2020年6月4日木曜日

慶応3年記(13)12月16日~31日 尾崎紅葉・斎藤緑雨生まれる 慶喜の納地決定(討幕クーデタ派窮地) 近藤勇狙撃 江戸薩摩藩邸焼討 

慶応3年記(12)12月1日~15日 王政復古クーデタ 小御所会議 「短刀一本あれば、型ずく」(西郷隆盛) 慶喜、大坂城入城「もう大君は万事休すである・・・一行が濠にかかる橋を縦列で渡ってゆく有様は、色彩感にあふれていた。入城は大手門からであった。.....この光景にふさわしく、雨がおちてた」(「萩原延壽「遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄」)
より続く

慶応3年(1867)12月
12月16日
・徳川慶喜、6ヶ国代表(英、仏、米、蘭、伊、普)を大坂城に引見、外国交際の責任が当方にあることを宣言。
この時点の幕府の選択肢(福地源一郎)。①大坂に拠り、幕府軍で京都を封鎖、②慶喜に上京の勅命が下れば、汽船で東帰し、会津・桑名両藩で①策を実行、③京都に攻め上り、薩長軍と一戦を交える、3策。①を上策、②を中策、③を下策とし、幕府はこの下策を選んだという。前将軍が起てば、諸藩は従い、薩長は戦わずして潰散するとの判断が幕府側にある。「幕閣が恃む可からざるを、恃みたるが故なるのみ」と述べる。「恃む可からざる」もののなかには、ロッシュ以下の国際勢力の支持も含まれる。民心離反はいうまでもない。(福地源一郎「幕府衰亡論」)。
・尾崎紅葉生まれる。
「紅葉は七人の中で一番ユニークな父親を持っていた。しかも彼は、そのことを、ひどく恥じていた。紅葉の硯友社の仲間だった江見水蔭は書いている(「紅葉の身の上話」)。
紅葉の実父が彫刻師の谷斎である事は、今では周知であるが、故人はそれを非常に秘密にしてゐた。それで硯友社の者も晩年まで知らなかった。
谷斎といふのは常に盛り場へ(相撲とか芝居とか)赤羽織を着て出入してゐたので、幇間としての方が名高かつたが、それは浮世を茶化してゐたので、奇抜な逸話にも富み、明治奇人伝中の一人に相違なかった。
殊に象牙彫りの腕前に於ては確かに秀れてゐて、谷斎の刻銘があれば品物の値が違ふと云はれた位。今でなら立派な美術家なのだが、時代が時代なので、人からも安く扱かはれたので、紅葉はそれを気にしたのか、その谷斎の死去の時にも、兄弟同様にしてゐた硯友社中の、誰にも通知無しで、葬式を行った。」(『七人の旋毛曲がり』)
・新選組、伏見鎮撫として伏見奉行所へ転じ、小林啓之助を薩摩の間者として殺害。
・英、マルクス(49)、「在ロンドン、ドイツ人労働者教会でおこなわれたアイルランド問題についての講演の下書き」。アイルランド製造業の減少、産業革命を支えるアイルランド移民労働者。
12月17日
・新選組、二条城へ入って来た水戸藩と馬が会わず伏見へ移動。
・由利公正、龍馬の推薦により新政府より朝命を受け、17日入京。
・(旧11・22)徳川昭武ら一行、英国からパリに戻る。
12月18日
・木戸準一郎(桂小五郎)、朝廷の命により上京。
・(新1/12)大目付戸川安愛、「挙正退姦の表」持ち入京。
・由利公正、5年の蟄居謹慎を終え御用金穀取扱方に任用。
・勝海舟、老中稲葉正邦へ非戦を主張する意見書を提出。
・御陵衛士阿部十郎・佐原太郎・内海二郎の3人、近藤勇の妾宅に沖田総司を襲うも果たさず。夕刻、御陵衛士の篠原泰之進・阿部十郎、二条城から帰路につく近藤勇を狙撃。近藤勇は、馬上で右肩を撃たれる。同行の井上新左衛門と馬丁芳介、没。
