2020年11月9日月曜日

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ3)「若い一葉が悩まされた肩こり、弱視、髪の毛の細さ、さらには肺結核の異常に速い進行、それらの根本の原因は、おそらく栄養不足である。子規の食欲は一葉とは対照的であった。結核菌と対抗するために、堂々と美食をし、大食をした。食べることは子規にとって表現欲と等価であった。または、満たしきれぬ表現欲の補償作用であった。」   

 関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ2)「『仰臥漫録』中で、もっとも力を注いだ記録は食べものであり、その日の献立であった。 病状は日々深刻さを増すというのに子規の食欲は衰えない。むしろ昂進するようである。この時期、正岡家の月収五十円のうち、食費に投じられる分、エンゲル係数は六五前後と考えられた。終戦直後の食糧難時代並みの数字だが、そのほとんどは子規だけが食して、母と妹の口には入らぬ贅沢なおかずのせいである。」

より続く

関川夏央『子規、最後の八年』「明治三十四年」以降(メモ3)

九月十日には「便通、間にあはず」とある。律の準備に間に合わず粗相をしたということであろう。そのあと繃帯の取換え。号泣する。

しかし間食には、「焼栗八、九個 ゆで粟三、四個 煎餅四、五枚 菓子パン六、七個」を食べている。九月十二日にも繃帯換えの大騒動があったが、その日の夕食には鰻の蒲焼を七串食べた。ほかに酢牡蠣とキャベツで飯を一椀半。食後には梨一つと林檎ひと切れ。九月十三日の間食は、桃の缶詰三個と紅茶入り牛乳五勺、それに菓子パン一個と煎餅一枚である。

鰻の蒲焼と桃缶は岡麓が届けてきた。茶と林檎は虚子が一円を添えて使いに託した。気慰みの写生画の対象に、庭の花々や棚の糸瓜(へちま)のほか菓子パンさえ選ぶこの時期の子規への見舞いは、食べものと決まっていた。その見舞いの品々を、子規は『仰臥漫録』に欠かすことなく記録した。

九月十四日午前二時頃、子規は耐えがたい腹痛で目覚めた。深夜に絶叫号泣。ついで「下痢水射三度許(ばかり)」とある。

隣家の医師を叩き起こそうとしたが、あいにく旅行中で留守という。電話を借りて、やや離れた場所に住む医師に連絡をとった。夜が明けてやや痛みも鎮まった頃、代診の若い医師がやってきた。疲労困懸。

九月十八日午後、虚子がきた。このとき虚子は、九段坂上の富士見町に転居したことを告げた。家賃十六円という。子規は初耳である。ほかに「ホトトギス」事務所を猿楽町に借りている。こちらは四円五十銭という。「ホトトギス」と俳書の刊行だけでここまできたのは、虚子の才覚には違いない。感心する。感心はするけれども、かすかな不快の念がともなうのをおさえられない。

上根岸の「吾盧(わがろ)」の家賃は六円五十銭にすぎない。・・・・・

子規は翌十九日の『仰臥漫録』に「家賃くらべ」という戯文を書きつけた。

「虚子(九段上)十六円。瓢亭(番町)九円。碧梧桐(猿楽町)七円五十銭。四方太(浅嘉(あさか)町)五円十五銭。鼠骨・豹軒(へうけん)同居(上野源泉院)二円五十銭」

子規はつづける。

「自分は一つの梅干を二度にも三度にも食ふ。それでもまだ捨てるのが惜(おし)い。梅干の核(たね)は幾度吸(す)はぶつても猶(なほ)酸味を帯びて居る。それをはきだめに捨ててしまふといふのが如何にも惜くてたまらぬ」

食べものに関しては贅沢でわがままであった子規の言とも思われない。

これを読んだ虚子が、自分へのあてつけと思ったのは当然であった。『仰臥漫録』は、つねに子規の枕頭に撞いてあり、訪問者は自由に見ることができた。これはおもしろい、という感想が大勢を占めたが、虚子は『仰臥漫録』が子規の自分に対する「不平を洩らす為の記録ではないか」(『柿二つ』)とさえ疑った。

