より続く
慶応3年(1867)12月
・江藤新平、永蟄居処分赦免、上京。三条実美に面会、討幕の遅れを弁明
12月1日
・大久保利通、中山忠能にクーデタ決行説得。岩倉・中御門が大久保をバックアップ。
岩倉以外の堂上は、10月14日大政奉還上表提出により、慶喜の罪を問う名義が消失したとしてクーデタには消極的。12月初、中山らはようやくクーデタ決行を諒承。方法として、①まず非倒幕派諸藩を交え新政府を作り、②この新政府が慶喜に辞官・納地を命じる。但し、これを尾越2侯に内論周旋させ、この周旋が成功しない場合、正式命令により反命する者を追討する、という間接的なもの(先の挙兵計画は倒幕密勅下付⇒奇襲挙兵)。また、新政府成立と同時に「叡断」により、三職会議にかけず、慶喜に辞官・納地を命じ、受諾しない場合、朝命に反すとして交戦を始める方法も、中山等堂上の同意を得られず。
・ブラームス(34)、ドイツ・レクイエム一部初演。
12月2日
・西郷隆盛と大久保利通、後藤象二郎に王政復古を12月8日(小御所会議の開催)とする旨伝える。
12月4日
・(新12/29)パークス、大坂で老中板倉周防守勝静と会見。
・山内容堂、ようやく高知を出発。6日、海路大坂へ到着。
12月5日
・河井継之助、娼妓の禁止令を出す。
12月6日
・後藤象二郎 → 松平慶永のルートで慶喜、クーデタ計画知るが将軍職返上のため何も出来ず。
・江戸で「お札」降りは「異説をいいふらして人心をまどわすもののしわざ」との町触れが出る。以降の降札は2件のみ。
12月7日
・西郷と大久保、王政復古を12月9日に変更。
・兵庫開港、大坂開市の勅許。
・天満屋事件。海・陸援隊士陸奥源二郎・関雄之助・岩村精一郎・斉藤治一郎(大江卓)、天満屋夜襲。紀州藩士三浦久太郎襲撃。京都。坂本・中岡暗殺に憤慨して。紀藩新撰組4人死、海陸側中井庄五郎死。
12月8日
・土佐藩山内容堂、入京。
・岩倉具視(蟄居解除)・三条実美ら七卿・長州藩父子(官位復旧)ら、赦免。入京を許可。
・土方歳三、鴻池善右衛門・加嶋屋作兵衛ら十軒より4千両を借用し、証文に署名捺印。
・岩倉具視、侍従鷲尾隆ジュに高野山挙兵内命。9日、鷲尾侍従一行、淀川下る。土佐藩白河藩邸より香川敬三・田中顕助・大橋慎三ら50名。12日、高野山福生院着陣。15日、金光寺を新本陣とする。
12月9日
・王政復古クーデタ。朝、薩摩・安芸藩の討幕派、越前・尾張(のち土佐も)藩の公議政体派の兵、宮中要所固める。明治天皇(15)、「王政復古の大号令」(岩倉・大久保が玉松操の協力で作成)。
慶喜の将軍職辞退を認め、幕府・摂関を廃し、「仮に」、総裁・議定・参与の三職新任。総裁有栖川宮熾仁親王。議定仁和寺宮嘉彰親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、慶勝、慶永、浅野茂勲、容堂、島津忠義。参与大原重徳、岩倉具視、薩・長・土・芸・尾・越藩より各1名。
「徳川内府従前御委任の大政返上、将軍職辞退の両条、今般断然聞し食され候。そもそも癸丑以来未曽有の国難、先帝頻年宸襟を悩され候次第、衆庶の知る所に候。これによって叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回の御基立てさせられ候間、自今摂関幕府等廃絶、即今、先ず仮に、総裁議定参与の三職を置かれ、万機行はせらるべし。諸事神武創業の始めに原に、縉紳武弁堂上地下の別なく、至当の公議を竭し、天下と休戚を同じく遊さる叡慮に付き、各勉励旧来驕惰の汚習を洗ひ、尽報国の誠を以て奉公致すべく候事。 一、内覧、勅問御人数、国事御用掛、議奏、武家伝奏、守護職、所司代、総て廃せされ候事。 一、三職人体・・・ 一、太政官始、追々興させらるべく候間、其の旨心得居るべく候事。 一、朝廷礼式、追々御改正在らせらるべく候得共、先ず摂□・門流の儀止められ候事。 一、旧弊御一洗に付、言語の道洞開せられ候間、見込之れ有る向は貴賎に拘ら ず忌憚無く献言致すべし、且人材登庸第一の御急務に候故、心当の仁之れ有り候はば、早々言上有るべく候事。 一、近年物価格別騰貴、如何共すべからざる勢、富者は益富を累ね、貧者は益窘急に至り候趣、畢竟政令不正より致す所、民は王者の大宝、百事御一新の折柄、旁宸衷を悩ませられ候。智謀遠救弊の策これ有り候はゞ、誰彼無く申出づべく候事。 ・・・ 右の通り御確定、一紙を以て仰出だされ候事。 慶応三年十二月九日」(「法令全書」)。
