2019年10月29日火曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その8)「3日の晩、田舎へ立退こうと上野方面へ出かけた。昨夜からの不逞の徒の横行騒ぎで途中検問で警戒の厳重なこと、2、3間も行くと突然自警団の猛者連中が抜刀で詰めよせて検問する。「鉢巻をせよ」と命ぜられる。5、6間行くと「止れ」とくる。「向鉢巻をして通れ」という。〔略〕やっとの思いで上野の下鶯谷まで行くと、先方は軍隊の大警戒で一歩も通さない。兵士からいわれるままに省線電車の空車の中に逃げこんでびくびくもので夜を明かすことにした。彼方此方では軍隊の伝令がとぶ。山川の合言葉などといっている声も聞える。「戦闘準備」と将校の号令が聞える。実に恐ろしい光景であった。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その7)「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。...........」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
友納友次郎〔国語教育学者。勤務先の向島の小学校て被災〕
〔3日、上野で〕「ナアニ、普通の火じゃないのさ、○○がやったのき、松坂屋なんか、2日の朝までは焼けていなかったのに、不意に燃え出したのだからね」
〔3日、浅草で。堂を回って後の広場、ちょうど団十郎の銅像の前あたりに〕そこには一人の労働者らしい若い男の死体が横たわっている。「この野郎だ。この野郎がこの観音堂に爆弾を投げようとしたのだ」「○○の野郎だ、この野郎太てぇ奴だ」「〇〇〇だそうです。この〇〇〇が爆弾をあの観音堂に投げつけようとしだそうです。それをここに避難している人が見つけて、あの通り殴り殺したそうです」
(友納友次郎『教育革命焦土の中から』明治図書、1924年)

『いはらき新聞』(1923年9月5日)
「鮮人を見たら殺して焼いてしまう」
3日千住から上野、九段、神田を経て日本橋、東京駅、丸の内、麻布六本木、三田、京橋、飯代橋、深川を踏破して帰った者の談によると、〔略〕鮮人の殺されたのを13人目撃したが、仲見世で踏んで殺された者は在郷軍人の服装でダイナマイト数本を携帯していた。巡査と憲兵は鮮人を縛するだけで殺さないが、抜刀、竹槍を持った野次がこれを殺し石油をかけて焼いているものもあった。

〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉
荒井聡博〔当時府立第三中学校生徒。下谷中根岸81で被災〕
〔3日〕上野方面に黒い煙が上るのが見え上野広小路の松坂屋デパートが燃えているとのことでした。それは朝鮮人が放火したというデマが飛び、結局自警団が組織され、我が家では男は小生一人なので竹刀を持って詰所に詰めていたこともありました。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)

館山太郎〔当時21歳。金杉上町在住〕
「不逞鮮人を金棒で撲殺す 日本人を脅迫したのでやッつけたと函館で語る」
〔下谷龍泉寺で〕3日の昼頃でした。労働服に半天を着た鮮人が日本人を脅迫しているのを見付けたので、警戒の任に在る私共は金棒でプン撲ったら血がはねるやら、遠くから石を持って打殺して仕舞ました。〔略〕鮮人と見ればもう何でもかんでも殺してしまあねばならん様に思い込まれて、今その時の事を考えるとゾツとします。この金棒はその朝鮮人を殺したのです、と金棒でホームを突いて見せた。
(『北海タイムス』1923年9月7日)

中野とら〔当時22歳〕
〔3日、入谷の電車通りで〕地震の最中に暴徒がここいらに現われるかもしれないと、道行く人が言っています。私は母と子供達を電柱陰にかくして、妹と焼跡から手頃な鉄棒を探してきて、もし来たらかなわぬまでも母を護ろうと決心しました。
交差点でしばらく見張っていましたが、何事もないので、おひる近く我家の焼跡〔浅草〕へ帰ってきました。
〔略〕石巻の兄が上京してきたのは5日でした。東京は大地震や火事で大変な数の人が死に、暴徒が横行して危険な状態と伝えられていたそうです。
(『東京に生きる 第6回 - 語りつぐふるさと東京「手記・聞き書き」入選作品集』東京都社会福祉総合センター、1988年)