・ええじゃないかが広島に発生。
12月19日
・天皇政権成立と対外方針を列国に告げる詔書案裁可。20日、春嶽・容堂、反対。
・5卿、太宰府発。21日、上洛途中薩摩「春日丸」乗り博多発。23日、三田尻着。井上・広沢随行し毛利敬親父子を訪う。
12月20日
・西園寺公望(18)、参与に選ばれる。岩倉具視の推挙と思われる(原田熊雄編「陶庵公清話」)。
・土佐藩に伏見街道の警備が命じられる。
・近藤勇・沖田総司、大坂奉行屋敷にて療養のために下坂。会津藩、近藤に20両の見舞金を贈る。
12月21日
・陸奥陽之助、アーネスト・サトウを訪問。
・オーストリア、自由主義的な「12月憲法」が制定。
・ポーランド、ガリツィアの議会権限が拡大。
12月22日
・万機親裁の布告。
・高野山鷲尾侍従一行、人数増え隊を編成(1/8までに1,318人)。/24.斎原治一郎(大江卓)、錦旗求め出張。/1/6.勅書・錦旗、高野山に届く。
・夜、江戸市中取締りあたる庄内藩兵の赤羽屯所に弾丸が撃ち込まれる。追跡した者の報告では薩摩藩邸に逃げ込んだとのこと。翌晩にも発砲事件。
12月23日
・新政府、軍資金調達のために金穀出納所を設立、三井が為替方となる。
・(新1/16)江戸城二ノ丸から出火、二ノ丸が焼け落ちる。天璋院(13代将軍家定夫人、島津斉彬養女)の住んでいた場所で、折から薩摩藩邸の浪士が天璋院を奪う計画を持つとの噂もあり。
・薩摩支藩佐土原藩士、江戸市中警護の庄内藩屯所へ発砲。
・石阪昌孝、江戸出府。早朝、小島家に立ち寄る。27日帰宅(「小島日記」)。
12月24日
・三職会議、慶喜の納地は諸侯会議で決定。容堂・春嶽の全面勝利。小御所会議の骨抜き。
公議政体派・幕府派大名は数の上では優勢で、戦争のない平時では討幕派は劣勢。豊信・慶永ら公議政体派は、慶喜側近と協議し、領地返還条件を緩和し慶喜を議定に任命する手順を決める。慶喜の非戦方針により新政府討幕派は追いつめられる。大久保利通は、「今日に相成りそうろうては、戦に及ばずそうらえば、皇国の事はそれ限り水泡」と述べ、戦争を待望。
・老中稲葉正邦を中心とする幕閣会議、前日の庄内藩巡邏兵屯所への襲撃などに対して、薩摩藩砲撃の決断を下す。
・元将軍徳川慶喜、水戸藩主徳川慶篤の謹慎を解き、関東地方に蜂起せる草賊を討伐させる。
・庄内藩執政松平権十郎、江戸城に呼ばれ薩摩藩邸浪士取締命ぜられる。他に上の山藩・岩槻藩・鯖江藩。
・鈴木貫太郎、誕生。
・公事方勘定奉行井上清直(川路の弟)、病没。
・[清・同治6年11月29日]淮軍の劉銘伝(31)、山東で東捻を破り東捻が平定。
12月25日
・児島惟謙、大坂に下り幕兵・会津兵監視。/29.京都に戻り報告。
・江戸三田の薩摩藩及び左土原邸焼打ち。庄内兵1千含む出羽松山・上の山・鯖江・前橋・西尾の諸藩及び陸軍方の総勢2千、フランス軍事顧問ブリュネ砲兵大尉の助言のもと、薩摩屋敷に砲撃。邸内150。49人討死。薩摩藩留守居役篠崎彦十郎(42)、槍で刺され死亡。益満休之助捕わる。相楽総三・伊牟田尚平・落合直亮ら翔鳳丸で逃亡。江戸湾で回天丸の砲撃受ける。両藩邸は焼失。武力討幕派の江戸撹乱策の挑発に乗せられる。
・三条実美ら5公卿、太宰府より大坂に到着。27日、薩摩藩浄福寺隊に守られて入京し参内。
12月26日
