2019年10月21日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その6)「おやじと2人で焼け跡に戻ろうとしたのですが、その途中に寺島警察署があります。今もあるんだろうが、その広場にムシロをかぶせられた朝鮮人の死体が15、6あった。何ともいえないいやな気持ちだった。顔のみえるのも、みえないのもありました。当時警察といえば絶対的だったんですが、そういう警察がやるんだから.....。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その5)「竹槍で殺すなんて野蛮な、と思っても私達には何ともすることが出来なかった。通り過ぎてからバンザイと叫ぶ声に振り向いて見ると、生きているか、死んでいるか分からない朝鮮人を隅田川に放り込む所だった。 合言葉に上手に返事の出来なかった人は皆竹槍で殺された、という狂気の非常時、見物人もいた。見過して行った私達もいた。申訳ないと今でも思っています」

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉
H
曳舟川のところにミツワ石鹸工場があり、入口に松の木が植わっていて、朝鮮人が4人殺されていた。これは9月3日か4日、巡って見つけたが、その後木根川で焼いたという話である。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『聞き書き班まとめ』)
島川精
〔3日〕おやじと2人で焼け跡に戻ろうとしたのですが、その途中に寺島警察署があります。今もあるんだろうが、その広場にムシロをかぶせられた朝鮮人の死体が15、6あった。何ともいえないいやな気持ちだった。顔のみえるのも、みえないのもありました。当時警察といえば絶対的だったんですが、そういう警察がやるんだから.....。
(日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

芳谷武雄〔当時内務省警保局勤務〕
〔3日午後、災害地視察で訪れた〕寺島警察署では、例の流言蜚語に禍いされた朝鮮人を保護するため、裏の道場に300〜400名を収容していたが、この連中は、ある種の誤解と、空腹とのために、脱走せんとしてワイワイ騒いでいた。署の周囲には逆上しきった大衆が、これも朝鮮人に関する誤解から手に手に棍棒刀剣などの得物を持って警察署を襲い、一挙に踏み潰さんとする形勢。そのもの凄いこと、署員はこの両者の間にあって必死に鎮撫に努めている。
(芳谷武雄『警察の表裏観』驚察思潮社、1935年)

司法省「鮮人を殺傷したを事犯」
3日午後10時、寺島町大字寺島679付近で、松戸宇之助が朝鮮人2名を日本刀で殺害した。
(姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前1時頃向島曳舟道にて窃盗の疑いありと称し鮮人1名を殺害した犯人寺島町玉ノ井696銘酒屋中島五郎(25)に令状執行収監。

『国民新聞』(1923年同月2IR)
9月3日正午頃府下向島玉ノ湯横にて匕首を以て鮮人2名を放火の疑いありとて殺害した同町玉ノ井685飲食店森川勇(33)同730銘酒屋山本浅雄(24)に令状執行収監す。

『国民新聞』(1923年10月21日)
9月3日午前11時府下寺島村玉ノ井朝鮮婦人の崔秉煕(20)に日本刀で重傷を負わし外鮮人1名を殺害した同玉ノ井82大工職川島和三郎(43)に令状執行収監。

『国民新聞』(1923年10月即日)
9月3日午前9時府下寺島町玉ノ井689先にて鮮人1名放火の疑いありとて殺害した犯人南葛飾郡隅田町字善右衛門新田製缶職工清水清十郎(39)同寺島町玉ノ井66鳶職草野金次(31)同町702無職濱勇太郎(24)に令状執行収監。

〈1100の証言;墨田区/本所被服廠跡辺〉
石毛助次郎
〔3日、厩橋のたもとで〕橋のたもとには、兵隊と巡査が立ち番していた。あたりはほとんど焼け、住民は一人も警戒に出ていない。交番の前では、朝鮮人らしい人が2、3人巡査にとりかこまれていた。兵隊は銃の先へ剣をつけて見張っている。朝鮮人らしい人は、なにか云い訳をしているようだったが、「いいから来い」と、巡査は彼らをぐんぐん引っぱって行った。〔略。自分たちも引っぱられそうになって〕「朝鮮人のやつらがひでえことをしやがったから、おれらにまでとばっちりがくるんだ」
熊さんは警官を憎むというより、朝鮮人を恨んでいる。
(石毛助次郎『異端者の碑』同成社、1970年。実体験をもとにした小説)

笹井菊雄
〔本所の友人を探して被服廠跡で〕 そうだ、ゆわえられてドブにはまっているのもいたがあれはひょっとすると朝鮮の人かもしれないな。ゆわかれていた。だって避難してるんだったらゆわくようなことしないでしょ。ドブにもかなりそんな人がいたようだ。
〔略〕その折に本所を歩いたらば、電車が枕木からもちあげられて、そして線路工事してた線路に朝鮮の人が針金でゆわえつけられている。顔を見るとどうもそうらしい。それはもうとにかく3日の日です。
〔略〕とにかく所々にそういうふうに殺されていた。それは確かに焼けていないんです。被服廠の中は大部分焼けて山になっていた。着物やなんか残っていたら柄なんかで分かるんじゃないかと見て歩いたけれども、本所ではやっぱり朝鮮の人を”敵”にしていたらしい。あの針金で朝鮮の人がむすばれていた線路は、今でいう亀戸通りですね。かわいそうでしたけどね。しかし、みんなおそれてはいたですね。
(「被服廠跡 - 生と死の別れ途」日朝協会豊島支部編『民族の棘 - 関東大震災と朝鮮人虐殺の記録』日朝協会豊島支部、1973年)

長谷川徳太郎
〔3日〕軍隊が出動したらしく、被服廠の中に軍人が諸所に見受けられ、いよいよ、軍の出動かと思っていささか力強く感じられた。そのうち兵隊に、捕縛をかけられる者が数名出て来た。これ等は死人の所持品を盗んでいたので逮捕された恐るべき兇悪人と聞かされ、いささか亢奮せざるを得なかった。この犯人たちは幸にして私の知るかぎりでは日本人ではなく三国人だった。逮捕者は兵隊に引っぱられて美倉橋〔御蔵橋と思われる〕の方へ消えていった。
(長谷川徳太郎『関東大震災の追憶』私家版、1973年)

つづく



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