東京市衛生技師
3日の晩、田舎へ立退こうと上野方面へ出かけた。昨夜からの不逞の徒の横行騒ぎで途中検問で警戒の厳重なこと、2、3間も行くと突然自警団の猛者連中が抜刀で詰めよせて検問する。「鉢巻をせよ」と命ぜられる。5、6間行くと「止れ」とくる。「向鉢巻をして通れ」という。〔略〕やっとの思いで上野の下鶯谷まで行くと、先方は軍隊の大警戒で一歩も通さない。兵士からいわれるままに省線電車の空車の中に逃げこんでびくびくもので夜を明かすことにした。彼方此方では軍隊の伝令がとぶ。山川の合言葉などといっている声も聞える。「戦闘準備」と将校の号令が聞える。実に恐ろしい光景であった。
(定村青萍『大正の大地震大火災遭難百話』多田屋書店、1923年)

下谷坂本警察署
9月3日鮮人が放火略奪或は毒薬を撒布せり等の流言行われ、同日夕には既に自警団体の各所に設置せられて、警戒に就けるもの少なからず。しかれども蜚語に過ぎざることはこの時略明かとなりたれば、本署は町会その他の幹部を招致して、これを懇諭すると共に、戎凶器拐帯禁止の旨を伝えたるに、これに平かならざるもの多かりし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

陸軍「震災警備の為兵器を使用せる事件調査表」
9月3日午後2時半頃、下谷区三輪町45番地先電車道路上で、近歩兵が30歳位の朝鮮人1名を銃剣で頭部を貫通して刺殺。
(松尾章一監修『関東大震災政府陸海軍関係資料第Ⅱ巻・陸軍関係史料』日本経済評論社、1997年)

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
鹿島孝二〔作家。南稲荷町で被災。上野駅から上野の山へ避難〕
〔3日〕デマがささやかれ出したのは、夕刻近くからであった。「博物館の井戸へ朝鮮人が毒を入れた。あそこの水を飲むと、死ぬぞ!」私が魔法瓶にくんで来て父母に飲ましたのは、博物館の水だった。私自身も飲んでいる。別にどうも無さそうだが、そう聞いてからは飲めなくなった。両大師の通りを根津の方へ行ったところの右手の大きな家に井戸があると言う人があったので、そこまで行くと、行列が出来ていた。しかし驚いたことに、日本刀の抜き身を持った若者が見張っていて、「毒を入れる奴はたたっ斬るぞ!」
前夜広小路の松坂屋へ火を放ったのも朝鮮人だ、とまことらしく話す者もいた。そして、しばらくすると、自警団の腕章を巻いた男たちが、竹の台の桜の下にうずくまっている避難民たちに、「朝鮮人らしい者を見つけたらすぐ知らせてください」と言い歩いた。
9月3日の夜は、その騒ぎで夜を徹した。うとうとと眠りかかると、叫び声で醒まされたのである。「鮮人だ!」 飛び起きて見ると、声のした方角へサーチライトが向けられていて、その光芒の中に、逃げまどう人間とそれを追う群衆の姿が浮かぶのであった。血を見ることもあった。一と晩中に、何十回もくり返されたのである。
私は早稲田で同級生になった林金山君のことを心配した。京城の人である林君は、もし今東京にいるとしたら、こんな眼に遭わされているのではあるまいか。夏休みだから京城に帰っていればいいのだが。僅か1学期間の交りでしかないが、林君から私が受けた印象はとても良いものだった。林君がこう言った。「朝鮮の小学校で教鞭をとっている日本人の先生方にきいてごらんなさい。どなたでもきっと言うでしょう。小学生時代の朝鮮人は純真で、素朴で、索直な子供だが、小学校を卒業して社会に出てから2、3年後に遭うと、みんなひねくれた子になっていると。社会に出ると、日本人に虐げられるのです。悲しいです」
その虐げのさまを、9月3日の夜、私はまざまざと見てしまったのだった。ただし、私自身にしてからが、あの夜は鮮人に対して憎しみが燃えたことを白状しなければならない。(こっちが死ぬか生きるかの瀬戸ぎわに、仕返しをするとは何事だ!)と腹を立てたのである。しかし加害者にならずに済んだのは、しあわせだった。
〔略。4日夜〕 この夜もまた朝鮮人狩りだった。鮮人! という叫びがどこかで上がると、間髪をいれずその方向へサーチライトが向けられ、自警団員に首筋をとられて引っ立てられる朝鮮人の姿が、光芒の中へ浮き上がるのだった。伯父は立ち上がって眺めていた。私がそれを止めたのである。「伯父さん、立ってないで坐ってください。大きいから鮮人と間違えられますから」
(鹿島孝二『大正の下谷っ子』青蛙房、1976年)