九月二十四日は、よく晴れた秋分の日であった。

朝、大原家の大叔母が餅菓子持参で見舞いにきた。信州から氷餅(ひもち)を送ってきた。陸(くが)家からは自家製の牡丹餅をもらった。お返しに菓子屋にあつらえた牡丹餅をやった。

「牡丹餅をやりて牡丹餅をもらふ。彼岸のやりとりは馬鹿なことなり」

この日の三食の献立。


朝飯 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬 牛乳(ココア入) 餅菓子一つ 塩せんべい二枚

午飯 粥三わん かじきのさしみ 芋 なら漬 梨一つ お萩一、二ケ

間食 餅菓子一つ 牛乳五勺(ココア入) 牡丹餅一つ 菓子パン 塩せんべい 渋茶一杯

夕 体温卅七度七分 寒暖計七十七度 生鮭照焼 粥三わん ふじ豆 なら漬

葡萄一ふさ


このうち、佃煮、なら漬、餅菓子、牡丹餅、葡萄はもらいものである。ほかに食前に葡萄酒を一杯飲み、クレオソートを毎日六粒ずつ服用している。

この日の献立をざっと計算してみると、合計三八〇〇キロカロリーの熱量がある。現代の成人男子で一日二五〇〇キロカロリー、六十四歳軽労働なら一八〇〇キロカロリーで十分とされるから、寝返りさえ満足に打てぬ重病人としては破格である。

魚の刺身などは十五銭から二十銭した。現代では二千円か。これらは子規だけの特別食である。・・・・・五十六歳の母と三十一歳の妹は、ときに野菜煮などは食するものの、「平生台所の隅で香の物ばかり食ふて」いたのである。

(略、樋口一葉『にごりえ』の登場人物、源七についての説明)

夏の夕暮れ、源七が帰ってくる。仕事は土木工事の人足か大八車のあと押し、疲れて汗みずくである。お初はそんな源七に、まず土間で行水をつかわせる。

そして夕食。おかずは冷奴一品。鉢には、裏の空地で育てた青紫蘇の葉が散らせてある。

亭主に食欲がないのは食事に不満だからではない。一丁百匁(三七五グラム)で一銭五厘の冷奴は好物だ。夏パテのせいでもない。お力への未練が断てないのである。

そうと気づきながら女房のお初は、嫌み半分に、「力業をする人が三膳の御飯をたべられぬと言ふ事はなし」と、しきりに源七にすすめるのである。

冷奴だけで三膳の御飯、『にごりえ』を読んだときの驚きは、まずこれであった。いまは米一合で茶碗に二杯半のご飯、容器がもっと大きかった当時だから、源七はだいたい二合の米を冷奴だけで食べようとしたのである。

思えば、米と豆とが命の綱の明治であった。熱量はそれで足りるし、蛋白質もなんとかなるだろう。しかし、脂肪とビタミンとミネラルは明らかに不足だ。

一葉自身の食生活となると、熱量さえ心もとない。なにしろ一葉と母たき、妹邦子の三人で、一時は月に七円ほどで暮らしていたのである。

樋口家の経済状態は、この時期最悪であった。作家として収入を得ること、小間物商いをしてみること、あやしげな占術師のもとを紹介状もなしに訪ねて、女相場師になりたいから金を貸してくれと申し出ること、みないわばベンチャー・ビジネスの試みであり、見かけとはまるで異なる一葉の気強さのあらわれであった。

『にごりえ』のお力が身の内に抱いて苦しんだ上昇志向の烈しい衝動とひどい頭痛とは、実に一葉自身の反映であった。そして、若い一葉が悩まされた肩こり、弱視、髪の毛の細さ、さらには肺結核の異常に速い進行、それらの根本の原因は、おそらく栄養不足である。

子規の食欲は一葉とは対照的であった。結核菌と対抗するために、堂々と美食をし、大食をした。食べることは子規にとって表現欲と等価であった。または、満たしきれぬ表現欲の補償作用であった。

それはたしかに子規の延命に効果があっただろう。しかし、病勢進んで消化器にも結核菌が巣喰い、「下痢水射」を繰り返す段階に至っては、もはやさしたる助けとはならなかったと思われる。


つづく



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