「縉紳・武弁・堂上・地下之無別、至当之公議ヲ竭シ」という公議政体論が導入。討幕派は、天皇制による政治権力の国家的集中を目指しながらも、現実には、公議政体路線をも視野に収めた「諸藩連合」組織に権力主体をおく体制づくりと妥協。
王政復古・将軍職辞任は、討幕派・公議政体派共に共有する目標。討幕派は少数派であるため、政変後の臨時政府を正当化するために、土佐藩などの公議政体派を王政復古クーデタに一旦「引き込ん」(木戸)だ。
・夕、小御所で三職会議(小御所会議)。大久保・後藤陪席。慶喜処分で紛糾。「短刀1本あれば片付くことではないか」控えの西郷。慶喜に辞官・納地命じ、徳川慶勝・松平春嶽がこれを伝達。京都守護職会津藩主松平容保・所司代桑名藩主松平定敬の辞職・兵士帰国、決定。
当時日本の総高は約3千万石で、諸大名が約2200万石余、幕府直領が400万石、旗本直参分が300万石余。領地献納の内訳は、幕府直領の内200万石の返上を命じるもの。
公議政体派山内豊信、クーデタを批判、幕政を弁護し、慶喜を議定に参加させるよう要求。クーデタは、「幼沖(幼い)天皇を擁して、権柄を盗もうとするもの」と言い切る。岩倉は、「御前」と一喝。休憩中、座外で兵を総指揮する西郷が、岩倉に「短刀一本あれば、型ずく」と伝え、豊信も譲歩する。
「慶応三年十二月九日条 中山殿より先ず一点無私の公平を以て、王政の御基本建てさせられ度き叡旨の趣御発言にて、夫より徳川氏の弊政、殆ど違勅ともいふべき条々少からず、今内府政権を還し奉るといへども、其の出る処の正邪を弁じ難ければ、実蹟を以てこれを責譲すべしなど、縉紳諸卿論議あるに、土老侯大声を発して、『此の度の変革一挙、陰険の所為多きのみならず、王政復古の初に当って兇器を弄する、甚だ不祥にして乱階を倡ふに似たり。二百余年天下太平を致せし盛業ある徳川氏を、一朝に厭棄して疎外に付し、幕府衆心の不平を誘ひ、又人材を挙る時に当って、斯の政令一途に出、王業復古の大策を建て、政権を還し奉りたる如き大英断の内府公をして、此の大議の席に加へ給はざるは、甚だ公議の意を失せり、速やかに参内を命ぜらるべし。畢竟此の如き暴挙企られし三四卿、何等の定見あつて、幼主を擁して権柄を窃取せられたるや』抔と、したゝかに中山殿を挫折し、諸卿を弁駁せられ、公も亦諄々として、王政の初に刑律を先にし、徳誼を後にせられ候事然るべからず、徳川氏数百年隆治輔賛の功業、今日の罪責を掩ふに足る事を弁論し給ひ、諸卿の説漸く屈せんとする時、大久保一蔵席を進んで申陳しは、『幕府近年悖逆の重罪而已ならず。此の度内府の所置におゐて其の正姦を弁ずるに、強ち尾越土侯の立説を信受すべきにあらず。是を実事上に見るに加かず。
先づ其の官位を貶し其の所領を収めん事を命じて、一毫不平の声色なくんば、其の真実を見るに足れば、速やかに参内を命じ朝堂に立しめらるべし。もしこれに反し一点扞拒の気色あらば、是れ譎詐なり。実に其の官を貶し其の地を削り、其の罪責を天下に示すべし』との議論を発す。岩倉卿是に附尾して其の説を慫慂し、『正邪の分、空論を以て弁析せんより、形迹の実を見て知るべし』と論弁を極められ、二侯亦正論を持して相決せず。三宮尾侯は黙然たれば、中山殿、尾侯は如何と詰らるゝに、容堂の説のごとしと答へらる。薩侯は如何と問はるゝに、一蔵言ふ処のごとしと答へられ、芸侯は土侯に同す。岩大二氏猶正邪を実行に証せん事を強弁して屈せず。諸藩士に議せらるゝに、尾にては田宮如雲、丹羽淳太郎、田中邦之輔、越は中根雪江、酒井十之丞、土は後藤象二郎、神山佐多衛、薩は岩下佐次右衛門、大久保一蔵、芸は辻将曹、久保田平司にして、薩を除くの外は、悉く越土二侯と同論なりといへども、共に是を主張せば、君臣合議雷同の嫌疑を生じ、却て事を害せん事を恐るゝの意衷、期せずして同一なれば、各顔を見合せて抗せず、唯々諾々たり」(「丁卯日記」)。
・京都守護職ならびに京都所司代廃止。新選組は新遊撃隊へ編入。
・若年寄永井尚志(54)、御役御免寄合となる。19日、逼塞。
12月10日
・朝廷、徳川慶喜の辞職を許し辞官納地を命じる。
・慶勝・春嶽、二条城で慶喜と会見。将軍職廃止、辞官・納地奏請告げる。