清川虹子〔俳優。当時12歳。神田で被災、上野音楽学校へ避難〕
〔3日〕朝鮮の人が井戸に毒物を投げ入れたから、水は一切飲んではいけないと言われたのは、この日です。
朝鮮人が襲撃してくる、警戒のために男たちは全員出てくれ、どこからともなく言ってきて、父も狩り出されました。いわゆる「自警団」です。
だれが考えたのかわかりませんが、日本人は赤い布、朝鮮人は青い布を腕に巻くことになり、父は赤い布を巻いて出て行きました。すると1時間ほどして、日本人は青で、朝鮮人は赤だったとわかって、父がまちがって殺されてしまうと思い、私は泣き出してしまいました。あとで、すべてはデマとわかりましたが、そのどさくさでは確かめようもなくて、こうして朝鮮人狩りが始まっていったのです。
朝鮮人を一人つかまえたといって音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。私はわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました。
(清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)

染川藍泉〔当時十五銀行本店庶務課長〕
〔3日朝、上野公園で〕私がちょうど公園の出口の広場へ出た時であった。群集は棒切などを振りかざして、喧嘩でもあるかのような塩梅である。獲物を持たぬ人は道端の棒切を拾ってきて振り回している。近づいて見ると、独りの肥えた浴衣を着た男を大勢の人達が殺せ、と言ってなぐっているのであった。群集の口から朝鮮人だという声が聞えた。巡査に渡さずになぐり殺してしまえ、という激昂した声も聞えた。肥えた男は泣きながら何か言ってる。棒は彼の頭と言わず顔と言わず当るのであった。
こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気が溢れて来た。〔略〕そのうち銃を持った警備の兵士が出て来て、引立てていった。
〔略。3日夜〕美術学校の前を通って、谷中の通りに出る所には、青年団とか、在郷軍人とかいった人達が私達のために警戒しておった。それは両人で縄を張って、一人一人誰何して通すのであった。私は無論わけなくここを通った。彼等は帽子を取ってこちらから声をかけてくれと言う。やはり鮮人を物色しているのであった。(1924年記)
(染川藍泉『震災日誌』日本評論社、1981年)

平山秀雄
〔3日朝〕壽松院の方面や自宅の焼け跡を見るために出て行くと、松坂屋を焼いた余塵が熱くて容易に通れません。
御徒町の四ッ角へ来ると、筋骨逞しい大きな鮮人が息も絶え絶えに打倒れています。見れば眼玉は飛び出て、口から血が流れそこら一體傷だらけになっている上を、大勢の者が寄って、石を投げつけたり棒でうったりしているから、傍にいる人に訊ねると、この者は爆弾を携えて2人で歩いていたのを見付けてここで殺し、一人は巡査が連れて行ったとの事でありました。
〔略。3日朝〕老松町まで来ると、今度は支那人が多勢の人に取り巻かれて巡査に調べられ、周囲からは殴れ殺せと各々棍棒を以て大騒ぎしている。巡査は隈なく同人を調べたが、別に怪しい物を持っていないから、助けてやれと一同にいって放してやりましたが、この支那人が1丁程先へ行くと又々取調べられましたから、私が傍から、この男は今調べ済みだといって放させてやりました。
(高橋太七編『大正癸亥大震災の思い出』私家版、1925年)

『北陸タイムス』(1923年9月5日)
「不逞の徒蜂起で物凄き帝都軍隊に手向いドシドシ検束」
3日午前中上野署に30名谷中署に30〜40名検束せられた。検束者は軍隊に手向いしたので血まみれの者もあり腕を切られている者もあり、一見物凄きものあり。この外無検束者で放火したため火中に投ぜられた者もある模様である。

『下野新聞』(1923年9月6日)
不逞鮮人が上野博物館の井水に毒薬を投じ更に日本婦人の手を介して某井戸に同様の手段を施したとの報に伝わったので、焼け残った山の手方面では3日の夜から非常警戒に当り各町民は不眠不休でこれが防止に着手し万一に備える所あり。為に町外から飲料水を貰いに来るものあるも絶対に給与しない方法を執ったためか当夜は無事であったと。

つづく




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