮表参道入口付近に於て、まさに危害を加えんとせるを、署員の救護により辛うじてこれを免れしめたるが如き、或は、北町5丁目なる某家の押入中に放火せる鮮人ありとの急告によりて、これを調査せしに、羅紗洋服地布片の焼け残りを発見せり、けだし同人が火災時に外出せる折、火気を防がんが為に拾得し来れるものにして、その臭気を嗅ぎたる付近の民衆は、これを出火と速断し、やがて又鮮人の放火なりと誤りたるが如き、その事例に乏しからず。
然るに翌3日午後6時半頃に至りては、更に、「大本教信者は爆弾を携帯し、数台の自動車に分乗して、まさに帝都を襲わんとす」との流言すら起り、倍々(ますます)、民心の動揺を来せしが、同4日午後11時30分、青山南町5丁目裏通方面に方り、数カ所より警笛の起ると共に、銃声、また頻りに聞ゆるに至りて、鮮人の襲来と誤認し、一時騒擾を生じたりしが、その真相を究むれば、付近邸内なる、月下の樹影を鮮人と誤認して警戒者の空砲を放てるものなりき。
爾来本署は、流言に就きて厳重なる偵察を遂げたる結果、その誤伝に過ぎざるを確めたるを以て、自警団の取締に着手すると共に、流言に惑うべからざるを説きて、民衆の反省を促せしも、容易にこれを信ぜざりしが、やがて警視庁の命令によりて戎・兇器の携帯を禁じその押収に着手するや、民衆はこれに反対し、氷川神社方面には、鮮人等暴行を逞くせる事実あり、いわんや、三軒茶屋付近に於ては、鮮人との闘争既に開始せられたるに於ておや。この時に方り、身を衛り、衆を護らんものは、唯武器あるのみ、もし、万一の変起らば、警察署は、能くこれを撃退して生命財産の安全を保障するを得るかとて、本署に来りて署長に肉薄するもの少なからず、即ちその事理を戒諭し、更に各団体の幹部と懇談するに及び、漸次、その意を得るに至りしが、疑心、未だ全く解けず、「青山墓地には、夜間密に鮮人等の潜伏して、陰謀を企つるものあり」との説行われたれぼ、誤解を一掃せんが為に、同5日午後8時、鷺・大森両警部補に命じ署員数10名を率い、歩兵第二連隊の一個大隊と協力して、一斉に厳密なる検索を実施せしが、遂にその隻影(せきえい)だに見ず。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

赤坂表町警察署
9月2日午後7時頃「不逞鮮人等大挙して管内に襲来せんとす」と云える流言の行わるるや、さなきだに疑懼の念を抱ける民衆は、更に不安の念を生じ、戎・兇器を携えて所在に横行する自警団の発生を促し、鮮人等の身辺危さを察し、管内在住の鮮人数十名を保護検束したりしが、翌3日に至りては、流言益々甚しく、更に「強震再襲すべ」との説を為すものあるに至る、この時に方り、鮮人に関する流言の信ずべからざる事既に明白となりしを以て、その意を宣伝して誤解を除くに努め、かつ青年団員の取締を励行すると共に、流言を流布するものの内偵に従い、同4日の夜半強震に関する流言の犯人を検挙せり。しかれども鮮人に対する反感は容易に一掃する能あず、暴行また衰えざるを以て、遂に自警団員等の携帯せる戎・兇器の押収を断行し、検束せる鮮人は習志野に護送して陸軍の手に交付せり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

「赤坂区震災誌」
2日となりたるに誰人がいい触らしたりとはなく、朝鮮人に対するあられもなさ取沙汰、それよりそれへと伝えられ、疑惧の間に自警団の出現を見るに至りたれば、人心次第に緊張し来りたる時も時3日の午後4時頃、何者か自動車2台、自転車1台を連ねて、朝鮮人2千名三田方面より暴行しつつ押寄せ来れりと、宣伝しつつ乃木坂付近を疾走せり、これと相前後して1名の身装卑からざる婦人、3名の女中に扶けられつつ乃木坂派出所に来り、唯今2千名の朝鮮人六本木方面に押寄せ来りたりと、訴え出でしかば居合せたる警官大に驚き、直に六本木方面に赴き偵察したるに、右は全く虚報にして1名の朝鮮人を認めたる歩哨が、これを呼止め取調をなさんとせしに、朝鮮人はいち早くその姿を隠したるより、2、3名の歩哨が荐(しきり)にその行衛を捜索し居たる折柄、その事実が早くも2千名襲来と、誇張申告せられたるものと明瞭したり。
(港区編『新修・港区史』港区、1979年)

麻布六本木警察署
9月2日午後5時に至りて、始めて不逞鮮人暴挙を企つとの流言あり、けだし管内に来れる品川以西の罹災者によりて伝えられしものの如し、これに於て人心の動揺甚しく、老・幼・婦女子の如きは麻布連隊に投じてその保護を受くるに至る。かくて自警団の成立を促し、これが為に1名の通行人は鮮人と誤解せられ、霞町に於て群集の殺害する所となれり。されば翌3日以来、或は戒厳令の本旨を宣伝し、或は一般民衆の戎・兇器携帯を禁止するなど、極力その取締を厳にせり。
しかれども隣接署との境界線付近に於ては、なお自警団体跋扈して通行人を誰何・審問し、鮮人なりとてこれを本署に同行し来るもの多し、これを取調ぶるに、概ね皆同胞にして鮮人にあらず。即ちその軽挙を戒むるも容易に耳を傾けざりしが、會ゝ(いよいよ)同日午後11時過、民衆の多くが寝に就きたる頃「只今大震あり早く屋外に出でよ」と叫びて各町を疾走するものあり、恐怖に充ちたる民衆はその声に驚き、枕を蹴って難を屋外に避けんとし、一時混乱の状を呈したるども、署員の制止によりて事無きを得たり。しかも鮮人に関する流言に至りてはなお止まず、自警団の専横また依然たりし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年) 

つづく




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