・翔鳳丸、伊豆子浦発。副艦長伊地知八郎。29日、紀州熊野浦九鬼港入り。30日、水原次郎(落合)・伊牟田尚平、陸路京都へ。翌年1月4日、京都入り。
26 ・容堂・春嶽、大坂に慶喜訪問、辞官納地につき勅諚を伝宣す。28日、慶喜、請書提出。またこの日、上洛決意。
尾越2侯、三職会議で可決された公議政体派の主張にそった諭書案を示し、これ迄の経過を説明、慶喜は、「殊に御感激にて、夫程に時機到来の事候へは・・・」として請書を提出。慶喜が軽装上京すれば政府はこれを議定に任命せざるを得なくなる。政府内部の倒幕派のヘゲモニーは成立しておらず、クーデタ強行の意義は消えつつあり、倒幕派は窮地に立つ。
・旧幕府、江戸五宿に関門を置き、板橋宿を守山藩主松平頼升、常陸府中藩主松平頼策に警守させる。
12月27日
・天皇、京都御所建春門外叡覧所で、鹿児島・長州・広島・高知4藩兵の調練を天覧。
・大坂でのお札降りが終り、ええじゃないかの踊りも終る。2ヶ月の狂乱。
12月28日
・小栗上野介(40)、幕府勘定奉行勝手方兼海軍奉行兼陸軍奉行となる。
・土佐藩山田平左衛門・吉松速之助率いる第1・2別撰小隊、伏見方面の警備につく。
12月29日
・新撰組小幡三郎、薩摩藩邸に潜入。
・旧幕府、勘定奉行並岡田安養に、下総国布佐村陣屋に在陣して、安房・上総・下総・常陸の旧幕領を管理させる。
・観音崎に日本最初の燈台が完成(フランスの援助)(日本最初の灯台)。
12月30日
・慶喜の請書、朝廷提出。
・佐々木、長崎にて海援隊士一同に対し、いろは丸事件賠償金15345両を分配。大洲藩へ42500両返済。
・土佐藩、谷守部、小南五郎右衛門らへ出兵要請のため京都を出立。
・尾張藩士荒川甚作・中村修、伏見奉行所を訪れ、歳三に退去を求める。
・三井三郎助、千両を朝廷に献金。
12月31日
・斎藤緑雨生まれる。太陰暦に12月31日はないため、12月30日などの諸説あり。
「・・・・・緑雨はその短かった生涯の晩年、親友の幸徳秋水たちに、自分はさる大名のご落胤であると吹聴した。それは根も葉もないことではなく、彼がそう信じたくなるかすかな理由があった。
緑雨の父利光は、津の人、賢木神光の三男に生まれ、医学を修め、津藩主藤堂家奥方付き祐筆だった滝沢のぶと結婚後、神戸藩主本多家典医斎藤俊道の夫婦養子となった。二人の間に生まれた長男が緑雨(本名賢)である。しかし、のぶは祐筆時代に一人の娘(緑雨の異父姉)を生んでいた。緑雨の生涯を探索する小説家を主人公にした野口富士男のメタフィクションの傑作に「散るを別れと」がある。その小説中で、主人公の小説家は、こういう見解を抜露する。
これはあくまで僕の推理というより臆測でしかないんですが、のぶの父か、のぶ自身が藤堂家か藤堂家奥方付きの祐筆で、殿様のお手がついたというようなことじゃなかったがと思うんです。そのために賢木家の三男坊でうだつのあがらなかった緑雨の父利光は、傷ものの子持ち女のぶを嫁に押しつけられた代償として - というのは、のちに上京して藤堂家の隠居のお抱え医師になっているからなんですが、そのへんの事情の隠蔽策として神戸藩本多家の典医斎藤俊道のところへ夫婦養子として入ったか、入らされたかしたんじゃないでしょうか。
緑雨の頭の中では、いつのまにか、自分が藤堂家の殿様の「お手つき」の子となっていったのだ。」(『七人の旋毛曲がり』)

慶応3年記おわり


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