福井・尾張両藩老公の斡旋により慶喜に「辞官・納地」を求めざるを得ず、これは、この後の公議政体派勢力挽回の重要な契機ともなる。福井・土佐・尾張藩による画策で、公議政体派が着々と地歩を固め、新政府は、「納地」についても慶喜に対する「領地返上」の語を削除し、「御政務用度ノ分、領地ノ内ヨリ取調ノ上、天下ノ公論ヲ以テ御確定可申被遊」の方針(政務の必要経費分の領地を献納する形に変更させる)に改める(「春獄私記」「復古記」1)。これは、西郷隆盛ら武力討幕派には黙視できないところで、彼らは巧みに旧幕府側への挑発工作を進める。
・長州軍(家老毛利内匠)、入京し相国寺に屯営。
12月11日
・幕府側若年寄大河内正質・陸軍奉行竹中重固ら、二条城で討薩方針検討。纏まらず。
・慶喜、旗本兵5千・会津兵3千・桑名兵1500を二条城に集め外出禁止。
・薩摩藩士村田新八ら、会津藩士と衝突。
・新選組、七条堀川の屯所を引き払い伏見奉行邸へ移る。
12月12日
・山口容堂意見書。深尾鼎を使者として朝廷に建白書を提出。公明正大なる論議を求める。戒厳を解き諸侯会議開催。
・西郷隆盛・大久保利通ら、参与職となる。
・慶喜、春嶽らの意見を容れて、松平容保・桑名藩主松平定敬・老中板倉勝静らを従え二条城を出て、翌13日、大坂城に移る。
慶喜のいる二条城は、「一戦して薩藩に報いんと、殆ど狂せるが如く、叱咤・慷慨、殺気天を衝く」(「徳川慶喜公伝」)情勢、一方、御所側も軍勢が続々と集結して意気軒昂で、両者は激突寸前の状況。「二条城の景況ハ、二条城の大手門内、門外、兵隊羅列し、剣筒を左右より出し、今にも放発の事如何哉と存候。九日以来ハ日々参内し、或は二条城へ参ル。実ニ二条城ノ形勢可畏。今にも剣にて突殺さるゝやに覚申候。二条城ヘ参リ九日以後也。慶喜公云ク、春嶽毎々登城は忝存候、乍併、御承知の程は不存候ヘ共、春嶽ハ、徳川家に心と力を尽さすして、御所の方ノ取持をスルナリと、諸役人より下々迄取沙汰いたし候間、殿中及城中御歩行、いかにも気遣敷存候間、殿中ハ坊主(表)二三人も、相付可申と懇話故、段々思召の程は難有奉存候ヘ共、殺サレル時ハいつたか不知、坊主ノ二三人居ても役に立申さぬ事故、御断り申候と答フ。最早死ヲ極メ候事故、心丈夫にいつ方もあるき居り申候。是も此時の様子を見るの一端といふへし。」(春嶽「逸事史補」)。
・鷲尾隆聚侍従ら、高野山の福生院に着陣。田中顕助ら陸援隊、公家鷲尾隆聚を擁し高野山に挙兵、紀州藩牽制。
・勤王家村井政礼、処刑。
・新選組、二条城に詰めるが水戸藩本圀寺組と争いを起こす。新遊撃隊の名を返上、旧名通り「新選組」を称す。
・前田慶寧、反朝廷行動をとることを恐れ京都を出発し加賀へ。
12月13日
・慶喜、大阪城に入る。松平容保・松平定敬・板倉勝静ら従う。14日、大坂城で仏公使ロッシュ・英公使パークスと会見。
「一月七日(陰暦12月13日)、もう大君は万事休すである・・・一行が濠にかかる橋を縦列で渡ってゆく有様は、色彩感にあふれていた。入城は大手門からであった。「下馬」のところで、大君のほかは、みな馬から降りた。この光景にふさわしく、雨がおちてた」(「萩原延壽「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄」)。
・天満屋騒動で討死した宮川信吉に対し、紀州藩より弔慰金42両を賜る。
・中島三郎助(47)、小十人格軍艦役となる。
・アイルランド独立目指すフィニアン同盟、アイルランド人囚人脱出のためロンドン、クラークウェル刑務所爆破企図、12人死者。
12月14日
・王政復古を諸藩に布告。徳川慶喜、辞官納地を拒否し事態は悪化。
・新選組、永井主水正に従って下坂。北野天満宮に着陣。
・ゴーギャン(19)、13か月の航海の後、トゥーロンで下船。
12月15日
・後藤象二郎・福岡藤次、公議政体に関する具体的な意見書を朝廷に提出。
・三職議事細則成立。議定会議独立・参与任免専決。岩倉・大久保の発言権そぎ、公議政体派の多い議定会議の支配権確立。
・甲府城攻略事件。上田修理(武蔵の地主)の一隊、甲府めざすが八王子で壊滅。
・相州荻野山中陣屋襲撃事件。鯉淵四郎(常陸の郷士)ら35人、大久保氏陣屋急襲。18日、江戸薩摩藩邸に戻る。
・永井尚志(なおゆき、53)、若年寄に就任。
つづく
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