2019年10月18日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その5)「竹槍で殺すなんて野蛮な、と思っても私達には何ともすることが出来なかった。通り過ぎてからバンザイと叫ぶ声に振り向いて見ると、生きているか、死んでいるか分からない朝鮮人を隅田川に放り込む所だった。 合言葉に上手に返事の出来なかった人は皆竹槍で殺された、という狂気の非常時、見物人もいた。見過して行った私達もいた。申訳ないと今でも思っています」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その4)「3日目の夕方、菊川橋際で工場の焼跡整理のかえり、素ッ裸にされて、電線でぐるぐる巻きにされて、鳶口や日本刀を持ったひとたちに、めった殺しにされている2人の朝鮮人をみたのでした。.....当時は日本人でも風采が似ていたり、発音のたどたどしいひとは、朝鮮人と間違えて虐殺されたものもあるので、私はいまもなお、あの虐殺された2人が、どうも朝鮮人ではなかったような気がしている。」

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉
岩元節子〔当時女学校2年。本所表町栄寿院で被災。2日法泉寺で休み、3日栃木をめざす〕
〔3日〕白鬚橋を渡り終ろうとする頃、ピーピーと言う苦しげな声を囲んで、喚いている竹槍を持った男達の一団を見た。それを遠巻きにして見ている人達の後ろを通りながら、様子を聞くと、井戸に毒を入れたり、放火したりした朝鮮人を殺しているのだそうだ。(しかし、毒を入れたり放火したということは、後からデマだったということがわかった)
竹槍で殺すなんて野蛮な、と思っても私達には何ともすることが出来なかった。通り過ぎてからバンザイと叫ぶ声に振り向いて見ると、生きているか、死んでいるか分からない朝鮮人を隅田川に放り込む所だった。
合言葉に上手に返事の出来なかった人は皆竹槍で殺された、という狂気の非常時、見物人もいた。見過して行った私達もいた。申訳ないと今でも思っています。
(『東京に生きる 第七回 - 語りつぐふるさと東京「手記・聞き書き」入選作品集』東京都社会福祉総合センター、1990年)

斎藤静弘
〔3日〕田舎行きの道中も心配なので、一刻も早くと、〔亀戸の〕皆様の励ましの言葉を背にお別れして、日暮里駅まで歩く途中、請地を過ぎて白鬚橋へかかると、橋向うから大勢の人がワアワア叫びながら走って来た。
近寄って見ると、1人の男が顔を両手で庇いながら、両足を2人に持たれて、勢いよく引きずられて来た。朝鮮人らしい男だが、頭を地面から浮かすようにする苦痛さは、見るも哀れな姿だ。
橋の中程まで来ると多数の手で持ち上げ、1、2、3で手すりを越して大川へ投げ込まれた。一旦沈んでブクブクと水面に浮くと、岸に向って泳ぎ出した。すると橋の上で見ていた一団が、男の泳ぎつく方向へ走り出し、岸へ一心に泳ぎつくその男の頭を、長い鳶口で滅多打ちにしたので、そのまま沈んでしまった。どのようないきさつか知らんが、朝鮮人騒ぎの結果だろうと想像する。
(斎藤静払『真実を求めて - 喜寿を迎えて』私家版、1976年)

坂巻ふち
朝鮮人の人たちが殺されたのは無残でしたね。あの白鬚橋のところでね、3日目のお昼3時ごろですかね、〔略〕白鬚神社の裏側はすぐ隅田川になっていて、そこはヘリが危ないからと木のわくが打ってあったんですがそれがほとんど燃えたり折れたりして何本も立っていなかった。そこへ長いトタンが重なっていたので何だろう、こんなにトタンをぶち投げてあるけれどと思って見ると、ひもを身体にゆわえて朝鮮人が川にはいって死んでいるのです。それがまるで粗糖を放したようなんですよ。空き間も隙き間もないんです。
そこへ行くまでにも10人くらいの朝鮮人がみんな針金で足をゆわかれて、3人くらいずつ一緒に、多い人は10人くらい一緒に足を少し離してつなげてね、だから皆つながっているのです。
そして生きているのを放りこんだから水を飲んだでしょ、だから腹がふくれて皆何も身体についていない、素っ裸なのです。あお向けになっているのもいるし、うっ伏しているのもいる。それが幾組だか知れないほどです。それを私のこの目で確かめました。何と気の毒だと思って涙をこぼしながら歩きました。
〔略〕とにかくずいぶん、気の毒でしたよ。お腹の大きい赤ちゃんが生まれるような人が自分の腹を結わえられて水に投げられ、赤ちゃんが生まれちゃって、赤ちゃんがへその緒でもってつながっているんです。そしてお母さんがあお向けに浮いている、赤ちゃんがフワフワ浮いているんです。
それが至るところですからね。白鬚橋ばかりじゃあないんです。人形町の向こうもずいぶんひどい様子でしたよ。ずいぶん無残でしたね。
(「白鬚神社でみたもの」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1913年)

長谷川勇三郎〔徳川家家扶〕
「小梅邸の焼跡から 鮮人跳梁の地を過ぐ」
〔隅田川で生き延びて〕2日午後2時頃から鮮人が跳梁をし始め〔略〕女子供達が泣き叫ぶのでこれを制し、自分は古川君(歩兵少尉)と共に戦闘準備をしてピストルに弾丸をこめて用意している内に、午後8時頃青年団等が鬨の声を揚げて応戦し小梅にまで来ない内に叩き殺されたり撃ち殺された。
更に3日午後3時頃白鬚で200人ばかりの鮮入隊と警備に出動した習志野騎兵第一四連隊の一隊が戦闘し機関銃を以て撃ち払い〔略〕この一帯寺島から四木橋付近の路傍には避難民の死体はなく、いずれも頭を割られたり撃たれたりした鮮人の死体が横たわっていた。〔略〕ある者は鮮人隊を指揮する日本人を見たと言い、又鮮人がサイダーの空瓶に毒水を入れて渇する避難民に飲ませて回っていたのを目撃したという。
小梅邸でも一鮮人が〔略〕発見されて追い詰められ、邸内の池に飛込み首だけ出していたので、四方から投石したため鮮人は両手を合わせて拝むので、手招きして呼び寄せ石で叩いて白状を迫ったが、一言も言わぬので股の辺りを日本刀で斬られた。そこへ福原家令が来て邸内を汚されては困ると追立てられたので引出され殺されたそうだ。
(『いはらき新聞』1923年9月5日。前日号外再録)

村田虎太郎
〔3日日の〕夜になって船を大倉氏別邸の河岸に泊めた。鮮人暴動の風説に基く陸上の騒しさは、現に白鬚橋付近で白刃の閃きを見た同舟の避難者にも夙に伝わっていい難き不安に陥らしめた。
〔略〕警備は水上にも及ぶらしい。抜刀手槍等を提げた人々の乗込んだ無灯の小船は、今は自分等の避難船をも取巻こうとするらしく近寄って来る。あるいは鮮人の指揮船はこれだろうという者がある。あるいは鮮人をかくまうなと呼ぶ者がある。
(東京市役所・萬朝報社共編『震災記念・十一時五十八分』萬朝報出版部、1924年)

つづく



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